ストロボ
いつもより少し早く征士が目覚めたのは、首筋や背中に走る慣れない痛みのせいだった。
昨日、道路状況や山奥ならではのハプニングのせいで予定していたモデルが到着できなかった。
そして代理として征士が左腕のみを撮影に貸す事になったのだが、これがまたキツイとしか言いようがないものだったのだ。
もう少し腕を伸ばして。
あ、顔入ってる。
右の肩が下がって入ってきてるから、もう少し引いて。
あー左腕はもっと力抜いて自然に。そうそう…って今度は顎が下がってきてる。
だなんて。
自然光を使うから修正箇所は少ない方がいいと言って、撮影の段階から随分と注文をつけられた。
何でも修正を依頼すると時間も金もかかるらしい。
聞くところによると過去、雑誌の表紙に使うからと女優の写真を撮ってみたらば、仕上がった写真には女優としてはありえない事に鼻からチョロリと
毛が出ていたそうだ。
それも3本も。
これはイカンと慌てて修正を依頼したのだが、照明をバシっと当てて、肌の質感などで元より多少は修正が入る予定だったというのに、
それでも鼻から出た有ってはならない物の修正だけで1日使い、しかも費用が追加で10万発生したというではないか。
たかだか鼻毛で!?と征士も秀も思ったのだが、そういう世界らしい。
実際に腹の足しにもならないものに10万…と秀はつい口にしてスタッフの笑いを誘っていたのを、征士は思い出して笑ったのだが、それだけで首の筋が引き攣って
痛みに顔が歪んだ。
座り込んだ当麻の高さに合わせて征士はまず中腰になり、その頬に腕を伸ばした。
日頃から鍛えているから、この程度の体勢なら暫くは我慢できる。
余裕か。
そう思ったのだが、先程の通りの注文内容だ。
あちらに意識を向ければこちらが疎かになり、こちらを優先すれば今度はそちらが雑になる。
当麻の姿勢だって写真やポスターで見ると綺麗なラインを辿っているが、よくよく見るとあちこちの筋肉を駆使して身体を絶妙のバランスで支えながら
座っているのが解った。
これがお前の仕事か…
と暢気に思っていられる征士ではない。
モデルという立場に関してはド素人の征士は、少しでも気を逸らそうものなら身体の位置全てが駄目出しを食らう事になってしまう。
では全部気を遣っておけばOKなのかというとそうでもない。
姿勢はそのままで、もっと手の表情を優しく、なんて言われてどうすればいいのか解るか。解るわけがない。
大体、手の表情って何だという話だ。
そうして困り果てている征士に、カメラを構えた遼の先生が言ったのが、
「生まれたての天使を見るように、優しい感じで」
という言葉だ。
天使、と言われても。
確かに今回の写真のコンセプトが天使だというのは撮影の直前に聞かされていた。
新しいファンデーションのポスターに使うらしい。
赤ちゃんのような肌ではなく、天使の触り心地だとか何だとかがキャッチコピーだとか。征士にとっては非常にどうでもいい事だ。
だが、天使と言われても。
そういう気持ちで見るだけでいいのか。
そんな考えが表情に出ていたのか、
「考えてる事って表情に出るみたいに、手とか足先にも出るもんなんだよ。慣れないうちは実際にそういう気持ちになるのが一番早い」
と当麻がアドバイスしてくれた。
ちょっと嘲るように。(正直、征士はムカついた)
いや、それよりも天使だ。
言われても、天使だなんて。
思うところはあっても撮影を一刻も早く終えてこの状態から脱したい征士は、大人しく向かいに座っている当麻を無理な体勢のまま正面から見据えた。
天使。
慣れない姿勢に悲鳴を上げる筋肉を必死に無視してそう思った瞬間、カメラのシャッターが鳴るのが聞こえた。
何度も何度も、太陽が雲に隠れるたび、少しでも雲から見えるたび、何度もシャッターは切られた。
緩く回したファンで床に巻いた羽がゆったりと舞い上がり、風に煽られて当麻に被せられた薄い布がはためく。
