ストロボ



息を飲むような美貌で睨みつけられて、遼は思わず怯んでしまった。
だが固まっている場合ではない。
これから彼ら相手に、自分が交渉をしなければならないのだ。
全てはここにかかっている。そう自分に言い聞かせて遼は腹に力を入れて征士を見返した。


「あの、…っ、”腕”、貸してもらえませんか?」





世間に向けて残されるのは被写体となったモデルだけだが、実際の撮影現場には多くの人間が必要となるため彼ら全てのスケジュール調整が必要になる。
屋外となると更にそこに天候問題や場所を押さえられるタイムリミットなども追加要素として増えてくる。

様々なものが1つの事に向けて行われるのだ。
生身の人間や自然を相手にする分、どんな現場でもハプニングはつきものだ。


最上階まで吹き抜けになっているサロンは、天窓から差し込む光が最も美しいと評判だった。
遼が師事しているカメラの先生は、今回の撮影にはどうしてもその自然光が必要だと思っていた。
そして自然光でも粗の出ないモデルが被写体である必要もある。
だから今回はこの山奥のホテルを押さえ、モデルには当麻を選んだ。

ところが同時期にドラマ撮影でこのホテルを使用したいという依頼もあった。
協議の結果、互いに譲歩してどうにか日中の間だけ借りることが出来た。
いつもより若干急なオファーではあったが信頼関係を築いていたお陰で、スケジュールに融通を利かせてもらって当麻に約束を取り付けることも出来た。
先週の時点で確かめていた次週の天気予報では、有難い事にずっと晴天が続いていた。
運が良かった。

ハズだった。
ここに来て順調だった運は、途端に背を向けてしまった。


今回は当麻のほかに、腕だけ写るモデルがいた。
その彼の事務所の幹部から、モデルの乗った車が高速で事故渋滞に巻き込まれて到着が遅れるというものだった。
到着予定時間を聞くと、ギリギリ撮影可能な時間に間に合う。
じゃあ大丈夫かと全員が胸を撫で下ろしたところに、今度は地元の猟友会の人間がホテルを訪れて言うのだ。


「山道で熊が出て危険だから暫く封鎖しています。あなたたちも不用意に出歩かないで下さい」


と。
まぁ小さい山ですしすぐ解決しますから、と猟銃を持つ姿が様になっている男は笑ったのだが、スタッフの笑顔は引き攣っていた。

山奥のホテルへの道は、高速道路を降りて脇に入った山道と言っていいような物1つしかない。
勿論、それは車道の話だ。徒歩ならば幾らでも入ってこれる。現に猟友会の男はここまで来たのだから。
ただそれは険しい道だ。
地元のものくらいしか歩けそうにない道だ。
幾ら腕のモデルが渋滞を抜けて近くまで来れたとしても、そんな道を歩いてきて撮影時間に間に合う筈がない。

スタッフ全員が顔を見合わせた。
案そのものを変えるかという意見もあったが、それを遼の先生は受け入れなかった。
拘りのある人物だ。今回の構図の為に無理を押してここまで辿り着いたのだから、どうしても最初の構図で撮りたい。
そう言って、しかしどうすればと唸っていた。


「………あ」


遼が声を上げた。
必要なのは腕だ。それも、華奢な当麻に対して筋肉質で頼りがいのある、大人の男の。
遼の視線の先にいるのは、交渉の様子を珍しそうに見ている当麻のボディガード2人だった。
どちらも服の上からでも解るほどに筋肉がついているではないか。





事情を説明している間中も、征士の顔は不機嫌そのものだ。
それを気遣った秀が遼ににこやかに話しかけた。


「えっとつまり何だ。俺か征士に腕だけ写真に参加しろって事だよな?」

「ええ、そうです」


失礼、と断って遼が秀の両腕を触った。
確かめるように何度も頷いて、今度は征士のほうに向き直る。
相変わらず眉間に深く刻まれた皺にまた怯んでしまったが、ここで負けてしまうと作品が出来上がらない。
写真家を志す者としてはこの程度で逃げるわけには行かないのだ。
遼はさっきよりも強い声で、失礼、と言って征士の腕を取った。


「………うん、……うん」

「おーい、遼くん、どうだ」


立派なひげを蓄えた、穏やかな顔のカメラマンが遠巻きに尋ねてくる。


「はい、先生。どっちの腕もそれぞれにいい感じです!」


それを聞いて満足そうに笑うと、遼の先生は漸く2人に近付いてきた。


「話は聞いてもらったと思うんだけど…」

「ええ。写真っすよね」

「そうなんだよ。あのね、今回はどうしても座った当麻の頬にこう、…斜め上から触れる腕が欲しいんだ」

「あー……まぁ……いいっちゃいいんすけど…」


言い淀みながら秀は隣の征士を見た。
眉間の皺が深い。
征士の眉間の皺を21世紀の「真実の口」に推奨してもいいと思うほどに深い。嘘吐きが手を入れたら何があっても抜けないに違いない。
そう考えてから秀は溜息を吐く。
征士は絶対に受ける気がない顔をしている。
当麻のモデル活動に対しても良く思っていないのに、自身が参加するなどこの男にはあり得ないのだろう。
明らかに「お前がやれ私は知らん」という雰囲気で立っている。
だが秀だって困るのだ。


