ストロボ
山奥での撮影時に起こったハプニングのせいでその後のスケジュールも押し、家に帰りついた時には既に時計は11時を示していた。
帰るなり、なるべく消化にいいものを伸が即席で作ってくれて、それを食べてから順番に風呂を済ませる。
食後、事務所から急な呼び出しを受けた伸以外がそれぞれの部屋に戻ったのは大体1時ごろだった。
食後2時間は胃の為にも眠らない方がいい。
当麻は時計を見て2時ごろまでは眠れないと知ると、自分のカバンから携帯電話を取り出してメールを開いた。
送り相手は母親だ。
日本にいる当麻と、アメリカで暮らす母親には時差がある。
ほぼ真逆の時間で生活する親子にとって、メールは大事なコミュニケーションツールだ。
当麻が1日の終わりにメールをする。昼の時間にいる母親はメールを受け取ると、時間のあるときに返信してくるか、時には電話をしてくる。
美容のためというよりも保護者代理として、伸は夜更かしに寛容ではないが、相手が母親の場合にのみそれは許してくれる。
幾らしっかりしていると言っても当麻はまだ17歳だ。それも幼い頃から母1人子1人で生きてきた子供だ。
その母親と離れている今、親子の遣り取りを禁止するつもりは、伸には無かった。
母親へのメールの内容は色々だ。
仕事のこともあれば、ただ何気ない内容のこともある。気に入ったものをカメラで撮り、メールに添付することもあった。
その日、当麻が送ったメールは仕事のことだった。
山奥の撮影で熊が出て通行止めになって暫く動けなかった事は、大人たちからすれば相当困ったようだったが、当麻は密かに面白かった。
目の前に現れたのなら笑い事ではないが、あれだけの数の人間が何も出来ずにただぼんやりと時間を共に過ごすのは滅多とない経験だ。
だからその事と、そして撮影した写真のデータを1つ添付しておいた。
メールを送って暫く待つ。
早い時はすぐに返事が来るのだ。
「……あ、」
来たのはメールではなく電話だった。
慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし」
「当麻?まだ起きてたの?」
「さっきメールにも書いたろ?俺あと1時間くらい寝れないの」
熊、熊、という息子に母親がクスクスと笑った。
それが嬉しくて当麻も笑う。
「そう。本物見れた?」
「熊?」
「ええ」
「無理だよ、見てたらきっと俺、今頃メールも電話もしてないって。ニュースにはなってるかも」
「そんなニュース見たくないわねぇ」
電話の向こうから聞こえるのは母親の声と、微かなクラシック音楽だ。
「……ねぇ、母さん」
「なあに?」
「調子、どう?」
「いいわよ」
軽やかな返事に、当麻はコッソリと安堵の息を吐いた。
一先ず、安心だ。
「ところで当麻」
「ん?」
「送ってくれた写真、凄く綺麗ね。携帯のカメラで撮ったと思えないわ」
「ああ、それはさ、母さんにも見せたいなぁってポロって言ったら、カメラマンがデータをすぐにくれたんだよ」
「あらいいの?だったらコレ、まだ未公開のデータでしょ?」
「いいんだってさ。俺が母さんと離れて暮らしてるの知ってる人で、だったらお母さんにも見せてあげてって言ってた」
「優しい人ね」
「うん。凄い優しい人。滅多な事じゃ怒らないんだって。何でも過去に1回だけかな?他の人からそう聞いた」
「そういう人が怒るって相当ね。何があったのかしら」
「さあ?詳しくは知らないけど、何でも昔、助手を1人クビにした時くらいだって事しか…」
「…………助手を?その助手の人、何をしたの?」
「だから知らないって。きっとロクでもない事したんだろ。だってそのカメラマン、本当に穏やかな人なんだ」
「……当麻、その人、何て名前?」
「え?カメラマン?」
「ええ」
「高橋」
「………よくある苗字ね」
「うん。…どうかした?」
「ううん、何でもないわ。それより当麻、この写真、本当に綺麗ね。こっちのみんなにも自慢していいかしら?」」
「いいけどさ、息子、ほぼ全裸だぜ?」
そうおどけて言うと、電話の向こうの母親はまた笑った。
一瞬沈んだような雰囲気があったように感じたが、気のせいだったかと当麻も笑う。
「あなたの仕事、服を着てるのと裸のと、半々じゃないの?」
「そうでもないって。服を着てるのが6割で、裸が4割」
