らららカレンダー



帰ってきてからずっと当麻の元気がない。

今夜のメニューは当麻の大好きなハンバーグだ。
しかも彼の為にチーズも乗せてある。
基本的に大食いで食べることが大好きな当麻は好物ともなれば目を輝かせて喜ぶだろうと思ったのに、
何故かその箸の進みは遅い。
そのうえ時折、溜息まで吐いている。



帰宅時から当麻の声は既に覇気がなかったが、それは単に11月も半ばを越え寒くなってきたからだと征士は思っていた。
何故なら当麻は寒いのが得意ではない。寒い寒いと言ってプライベートでは極力外出しないで済むようにするほどだ。
そんな彼だから温かい家の中で寛いでいれば、すぐにいつもの彼に戻るだろうと思っていた。
しかし、その兆しが一向に見られない。

では疲れているのだろうか。
そう思って先に風呂に入るようすすめてみた。
それに従った当麻の背を見送り、征士はすぐに冷蔵庫にあるチーズのストックの確認をする。

年上の恋人の味覚は子供っぽい。
黙っていればクールで知的な印象を与える青い目も、好きな食べ物を前にするとキラキラと輝いて本当に子供のようだ。
カレーは甘口が好きで、デザートにヨーグルトを出すと喜んでくれる。
豆腐よりも玉子豆腐のほうが好きだ。
おにぎりの具は梅干や鮭よりもツナマヨネーズが好きだ。
そんな恋人を食事の面で喜ばせるのは結構簡単な事で、だからこそ今夜のメニューでもあるハンバーグを、彼の大好きな
チーズ乗せハンバーグにランクアップ(征士はこの格付けに首を捻っている)してやる事にした。


何も征士だって、家の中で辛気臭い顔をするなとは言わない。
人間は誰しも快調なときもあれば、弱ってしまう時だってある。それは重々承知のことだ。

ただ心配なのだ。

今年初めて担任を受け持って意気揚々と事に臨んだ彼だったが、そろそろ色々な疲れが出てくる頃かもしれない。
誰だって初めての事に当たれば暫くは緊張が続いて疲労さえ感じないが、慣れてきた頃にどっとそれが押しかけてくる。
それを上手く乗り越えられないと悪循環に入り、最悪、精神を病んでしまうケースだってある。
昼休みにたまたま上司から聞いた話では、彼の子供の担任が学級崩壊に悩まされ、もう3ヶ月も休職しているという。
教師という仕事は想像以上にハードだ。一緒に暮らしている征士からみても大変そうなのだから、実際には最早苦行レベルなのかもしれない。
無尽蔵な体力を持つ子供達相手に、30歳と言う若いとは言いがたい年齢で向き合っているのだ。
疲れも出てきて当然なのだろう。

こういう時にこそ、パートナーがちゃんと支えるべきだ。

未だ学生だった頃、見上げた先にある笑顔に何度も救われた征士は、拳を握り締めて誓う。
精一杯、彼を癒して支えていくんだ、と。

因みに征士だって忙しい。
年末に向けて仕事の調整が入り始めているのだ。
一社会人として大変忙しい。それに伊達グループの跡継ぎとして、年末年始の挨拶回りのスケジュールもぼちぼち入り始めてきている。
そんな彼にだって疲れは出るだろうと世間は思っているが、美しい外見をしている征士はその耽美な容姿を裏切ってかなりタフだった。
寧ろ彼の動力源は恋人だと言っても過言ではなかった。
だからそこは問題は全くなかった。(安い男といえば安い男なのだろう)




風呂のドアが開く音が聞こえて、征士は表情は穏やかさを保ったまま腹に力を込めた。
こういう時、接する人間が妙に力んでいると余計に相手も疲れてしまう。
だから何てことのないようないつも通りの空気で、朗らかに優しく相手を包み込んでやるのがいい。と、人から聞いた気がする。


「当麻、今日はハンバーグにしたぞ」


オムレツも甘い目に作った。
食卓に並ぶホカホカの食事を見れば、すぐに笑顔が見れると思っていた。


「うん、ありがと」


だがその征士の考えはあっさりと崩された。
ほんの少しは笑顔が戻った当麻だったが、それもすぐに憂鬱そうな顔になり、そしてどこか重い足取りで冷蔵庫へと向かっていく。

どうしたというのだろうか。
征士は不安になってきた。
怒ったり文句を言ったり、困ったりする事は当麻にもある。
ぼーっとしていて無表情になる事もある。
けれどこんなにも悲痛な表情というのは見た事がない。
知り合って10年で初めて見た。

