らららカレンダー



当麻は兎に角ひどい低血圧で朝が滅法弱い。
実家にいた時も一人暮らししていた時も、幾つもの目覚まし時計を自分の寝ている場所から部屋のドア、或いはトイレの前まで点々と並べて
それを一斉に鳴らすことで無理矢理自分を寝床から引き剥がして起きていたほどだ。
だが今は征士と暮らしている。
前日の夜がどれ程遅くとも仕事や予定のある日の朝は必ず6時には目覚める彼が起こしてくれるので、今では彼らの家に目覚まし時計は
征士の使うものが1つしかない。
どんな目覚ましでも中々起きない当麻が朝の10時より前に起きることなど、征士の助け無しでは不可能なのだ。


その当麻が朝の5時半にもならない時間に突然、覚醒した。

パチリと音が鳴りそうな勢いで垂れた目を見開くと、勢いよく上体を起こす。
寝癖であちこちに跳ねた髪など構いもせずにベッドから転げ落ちるように這い出た。
そして一目散に目指すはリビングだ。

普段は未だ寝ている時間だ。
身体は完全に目覚めておらずパジャマに足をとられつつもどうにか辿り着いたリビングをざっと見渡す。
テレビの前。入り口付近の壁。ソファにカウチ。オットマンは下も覗いた。
そこで目当てのものが見当たらなければ、今度はリビングと続きになっているダイニングに首を巡らす。
いつものように綺麗に片付いたテーブルの上。そのテーブルとセットで買った4脚の椅子は座面も下も何もない。

ない。ない。ないないない!

無理矢理に起こした身体は貧血からか、それとも焦りからか、当麻はへなへなと床に座り込んだ。


当麻がこの時間に目覚めた理由は、先ほど見た夢だった。
それも飛び切りの悪夢だ。

終業式を来週に控えた金曜日。
当麻は鍵付きのロッカーからソレを抜き取り、大判の封筒に入れて持ち帰った。
3年2組の通信簿だ。
学校では休み時間や放課後になると、譬え職員室にいようとも生徒達が当麻を遊びに誘いに来る。
時間に余裕があればそれに付き合うが、当然、断ることもある。
その日もいつもと同じように断って仕事に集中すれば良かったのだが、通知表の評価をつけるのは大事な仕事だ。
集中してやりたい。
何もそれを持ち出すこと自体は違反ではない。
ただそれは、大事な大事なものだ。

この時期になるとニュースでよく見るのが、通知表を入れたカバンを教師が紛失した、というものだ。
その大抵の場合が帰宅途中で何処かに寄り道をしたり、電車内に置き忘れたりなどが多い。
当麻は車で通勤しているから、まず電車内に置き忘れるという事はない。
だから寄り道さえしなければ、ほぼ確実に無事に持ち帰る事が出来る。

なのに、それを失くす夢を見た。
家中ひっくり返しても見つからず、終業式の7月20日を迎えてしまうという、初めて担任を持った教師としては最高に悪い夢。

そんな物を見て目を覚まし、その存在を確かめようと飛び起きたのだが、ない。
どこにも、ない。


夕べ、最後に封筒を見たのは確かリビングだった筈だと、当麻は背中に嫌な汗を流しながら思い出す。

帰ってきて、そう、確かソファに置いた。
そしてまず夕飯の支度に取り掛かり、征士の帰宅を待って2人でそれを食べた。
その間もソファにあったのだろうか。
当麻はこめかみに指をあて、眉間に深い皺を刻んで必死に記憶を辿る。

これは何だ。

そう、征士が言っていた。
無造作に置かれている封筒を手にして、そう言っていた。
それに対して自分は生徒の通知表だと答えた。
それから?
…そうだ、それから征士が「そんな大事なものをこんな場所に置いていてはマズイだろう」と言った。
彼はネクタイを外そうとしていたから食事前だったはずだ。
ちょうど自分はテーブルに皿を並べていた時で、後で片付けるとか何とか言って、それで征士はどうしたっけ…?

床に座り込んだ体勢のまま、ゆっくりとした動作で部屋をもう一度見渡す。

リビングだ。
そうだ、ローテーブルの上に置きなおしていた。
だが今、そこを見ても封筒なんてない。

封筒が1人で歩いていくものだろうか。そんな馬鹿な。
では泥棒が入った?
いやいやこのマンションはオートロック付きだし、そもそもその場合、気配に聡い征士が起きない筈がない。
やはり封筒はどこかへ置いたのだろう。
誰が?征士が?それとも自分が?