大差ないじゃない!といよいよ母親の笑い声が大きくなる。
声だけでしか会えない彼女が元気そうで当麻はそれが嬉しい。
それだけで頬が緩んでくる。
「そうだ、当麻」
「今度は何」
「この腕の人なんだけど」
「あ、………うん」
腕。征士の腕だ。
「これ、……………もしかして征士くん?」
「………………」
当麻の心臓が一瞬跳ねた。
母親には、征士と一緒にいる事は勿論話していない。
自分たちを追い出した伊達の人間といるなどと、幾らそれが征士だとしても言いだせなかった。
言ってもいない。
13年も会ってもいない。
なのにどうして母親は、それが征士の腕だと気付いたのか。
それを考えると当麻は急に視界がずんと暗く狭くなっていくように感じた。
「……なん、…で、征士……兄ちゃんって思ったの?」
動揺が声に出ないようにしたかったが、無理だった。
声が途切れ途切れになる。
「うーん……何となく?」
だが母親は気付かなかったようで、あははとあっけらかんと笑っている。
色白の腕のモデルさんくらいいるわよねぇ、なんて言いながら。
「あら、それよりこんな時間まで喋ってたら駄目ね。そっち、夜中でしょ?」
「でも俺、まだもうちょっと寝れないから」
「お喋りの声がいつまでもしてちゃ毛利さんにも迷惑でしょ。…イイ子にしてるの?」
いつまで経っても子ども扱いされる事に、当麻は肩の力が抜けて苦笑いをした。
「してるよ。寧ろ俺、仕事場で超褒められる。飲み込みが早いって」
「そりゃあなたはママの自慢の天才だもの!」
言いきった母親の笑い声が大きすぎて、当麻は一旦電話を耳元から遠ざけた。
「母さんの笑い声、ホント大きいんだからさぁ、そっちの方が漏れて聞こえて伸に迷惑だって」
「あらヤダ!」
「って言っても今晩は伸、まだ帰ってきてないけどね」
「そう、忙しいのね」
「みたい」
「じゃあ尚更、迷惑かけられないわよ、当麻」
「だから母さんの笑い声だってば」
また笑い声を立てた母親は、今度は少しだけ遠慮気味に「じゃあ、おやすみなさい」と優しい声で言って電話を切った。
当麻は暫く電話を握ったままベッドの上でぼんやりとしていた。
撮影の時に自分に向けられた征士の優しい目。
しょっちゅう遊びに来てくれていた幼い頃の記憶を引っ張り出しても、あんな目は見たことが無い。
昔の征士が優しくなかったのではない。寧ろとても優しい人だった。だが、あんな風に見つめられたのは初めてだ。
母親の若い頃にそっくりだと言う自分の容姿に、彼は何を見ていたのだろうか。
そして、もうずっと会っていないのに、それが征士のものだとすぐに解った母親。
「…………………不毛」
思わず呟いた。
何が、なんて事は考えたくも無い。
それでも嫌な空気を引き連れた思考は、どんよりと足元から這い上がってくる。
それを切り離したくて、眠っていい時間にはまだ少し早かったけれど当麻はベッドに身を横たえた。
「………はぁ…」
睡眠に貪欲な身体は、いつもなら横になればすぐに眠れる筈なのに、今夜ばかりは上手くいかず溜息だけが漏れた。
上手く睡魔が寄ってきてくれないのはきっと昼間の熊騒動でテンションが上がったままなのだと、無理に理由を見つけ出す。
滅多とない経験だった。だからだ、と。
そうでもしないと、思考はすぐに昼間の征士に向かってしまう。
再会してからはいつも硬い表情で眉間に皺を寄せていたくせに、自分を見つめて一瞬驚いた後は、見惚れるほど綺麗な微笑を向けてくれた。
とても優しくて、温かい表情。
記憶にある”征士兄ちゃん”も優しかったけれど、あんな顔は本当に初めてだ。
それを思い出すたびに手足の先までが心臓になったように強く脈打つのに、心は酷く冷めて暗い場所に落とされていく。
征士は何を見ていたのだろうか。何を思い出していたのだろうか。
「………母さんじゃなくて、……悪かったな」
自分の中の核心スレスレにある思いを吐き出せば少しはマシになるかと思ったが、今度は胸が痛んだ。
それが辛くてシーツを頭まで引き上げて身体を丸める。
どうしていいのか解らない。
窓から入る光さえも今は見たくなくて、当麻はシーツの中で強く瞼を閉じた。
意識は相変わらずのっそりと渦巻いて腹の底でぐるぐると回り続けた。
*****
前回の征士の時間の少し前。