同世代の人間に比べて随分としっかりしている征士は人の相談に乗ることが多い。
本質を見失うことのない征士のアドバイスは結構厳しいのだが、そこには優しさがある。だから大抵の友人は最終的には征士を頼ってくることが多い。
そんな征士でも、どうしても人生経験という面では厚みが足りない部分はある。こればかりは年齢を重ねなければならないのでどうしようもない。
頭では解っていても、どうしていいのか解らないこともある。
それが今の状態だ。
年上の恋人を支えてやりたい、癒してやりたい。
嘗て彼が自分に示してくれたように、自分も彼に何かを示してその苦しみから少しでも救ってやりたい。
なのに、どうしていいのか解らない。

もどかしい。
その言葉を、征士はただ黙って噛み締めた。




「少しチーズが溶けすぎてしまったのだが…味は大丈夫か?」


それでも最初に決めたとおり、極力いつも通りを装って話しかける。


「大丈夫、すごく美味しいよ」


当麻もへにゃっとした笑みを返してくれるが、その箸の動きがとても遅いことから心の状態が伝わってくる。

何か悩んでいるのか。
そう聞いても良いのだろうか。
だがそう聞いてしまう事で、気を遣わせまいとした相手に余計に気を張らせ、結果として最悪のパターンになったりはしないだろうか。

どこか沈んだ表情のまま食事をする当麻の向かいで、征士も同じように段々と表情が曇っていった。



食卓にあるのは皿を動かす音や、静かな咀嚼音。そして思い出したように混じる他愛のない、だがどこか中身の伴わない会話。
それから時折漏れる当麻の溜息だった。


「ごちそうさま」


結局、いつもの笑顔が見られないままに当麻が食事を終えてしまった。
それに内心焦った征士だが、どう切り出して良いのか解らない。
だから、ああ、という何だか妙な間を持って返事をした。


「最近ずっとお前にばっかり食事当番をやってもらってるから、明日は俺がするよ」


卒業してもう何年も経っている身としてはそんなに記憶にはないが、どうもこの時期の小学校は行事が多い。
9月に家庭訪問、そして10月に運動会。今月だって何かあったはずで、だからこそ当麻は毎日忙しい。
親が見に来るものになると準備として前もって告知するための資料もあるから、当麻の帰りは毎日遅かった。
征士のほうが先に帰ることはザラで、だからこそ食事を作る事も多かったがそれを征士が苦に思った事はない。
どちらも働いているのだから、出来る方がすればいいというのは最初に決めたことだ。


「いや、忙しいのだろう…?私は別に構わないから、」

「いいよ、ホント、悪いし…………その、……俺も気分転換した方がいいし…」

「……………っ」


きた!征士は胸にズンとした重みを感じてそう思った。

気分転換。そう、気分転換が必要だと本人も解っている。
という事は一時的な落ち込みではなく、やはり何か悩んでいるのだろう。
思い詰めた表情に自嘲的な笑みが混じっているように見えるのは気のせいではないはずだ。
食事が終わって使った食器を流しに持っていった当麻は、ベッドに行くでもなくリビングに残り、そして何故かソファではなく
つい先ほどまで食事をしていたダイニングテーブルに戻ってきたのがその証拠だ。

何かを聞いてほしいのかもしれない。
それか、何を話すでもなくとも誰かの傍にいたいのかもしれない。

聞き出すなら今がチャンスだと思った征士は、行儀が悪いのは承知の上で残りの食事をかき込むと台所へ行き、そして当麻と同じように食卓に戻った。


「……当麻」


他愛のない話をするべきかとも思ったが、自分も耐えれそうにないと悟った。
落ち込んだ様子の恋人の姿を見てまだ何時間も経っていないはずなのに辛くて堪らない。
話をすることで解決できるのならそれに越した事はない。
もし解決できないような悩みでも、共有する事は出来る。
彼の苦しみに変わる事が出来ずとも、彼と同じ方向に立つことは出来るはずだ。

そう思った征士は意を決して向かいに座る恋人を見据えた。


「当麻、その……帰ってからずっと元気がないようだが、何か悩みがあるのだろうか…」


ストレートに聞くと当麻は一瞬驚いて、そしてその後すぐに自嘲的な笑みを今度はハッキリと浮かべた。


「…………悩みって言うか………ちょっとね」

「何かあるなら聞く」


言葉尻に被せるように言ってしまったのは、征士の中にも焦りがあったからだ。
その焦りも、若さゆえだ。もっと歳を重ねていれば落ち着いて切り出せただろうが、今出来る事をするのが征士の信条だった。


