らららカレンダー



人工的にとは言え、比較的自然の多い場所に征士と当麻の住むマンションはあったものだから、この時期は兎に角蝉が煩い。
マンションで、それも上の方の階ともなれば戸建だった征士の実家に比べると虫が入ってくるという事は殆ど無いのだが、
それでもやはり通路にカナブンや蝉がいる事はある。
だから通路の柵などに蝉がしがみ付いていると、朝からとてもとても煩いのだ。


買い物の帰りに通路で蝉を見かけた当麻は、写真を撮らせてもらいたいんでちょっと家に来てもらっていいですか?と言いながら
そっと手を伸ばし、網も使わずに夏の風物詩を捕まえた。
そして帰宅するなりデジカメ片手にリビングで撮影会が始まったのだ。

来週の25日には夏休み中の特別登校日があり、その日に生徒達に蝉の写真を見せてやりたいのだと言う。


「実物を持って行って見せればいいのではないのか?」


別に虫嫌いというわけではないが、時折濁音混じりのミーンミンという鳴き声を響かせる蝉に目を細めて征士は言った。
それに対して当麻は額にじんわりと浮いた汗を拭いながら首を横に振る。手にデジカメを持ったままに。


「登校日は来週だろ?蝉って結構飼育が難しいんだ。それまで元気な状態を保ってやれる自信がない」

「前日に捕まえるのではダメなのか?」


何も今捕まえた蝉である必要性はない。
それを思って聞いたがやはり当麻は首を横に振った。


「たった半日だとしてもどの程度衰弱するかわからないだろ?蝉だって生きてるんだからこっちの都合で拘束するわけにいかない。
それにこの子みたいに見られる事を許してくれるのが見つかるとも限らないんだし」


それに、と言ってまたデジカメを持った方の手の甲で額を拭った。


「ここのところ熱帯夜続きなんだ。夜にエアコンを切って、無風なのに窓を開けて寝る気力が俺にはない」


当麻の言うとおりだった。
エアコンは人間にとって快適に設計されている。
犬や猫は割と生態が知られているからいいが、昆虫というのは哺乳類と性質が違うためにどう影響するかわからない。
ただあまり良好な結果を生むとは言えないことだけは解っている。

当麻曰く”こちらの都合”で招いた蝉のために、現在、家のエアコンは止められ、代わりに窓が開け放たれていた。
外から入ってくるのは熱風だが仕方がない。
あくまで”招いた”のだから、彼らの環境にこちらが合わせるべきだ。





「当麻、麦茶を入れたぞ」


漸く写真を撮り終えた当麻が、ベランダに蝉を置いて戻ってきたタイミングで征士は言った。
テーブルには氷の入ったグラスが2つある。
礼を述べながらその1つに手を伸ばした当麻を、座って飲むように征士が注意した。


「それにしても写真で見せるのか…」


まだ飛んでいく気配のない蝉を気にしながら征士も麦茶を口にした。


「うん。だって今時の子って、虫に触れない子が多いみたいなんだ」


どこか寂しげに出た言葉に、おや、とその表情を伺うと、やはり言葉と同じ感情をその目に浮かべていた。


「虫が触れないのは勿体無いか?」

「うーん……そうだなぁ…うん、そうかも」


少し考える仕草をしてから当麻は答えを出した。
明らかに自分たちと違う姿をした、それでも同じように命を持った存在を、その感触を含めて確かめる事が出来ないのを惜しんでいるようだった。

1学期の間のことだ。
授業で虫を取りに行こうと外に出たまでは良かったが、生徒のうちの数名が虫を触ることを拒んだ。
怖いという子がいた。
気持ち悪いという子がいた。
それは解る。自分たちと違う生物を触るのだ。それも毛が生えた犬や猫のように万人受けする柔らかな感触もない生物だ。
それに抵抗があるのは解る。
だがその1人の生徒が言ったのだ。

”お母さんが、虫は汚いから触っちゃ駄目だって…”

汚い。言われて見れば地べたを這い回っている虫は汚いのかもしれない。
けれどそんな事を言ったら、目に見えていないだけで粉塵は簡単に舞い上がり自分たちにも付着している。
虫を汚いというのなら自分たちだって充分に汚い。
我が子は特別という気持ちも解るが、それとこれとは別問題だ。


「大体さ、そんな事言ったら虫から見た人間だって気持ち悪いだろ。手足の数は足らないし羽もない、目だってうんと数が少なくて
その上すっとろい。身体ばかり大きくて、よく解らない物に乗って自分で出せる以上の速度で移動するんだ、気持ち悪いだろ。
しかも自然界にない匂いを撒き散らしてる人間もいる。虫だって言葉が通じたら、きったねーって言ってるかもしれないんだぞ?」