「……………ヤバイ…覚えてない…」


自分だった場合、覚えていないのは勿論妙な話だが、征士だったとしても彼が勝手に何処かにやるとは思えない。
必ず自分に確認を取り、そして何処其処へ置くぞと言うはずだ。
自分でやっても征士がやっても、覚えていない状況というのは妙だ。


さあ、じゃあ通信簿はどこへ?

珍しい色味の髪と同じく、当麻の顔がどんどん青褪めていく。
父親譲りの出来のいい頭は常とは違い、冷静さを失って今は只管にパニックを起こしている最中だ。


「……朝から何をしている」

「っギャ!」


そこに突然、リビングの入り口から声をかけられて、当麻は思わず横倒しになってしまった。


「…………どうしたんだ、そんなに驚いて」

「いい、イキナリ声かけられたら大抵驚くわ!」

「そうか。それは悪かった。…で、朝から何をしている」


珍しく一人でベッドを抜け出たと思ったら…と、いつから居たか知らないが、征士はかなり呆れた顔で立っていた。

正直に話そうか。
しかし何だかそれは情けない。いやしかし背に腹は変えられない。
暫く唸っていた当麻だが、それでも漸く腹を括って征士に素直に話した。

通信簿がないんです、と。



2人の間に沈黙が流れた。
大事な物だといっておいて失くした事に呆れているのか、征士は何も言わずに当麻をじっと見つめ続けた。
それに当麻は居心地の悪い思いをしつつも、だがどうする事も出来ずに、横に倒れた己の上半身をまるで娘のように両腕を突っ張って
支え、その視線に耐え続けた。


「………………当麻」

「……はい」

「お前、昨日の事は何も覚えていないのか」

「何もって……俺の記憶力をなめんなよ」


心底馬鹿を見るような目で見られ(ている気がするのは当麻の被害妄想だと思う)、ついムキになってしまう。
そんな当麻に、征士は溜息を吐くと「では昨日の朝からの事を話してみろ」と言った。


朝は普通だった。
朝起きて征士の作った朝食を食べて学校へ向かった。
学期ごとに授業で教える範囲は決まっているが、クラスによって授業の進み具合はバラバラだ。
当麻のクラスは教師の教え方がいいのか、子供達が随分と積極的に授業に参加してくれるお陰で他より多めに空き時間が出来た。
その時間を3年2組ではドッヂボールをしたり、各班ごとに何か自由研究をしてちょっとした発表会をしてみたりと様々な事をして過ごした。
最後の1週は授業は半日になるし、教室や学校中の大掃除を行うために全て潰れる。
だから自由に使える最後の日だった金曜日、当麻のクラスはお楽しみ会を開いた。
クラスを3グループに分けて劇をしたり歌を歌ったり、そして教室内で出来るゲームをしたり。
中でも椅子取りゲームは大いに盛り上がり、子供達が何度もアンコールを要求した程だった。
特に体力がないわけでもない当麻だが、昨日ばかりは流石にヘトヘトになってしまっていた。


「かなり疲れていたのだろう?」

「でもちゃんと帰ってきたじゃないか」


夕食の献立だって覚えてるからな、と当麻は無意味に威張ってみせる。


「では献立を言ってみろ」

「インゲンの胡麻和えだろ?玉葱とワカメの味噌汁に落とし玉して、それから焼き茄子と豚のしょうが焼き。あとはサラダ」


どうだ、とまた威張って胸を張る。
横に倒れた姿勢そのままに征士を見上げているから、胸を張ると言っても妙な体勢にしかなっていない。
どう見ても苦しそうなのだが、何故か当麻は征士に対して威張る時は薄い胸を張る癖がある。


「当たりだろ」

「そうだな」

「記憶力には自信があるんだよ、昔から!そもそも昨日は俺が作ったしだなぁ、」

「ではその後は?」

「へ?」

「だから、夕食後だ。その後の事はどうだ」

「……………えー…っと……」


夕食後。夕食後。
当麻は声には出さずに口の中でその言葉を繰り返した。

食卓に並んだ食べ物は覚えている。
茄子の焼き色が綺麗だと征士が誉めてくれたことも。
食べているのも、何となく覚えている。
だが、あれ、夕べ自分はご飯をオカワリしたのだろうか。