「いいよ、…大した事じゃない」

「そうかも知れない。だが元気がないのは心配だ。私だって聞くだけなら出来る」

「いいって。ホント、……ちょっとした事だ」

「当麻」

「……大丈夫だよ、征士」


そう言った当麻の笑みは、益々歪んだものになっていく。
耐えられない。
征士は先程よりも強くそう思った。


「当麻、私はそんなに頼りないか?」

「そうじゃないよ、でも」

「私は確かに当麻より年下だ。人生経験も、社会人としての経験も浅い。それでもお前の力になりたいんだ。
何も恋人ぶりたいんじゃない、ただ……大事な人が落ち込んでいるのは私も辛いんだ…」

「………せいじ…」


半ば搾り出すように言うと、後は沈黙が流れた。
どちらも指どころか視線さえも動かさない。
そのまま見つめあい、まんじりともしないままの時間が続いた。



その空気を動かしたのは当麻の笑みだ。
但し、今度はどこか力を抜いた、硬くはない笑みだった。


「……解ったよ、………ありがとう、征士」

「……………………」

「…あのさ、……言うと俺も何か駄目になるような気がして…でも考えないようにすることも難しくって…どうしていいのか解らないんだけど…」


当麻がぽつりぽつりと話し始める。
テーブルの上で緩く組まれていた彼の手に、無意識のうちに征士はそっと自分の手を重ねていた。


「………俺、………………暫く学校に行きたくない…」

「……っ」


学校に行きたくない。

気持ちとしては構えていた。
だが実際にその言葉を聞くと重みは想像以上だ。
どういう反応をして良いのか征士は迷ってしまう。


「その…………、」

「言ったらさ、本当にそうなっちゃうような気がして冗談でも言えないと思ってた。でも征士に聞いてもらったら俺、大丈夫な気がしてきたよ」


ありがとう、と言って席を立とうとした当麻の手を、征士は強く握って引きとめた。
今のままではいけない。
一時的に楽になっても根本が解決していないままだ。
今この手を放せばこの問題について彼と向き合う機会はもう二度と来ない気がして、征士は当麻を引き止めた。


「征士…?」

「それは、その……いつから」

「…え?」

「いつからそう思うようになったのだ」


先月の運動会で見た時の彼は教師の顔だった。
いや、それ以降も家の中に居てもそんな気配なんてなかった。
自分が気付かなかっただけだろうか?そう思うと征士は心が苦しくなってくる。


「いつって……………今日」

「今日?どうして。お前のクラスは何も問題がないように思っていたが…」

「俺のクラスが原因じゃない」

「では学年全体?それとも学校か?」


生徒が原因の場合は已む無いとしても、学校側が原因の場合、褒められたことではないが伊達の家の力で圧力をかけようかと征士は一瞬考えた。
それは絶対に恋人を困らせ怒らせる結果になるだろうが、場合によっては征士は本気で実行してしまう。


「そうじゃない、……原因があるとすれば、それは俺だ」

「当麻に?」


うん、と力なく頷いた当麻は、浮かせた腰を再び椅子に落ち着ける。
視線は征士から僅かに逸らされた。


「何故?今日、何があった?」


セクハラにでも遭ったか、否それなら原因は当麻にはないハズだ。
では何かを失くしたか、しかしその場合、当麻なら逃げることを考えるより先に探しているハズだ。
では、何が?

そう思って聞き返したが、当麻からの返事はなかった。
代わりに何故か頬を染められた。


「……とうま?」


なるべく優しい声で促すと、一度だけ征士に視線が戻って、それからまたゆっくりと視線は逸らされ。
そして、小さな声で。

今度の音楽会、生徒だけじゃなくて担任も一緒に歌えって言われたんだよ。

と、当麻は呟いた。


「………は?」

「だからさ、……ほら、今準備してるだろ?音楽会」

「ああ」

「それが去年までは生徒が歌うだけだったのに、今年から担任も一緒に歌いましょうっていうのになっちゃって…」

「ああ」

「ほら、俺って音痴だからさ、生徒の前で歌うのも恥ずかしいし、親御さんが来るってのにその前で歌うのはもっと恥ずかしいっていうか…
その歌声のせいで、3年の時の音楽会は最悪だったっていう思い出が子供達に残るのも可哀想っていうか…」


…………あー。


おもしろいように、かたからちからが、ぬけるよ。

誇張ではなく征士の頭には平仮名でその言葉がのったりと沸いて出た。
どうしていいのか、今度は別の意味で困ってしまう。
当麻が音痴なのは知っている。
自分の前でなら鼻唄を歌う事はあっても、他に誰かがいれば決して歌わないほどに音痴を恥じている事も知っている。
しかしだからと言って。


子供じゃないんだから。征士はそれ以外にかける言葉が見つからなかった。




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音楽会当日、耳まで赤くして歌う羽柴先生の姿が体育館で見れます。