流石に生徒相手に言う事はなかったようだが、それでも当麻は納得がいかなかったらしく征士相手に過ぎたことをぶーぶーと言い始めた。

違う生物に触れる事で、命という物を”知る”のではなく”理解する”為にも、本当は色んな物に触れて欲しい。
当麻の教育方針は、同じく教師である父と同じものがあった。


「怖いっていうのはまだ良いんだ。知らないものへの警戒や恐怖は本能として大事だからさ。でも汚いっていう理由で禁止するのは違うよなぁ…」

「そうだな。でも大丈夫だろう」

「何が?」

「当麻の生徒なら、いつか触れるようになる」


私と同じように。
けれどその言葉は何故か恥ずかしくて征士は口に出来なかった。
その自分を、当麻が不思議そうな顔でじっと見ていたので、更にばつが悪くなって征士は視線をベランダに未だにいる蝉にまた移した。




征士が当麻と初めて会ったのは中学2年の春だった。
成績だって学年で10位以内に常につけていたし、生徒会の役員もして、剣道部の次の部長になる事も決まっていた征士は、
誰がどう見ても優等生だった。
それは学校側から見た評価だけでなく、近所の人に聞いても、そして同じ学校に通う全生徒から見てもその評価は一貫されていた。

その征士に、祖父が突然「家庭教師を付ける」と言い出した。
どこからそれを聞いたのか、クラスメイトは必要ないのにねと言っていたが、征士自身もその通りだと思っていた。
だが祖父は頑なに必要だと言い張って、そしてその週末には家庭教師を連れてきていた。

知り合いの大学教授に頼み込んで紹介してもらった先生だ、と祖父が得意げに紹介した人物を見ても征士は納得が出来なかった。
祖父が選んだという教師は実年齢より若く見え、服装も若者らしいものだったし、どこか頼りがいの無さそうな笑顔を見せていた。


初めは祖父の意図がよく解らなかった。
いずれ自分の後継者にと思ってくれているのは、征士も知っていた。
だからより知識を広げさせようというのは何となく解るとしても、それで何故この人物になるのだろうかと内心、首を捻っていた。

当時の征士は、常に自分を律していた。
中学生というのは未だ完全な大人ではないが、かと言って子供というには精神面でもう少し違うような中途半端な年頃だ。
だが小学生ではない。
自分と友達という狭い世界からもう少し視野を広げ、少しずつでも自分の行動言動に責任を持っていくべきだと征士は考えていた。
それに征士は伊達家の長男だ。3人兄弟とはいえ上と下は女兄弟の為に、伊達家を継ぐ事は生まれたときから暗黙のうちに決まっていたことだ。
だから征士はその事もあって自分を律していた。

長男としてこうあるべきだ。
跡継ぎとしてこうあるべきだ。
周囲に恥じないよう、誰にも恥じないよう。

いつしかそれが自分を狭い概念に閉じ込めている事に気付いたのは、当麻と出会ったからだった。

中学生の征士を連れて時には川へ入り、泥まみれになった事もあった。
今更分数を理解しているかと尋ねられ、公式を答えると知っていることと理解していることは違うと言い次の週にはリンゴを持参して現れた。
流星群が見れるというニュースを見た日には、征士の母に高台にある公園で一泊して来る許しを得ると、その日の授業を全てキャンセルして
まるで子供のように夜食と称してお菓子を買いに出かけた。

大人なのに、と最初は思っていた征士も少しずつではあるが好奇心のままに動く当麻のペースに飲まれてき、それを不快に思う気持ちは、
こちらも徐々に薄れていっていた。
当麻先生はこういう人だから。そういう緩い感覚だった。


8月のある日のことだ。
暑くて暑くて堪らない日で、庭の木で大量の蝉が思い思いに鳴いて煩かった日だ。
その日は歴史の勉強をする約束だったのに、伊達家に来るなり当麻は理科の日にしようと言い出し、征士の返事も待たずに近くを通りかかった祖母に
庭の木に登ってもいいか尋ねていた。
流石に断られるだろうと思っていた征士の予想を裏切って、アッサリとそれを許可をした祖母は、


「怪我だけしないようにして下さいね」


と笑顔で青い髪の青年を庭へ案内した。
すると呆気にとられる征士をよそに当麻はするすると木に登り始め、そして蝉に向かって真剣に、


「あの子に少し姿を見せてあげたいんで、ちょっとの間だけ付き合ってください」


と丁寧にお願いしているではないか。
言葉など通じるわけもないのに、と征士は半ば呆れ、そして網もないのにどうするんだと疑問に思っていると、
その征士の目の前で当麻は難なく素手で蝉を捕まえた。
網を持って追いかけた子供の頃を思い出しても、そんなに素直に掴まる蝉など征士の記憶にはいない。
弱りかけているのかと思いきや、蝉は脚を力強く動かしている。だが逃げる素振りはない。
それに驚いていると、蝉は大人しく征士の目の前に突き出された。


