ホムンクルス



朝が来た。
セージはベッドを抜け出し、足音を忍ばせてトーマの寝室へ向かう。
トーマは放っておくといつまでも寝ている。
忙しさからの疲労もあるのだろうと周囲は言うのだが、そんなものではない。単に眠るのが好きなだけだ。
彼に作られて11年になるセージは、”意識”を与えられてからずっとトーマといるのだ。それくらい知っている。

確かに仕事に追われて疲れ果てて眠りが深い場合もある。
その区別は当然、セージにはついているのでそういう朝は少し長く寝かせる事にしているが、昨夜は通常通りの時間に寝ているはずだ。
今朝は起こさねばならない。規則正しい生活は健康な人生の第一歩なのだ。



静かにドアを開ける。
ベッドに埋もれている部屋の主は、寝顔を覗きこむと見ているこちらまで幸せになるほどに心地良さそうに眠っていた。


物音を立てないようにそっと手を伸ばした。
指先を頬に沿わせ、僅かな感触も取りこぼさないように神経を集中する。
毎朝、彼を起こす前にする習慣はまるで儀式のようでもあった。

初めてトーマを見たとき、彼はまだ24歳だった。
目を開けて飛び込んできた情報の中でひと際輝いて見えたのは、彼の青い目だ。
明るく部屋を照らすライトでもなければ、モニターに幾つもの英数字を流し続けるモニターでもない。
彼の空のような青い目だけがセージの中でひと際輝いて見えた。

あの時はそれが何故かは解らなかったが、様々な事を学んだ今なら解る。
あの時、彼は確かに歓喜に満ちていたのだ。
そして自分は。


「………」


確かめるように指を滑らせる。肌の張りはもうあの頃ほどは無い。
色艶も、彼と同年代の人間に比べれば不摂生な生活を送っていることさえ解らないほどに綺麗だけれど、やはり年老いたように感じる。


時々トーマは、皺の事を口にする。
世の女性ほど敏感にではないが、それでも時折「皺が出てきたなー」と言う。
それを聞くとセージはいつも複雑な気持ちになった。

トーマの皺は、笑うと目尻に出来る。
そしてそれは昔より明らかに深くなっている。
彼はただそれを言葉にしているだけなのだろうが、気になるものなのだろうかとセージはいつも不思議だった。
それは世の女性に対してもだ。
彼女達はいつまでも若くあろうと美容に気を遣っている。
そして特製でもある、老いることの無いセージの肌を羨ましがるのだ。
だがセージはいつも不思議だった。

皺は美しいとセージは思っていた。
生きてきた証がそこに刻まれるのだ。
トーマが笑ったときに出来る目尻の皺は特に美しいと思っていた。


日々老いていく彼。
そして永遠に変わることのない自分。

出会う人、出会う人、誰もがセージを美しいと言った。
トーマも完璧な容姿だと胸を張って言ってくれた。
けれどセージはそう言われるたびに、どう表現して良いのか解らない気持ちになる。
褒められるのは嬉しい。トーマの自信作だという自分が誇らしい。
だが同時に虚しくもなる。


「…………トーマ」


名を呼んでみた。
一度の呼びかけで起きる事が無いのは解っている。
起こす目的で呼んだのではないのだ。
ただ、呼びたかったから呼んだ。
それだけだ。
それがどう作用するのかは解らない。
でも呼ばずにはいられなかった。



起こさないように気を遣いながらシーツを捲ってベッドに乗り上げると、セージはトーマの体に抱きつき、そして胸のあたりに顔を寄せて耳を澄ます。

トクトクと聞こえる心臓の音。
これも、美しい音だといつも思っていた。

静かに、けれど力強く、規則正しいリズムで心地よいトーマの心臓の音。

彼が生きているのだという事を伝えてくれる、優しい音。


セージは目を閉じてその音を聞く。
自分の体からは何も音は聞こえない。危険回避のための聴力は敏感に設定されているが、それで体内の音まで拾っていては
セージの世界は雑音だらけだ。
それを避けるために、トーマは体内の音は異変が無い限りは拾わずに済むようにと、なるべく静かな音で動くようパーツを作ってくれていたし、
セージの設定にも気を遣ってくれていた。
だから自分の体からは何も音は聞こえない。
トーマに寄り添った時にだけ、彼からその「生命の音」を聞くことが出来る。


他の誰かの命を同じように感じたいとは思わない。

少し無愛想ではあるが、礼儀正しくて誰に対しても同じ態度で臨むタイプだと思われがちのセージは、本当はそうでもない。
苦手な人間はいるし、好ましく思えない人間もいる。
ただその大半を、どうでもいいと思えるだけで。



セージの世界はシンプルだ。

その存在を世間に公表されるのはあのインタビューが最初になる予定だが、近所の人間は既にセージがどういう存在か知っている。
何かの折にセージが周囲を困らせてはいけないと、ある程度セージが育った時点でトーマが周囲には彼が何者か説明したからだ。
だから知識として知っている事を除けば、セージが実際に接している世界はごく普通の近所付き合いの範囲だけだ。

だが、それよりももっと彼の世界はシンプルだった。

自分がいる。
そしてトーマがいる。

それだけで完成されていた。



誕生日に欲しい物はないか。

そう聞かれた。
皺が欲しいと答えた。
だがトーマは乗り気ではなかった。
けれどセージは皺が欲しかった。
本当に欲しいのかと言われると、きちんと考えるとそうではないのだが、”せめて”皺が欲しいと思った。

日々老いていく彼。
そして永遠に変わることのない自分。

共にいたいと思うのに、現実は残酷なほどに2人の時間の流れが違うことをセージの眼前に突きつけてくる。

だからせめて、皺が欲しいと思った。
彼のように自然に老いていく事は出来ずとも、せめて彼と同じ時間を過ごしているのだと思いたくて、せめてもの慰めにと皺が欲しいと思った。


本当に欲しいものは他にある。
けれどそれを口にして、彼はそれを与えてくれるのだろうか。
許してくれるのだろうか。

処理しきれない思考が渦巻いているのは、昨日の電話のせいだとセージは苛立った気持ちのまま目をきつく閉じた。
人間なら涙くらいは出たかも知れない。そう思いながら。






体内時計がそろそろトーマを起こさなければならない時間を示した。
名残を惜しみながら抱きつく力を緩め、体を起こす前にトーマの心臓のあたりに、布越しに唇を寄せた。
甘い匂いがするのはいつもの事だ。

ベッドを降りて姿勢を正して。
そしていつもの声で。




「トーマ、朝だ。いつまでも寝ているんじゃない」




*****
セージの世界。