「その………腕の部分って、何か布とかあるんすか?」

「いいや、当麻には薄い布を頭から被ってもらうけど、腕の方は素肌そのままだよ」


先生の言っている完成図を遼も知っているらしく、頬を高潮させ、うっとりとした目で頷いている。
きっとかなり綺麗な仕上がりになるのだろう。
だが秀は腕が剥き出しと聞いて困ったように頭を掻いた。


「あぁー……んじゃそのぉ、…俺は無理っすわ」

「なに」


秀の言葉に誰よりも早く反応したのは征士だ。
彼が断れば必然的に自分がやるしかなくなるというのは理解しているらしい。
征士が、腕候補の中に自分も入れていた事に秀は少しだけ安心をした。


「いや、俺ね、前の仕事で怪我してて」


そういってシャツを捲くると、左腕には手首から肘にかけて傷が1本、走っていた。


「…これは?」


あまりの範囲の広さに遼が驚いて尋ねる。


「職業柄、ガードした時に切られたやつ」

「右腕でも構わんのではないのか」


ちょっと得意げに答えている秀の横で征士が間髪いれずに口を挟む。
何が何でも自分は嫌だと言いたいようだ。


「右腕は右腕で、俺、ホレ」


今度は大きく皮膚が引き攣れていた。


「…こっちも仕事?」


遼がまた尋ねる。今度は秀は照れたように笑った。


「いんや、こっちは高校ん時に原付に乗ってて事故ってさ。骨が飛び出しちまった跡」


雨の日だったんだよなーと言っているが、その隣の征士は完全に口元をヒクつかせている。
遼の目も、遼の先生の目も征士に向けられている。
誰も声にはしないが、ハッキリと空気で伝わった。

『じゃ、頼みましたから』





羽が散っている床の上に、ガウンを脱いだ当麻がぺたりと座り込む。
すぐに薄っすらと透けた布を持ったアシスタント達が駆け寄り、それを頭から被せて裸に近い身体を覆っていく。
顔にかからないように、そして素肌を適度に見せるように。

それを見守っている伸は秀の隣で笑いを堪えている。
先ほど遼から説明を受けていたが、楽しみで仕方がないようだ。
腕だけとはいえ征士がモデルをする事に関して胃を痛めているのがどうやら自分だけらしいと知ると、更に痛んだ気がして秀は腹を撫で擦った。
その少し後ろには先ほど交渉に来ていた男3人もいる。
彼らも熊の出没によって帰れなくなってしまったのだ。時間を潰す場所もないし、どうせならと見学を申し出て、許しを得たらしい。


「はい、じゃあオッケーでーす」


遼の声が響く。
征士の説得が終わったらしい。

腕だけでいいからと頼み込まれ、このままでは撮影が終われないと他のスタッフからも頭を下げられては幾ら征士だって断れるわけがない。
心くらい、ある。プロとしての彼らの仕事を全うさせてやりたい気持ちは当然、あるのだから。

だが承諾した直後にかけられた「じゃあ上、全部脱いでください」という遼の言葉にまた眉間に皺を寄せた。
何故。すぐそう問い返して。
しかしここまで来たら遼だって征士のその顔にはもう慣れ始めている。
今度は怯まず、何でもないようにすぐに返事ができた。


「だって今回は自然光での撮影ですよ。捲り上げた服の影が入ったり、フレームにシャツが入ったりしたら台無しじゃないですか」


何回も撮り直しするのを避けるためにも協力してください。
そう言われ、征士は何か言いたそうだったが引き受けた以上ここでごねても仕方がない。
脱いだジャケットを秀に預け、シャツを脱ごうとしたのだがそこで動きを止めた。

殆どのスタッフの興味が、征士に向いている。
無理もない。征士は綺麗な男だ。
無愛想で威圧感しか与えてこないが、それでも美しい事に変わりはない。
現場でいつもむすっとしていた彼が、漸く少し動いてくれるのだ。
見るなというのがどだい、無理な話なのだろう。

しかし征士としては当然、居心地が悪い。
ストリップの趣味などないのだ。


「…………奥で脱いできていいか」


言ってから、生娘か、と自分に突っ込みを入れた。



脱いで戻ってくると遼がそれを見つけ、現場にそれを知らせる彼の声と共にセッティングされた位置へ歩み寄る。
必要のために無駄なく鍛えられた筋肉はモデルのものと違い、実践的でいて荒々しいのに、決して粗暴ではない。
髪の影が入る可能性も考えて、いつもはそのままにしている髪も簡易的に後ろに撫で付けられているため、紫の目が2つとも見えている。
顔も身体も、何もかもが完璧な男は神々しく、決められた位置に征士が着いても暫く誰も動けず見惚れていた。
それはスタッフだけでなく伸も秀も、そして遼の先生も。


「………お前、何やってんの」


ただ当麻だけは違ったようで、呆れた声を出している。

背筋を伸ばして立ち尽くしている征士は神々しかったが、言われて見れば指示を待って戸惑っている彼の姿は”らしく”なく、ちょっと間抜けだ。
当麻は顎をしゃくり、自らの右の頬を僅かに征士に差し出した。

とっととココに触れよ。

その動きに現場の全ても我に返り、漸く撮影が開始された。




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今後は一切引き受けないという誓約書にサインさせた上で征士は引き受けました。サインさせられたのは、伸。