「ほら、征士。蝉だぞ」

「………知ってます」


目の前に突き出されても、征士だって困る。
虫は嫌いではないが特別好きでもない。
いるな、という感覚はあるが、ただそれだけの存在だった。
生態や分類する時の要素としての特徴は知っているが、それ以上でもそれ以下でもない。
いや、正直に言うと虫取りなんて小学校の2年を最後にしていない。
久々に間近で見ると、何となく得体の知れない気持ち悪さがあって思わず目を逸らしそうになってしまったが、怖がっていると思われたくなくて
それだけは堪えた。

だがそれを手にしている当麻は征士の事などお構いなしに嬉しそうな顔で、「これが腹でこれが目、ここが口だぞ」と教えてくれる。
そして征士の手にそれを渡そうとしてきた。


「…っ!い、いいです」

「何で?あ、若しかして虫、怖い?」

「そ…うじゃありませんけど………!」

「じゃあ何で」

「子供じゃないんですから虫くらい知ってますし、教科書や図鑑で見れます…!器官の事だって解ってます、だから…!」


道端でひっくり返って死んでいる蝉を踏んでしまった時の感触を思い出して拒絶すると、まるでそれを思い出しているのを知っているかのように
当麻は優しく笑い、そして征士の手を取り手の中の蝉に指先をそっと触れさせた。


「ちゃんと生きてるんだ。強度も感触も知らなきゃそれは理解できないだろ?」







何となく、けれどそれ以降、征士は虫に触れる事に抵抗も、そしてもう中学生だからと言う妙な拘りもなくなった。

当麻が具体的な何かを示して、そういう考えは不要だと教えてくれたわけではない。
だがそれでも柔軟なようで本質だけは見失うことのない彼の姿は、それだけで充分に何かを教えてくれる。

恐らく祖父は自分が詰まらない概念に囚われている事に気付いて、だからこそ彼を教師に選んだのだと大人になった今は理解できる。
このままでは何の面白味もない人間になってしまうと孫を憂いたのかもしれない。
その辺については祖父本人が何も言わないので解らないが、征士は感謝している。

それと、それまで征士は自分の家族に対してもどこか妙な”決め付け”を持っていたものだ。

古くから続く伊達家に家族の誰もが誇りを持ち、そして厳しい人間ばかりだと思っていた。
だが実際には、祖父は風変わりだし祖母は小柄な見た目からは想像も付かないほど器が大きい。
父は実は駄洒落が好きだし母は厳しいが天然でもある。
ただ姉は子供の頃から怖い人だと思っていたのとあまり評価が変わらなかった。し、妹に対する「要領がいい」というのも同じだったけれど。
何にしても、それに気付いたのは当麻が何の気負いもなく彼らに接するのを見て知ったことだった。
今でも伊達家の人間は征士よりも当麻贔屓の気があるが、それは仕方のない事だと征士も解っている事だ。




「身近にそうやって虫に触る大人がいると、子供は安心して触れるようになるものだ」


いつまでも不思議そうな視線を外してくれない当麻にそう告げると、そうか、とやっと当麻が笑った。


「生徒に強要しちゃマズイかなってちょっと悩んでたけど、それ聞いて安心した」

「”当麻先生”でも悩む事はあるんだな」


意外そうに征士が言うと同時に、蝉が飛び立った。
彼(若しかしたら彼女)に遠慮してクーラーを動かしていなかったが、もう出て行ったのなら室外機が音を立てても構わないだろう。
そう判断した征士が外気を取り入れるために開け放っていたガラス戸を閉めに席を立つ。


「当麻先生って………お前また、懐かしいことを…」

「懐かしい?お前は今も教師だろう?」


何を言っているんだと言いながらエアコンの電源を入れた。
微かな電子音と共に冷えが空気が流れ出てくる。
部屋全体が冷えるのには少し時間がかかるだろうが、もう熱風に耐える必要もない。


「学校の子達は俺を”羽柴先生”って呼ぶよ。”当麻先生”って呼んだのは後にも先にもお前だけだ」


少し照れくさそうに言った当麻だったが、振り返った征士の顔を見るなり盛大に噴出したのだった。




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表情に乏しい筈の征士が、凄い目ぇかっ開いて驚いてたんです。