その度にシャッターは切られ続けたが征士の耳には届かず、彼は只管に”天使”を見つめ続けた。
「おう、征士。早ぇな」
「お前こそ早いではないか、秀」
折角目が覚めたのだからまずはストレッチで筋を軽く伸ばしてからジョギングに出ようと思っていた征士は、降りた先の庭で秀に見つかった。
「俺はアレだ、今日は午前中休みだっつーから……」
ヘヘ、と言葉を濁した秀に、征士が呆れたように肩を竦めた。
「夜更かしか」
「…そゆこと。いや、録画してた番組を片っ端から見てたらつい、なー」
「全く、お前は子供か」
「まあまあ。体操も済んだし俺ぁちょっくら寝るわ。昼前には起きるけど、万が一起きなかったら起こしてくれよ」
そう言って秀は室内へ向かうのを、征士は黙って見送った。
そして完全に姿も、足音も聞こえなくなってから肩の力を抜く。知らない間に強張っていたらしい。
昨日は結局夕方まで身動きが取れなくなっていたせいで、その後の雑誌の撮影も遅れてしまった。
一旦は帰宅したものの仕事が残っているといって伸は事務所に行ったまま、まだ帰ってきていないらしいから、きっと当麻はギリギリまで寝ているだろう。
だったら秀が寝ていて自分も不在になっても大丈夫だろうと征士は準備運動を始める。
組んだ掌をゆっくりと上に向け、身体を引き上げるように伸ばした。
そのまま時計回りに大きく腕を回す。
細胞の1つ1つが意識して動くようで、その伸びる感覚が気持ちいい。
天使を見るように。
昨日、そう言われた。
言われた征士が真っ先に思い描いたのは、小さい頃の当麻の姿だ。
生まれたばかりの頃も可愛らしかったが、征士が一番可愛く感じたのは覚束無い足取りで自分に向かって彼が歩いて来てくれたときだ。
にこっと笑って一生懸命に足を持ち上げ一心不乱に前に進み、そして「ちぇーじ」と舌足らずに呼んだ当麻を思い出していた。
可愛くて可愛くて、本当に天使だと思った時の。
だが目の前にいるのは成長した当麻だ。
自分にだけ反抗的で、可愛げの足らない姿だ。
しかもハシタナイ事に目の前の当麻は、頭から被った薄い布以外は、極端に布地の少ない下着を1枚だけ身に付けている姿だ。
布から透けると修正云々と言うのが理由らしいが、それにしても大事な部分だけしか隠れていない。
これでは本当に裸ではないかと征士は眉間に皺が寄りそうになった。
果たしてコレを天使と思えるのだろうか。
「…………………」
組んでいた手を解いて、左の掌をじっと見る。
昨日、当麻の頬に意識して触れた手だ。
肉厚というわけではないのに柔らかくて、さらりしていた肌。
そこに触れた途端、当麻のほうからも甘えるようにその手に擦り寄ってきた。
口元にはあどけない笑みを湛え、大きな青い目を時にはパチリと見開いて、時にはうっとりと細めて。
天使を見るようにと言われた。
天使だった頃を思い重ねようとした。
けれど実際、征士の胸にあったのは言いようのない温かな気持ちだけだった。
何度も天使と思い、何度も幼かった頃の彼の事だけを思い重ねようとしたのだが、上手く思い出せない。
視線は目の前にある今の当麻に釘付けになっていた。
今思い出しても当麻のうっとりとした表情に気持ちが不安定になる。
それをどうしていいのか何て、考えるだけ無駄なのに。
「………どうも気が緩んでいるようだ」
特にここ数日、今回の仕事を引き受けてからの楽しくも慣れない生活に、どうも今までと調子が狂っているようだ。
心の乱れの原因を日々のせいにした征士はストレッチを終えると、玄関に鍵をかけそのままジョギングに出かけた。
*****
幾ら海外で大学卒業をしていると言っても日本での当麻は未成年のため前日のお仕事は10時まで。
でもそこから帰宅は11時。晩ご飯を食べてお風呂に入ったら全員寝たのは大体2時。
なのにこの日の征士は4時半起き。