無理矢理に胸を張った姿勢のままで当麻は視線をくるりと動かして征士から天井へ移した。


「…………………あ、……れ?」


覚えて、ないような、何だか曖昧な、何かそういう………うっすら、そんな感じの、気がしてきた。

どういう事だろうか、と内心焦り始める当麻をしっかり見抜くように征士はまた溜息を吐いた。


「当麻」

「いや、ちょ、チョット待って、思い出す!思い出せるはずだから……!!」

「では当麻、ヒントだ」

「……はい」

「私のカッコをどう思う」


どう、って言われても。
何がヒントだと思いながら再び征士に視線を向けた。
多少寝癖がついているものの、相変わらず恐ろしいほどに整った容姿の男がそこにいる。
6歳下だが並んで立っても歳の差があるように見てもらえないのは彼が落ち着きすぎているからだと、当麻はいつも思っている。
が、そんな事は今は関係ないはずだ。
落ち着いて恋人の姿を改めて見直す。


「………………?あれ?」

「気付いたか」

「…何でお前、俺のパジャマ着てんの?」


6歳差はあるが、征士と当麻は身長に然程差はない。
だが身体の厚みが全く違う。
当麻が肉の薄い身体をしているのに対し、征士は見苦しくない程度に鍛えられた体躯をしていた。
だから同じサイズで服を買うと征士は窮屈になるし、当麻は余ってしまう。

その征士が今着ているパジャマはどう見ても彼にはビッチビチで、肘を曲げるのにも苦労しそうな雰囲気だ。
それはどう見ても当麻のものとしか思えない。
素直にそれを指摘すると、今日何度目かの溜息を、征士がまた吐いた。


「ではお前が着ているのは誰のパジャマだ」

「…………あ」


言われてみれば、ゆったりし過ぎている。
道理で妙に足に纏わりついて何度もコケそうになるわけだと当麻は1人納得した。
だがそれが解っても、そもそもの発端が解らない。


「……なんで?」

「やはり何も覚えていないではないか」






昨夜、食事の途中で当麻がうつらうつらとし始めた。
それに気付いた征士がもう休むかと聞いたが、当麻は首を横に振った。
今日はいっぱい遊んだから汗かいて気持ち悪い…そう、ハッキリとしない声で言って。

睡魔が来ているものの食事は綺麗に平らげた当麻に、征士は再び尋ねた。
もう寝るか、と。
しかし当麻は最初の質問の時と同じ台詞を言ってそれを拒否した。
では仕方がない。征士は当麻を一旦ソファに移動させ、風呂の準備をした。
その間に寝ていたらベッドに運んでしまおうと思っていた。だが当麻はちゃーんと(一応は)起きた。
征士はそれを面倒だなと思いはしたものの、本人が風呂に行くと言っているのだから仕方がない。
風呂まで誘導してちゃんと入れるか見守っていると、当麻は先ず服を着たまま浴室に入ろうとしたではないか。
それを慌てて止め、服を脱ぐよう言うと今度はのろのろとした動きで脱いでいく。
不安が残ったが、もう大丈夫かと思いその場を離れると今度は浴室から激しい水音が聞こえた。


「…当麻!?」


慌てて駆けつけると、其処には眠ったまま浴槽に沈んでいる恋人がいるではないか。
自宅の風呂で溺れてどうする…!と怒る征士だが、やはり寝惚けたままの当麻はイマイチ反応が悪い。
このままでは厄介な事になりかねないし、自分も後から風呂に入るつもりだったから、征士も服を脱いで一緒に入る事にした。

しかし見張っていてもどうにもならない。
されるがままの彼は可愛いといえば可愛いのだが、半ば諦めの境地で征士は当麻の髪と身体を洗い、そして自分を洗っている間も
彼から目を離さないようにしていた。


「……も、出る」


浴槽で身体を温めていた当麻がボソリとそう言って、洗い場の征士を押しのけて風呂から出て行った。
最初に比べると足取りもしっかりしているように見えたから征士はそれを止めはせず、足元に気をつけるようにだけ言って漸く自身も寛いだ。

そして風呂を出たところで気付いた。
用意しておいた自分のパジャマがない。
代わりに残されているのは当麻のものだ。
自分の、大き目のパジャマを着ている当麻はきっと可愛いだろう。
だが逆に当麻のサイズのパジャマを着た自分は、ただピッチピチになっているだけで、笑い以外何も取れそうにない。
そもそも寝苦しそうだと思い、しかし裸のまま出て行くわけにもいかず脱衣所から当麻を呼びつけた。


「………なに」

「なに、じゃない。やっぱりお前、私のパジャマを着ているな」

「んー……………うん」


指摘するとにへっと笑った。
可愛い。けれどそれどころではない。


「こっちがお前のだ。ほら、着替えて」


本人のものを差し出すが、それを受け取る気配がない。


「当麻」

「ヤだ」

「ヤだ、ではない。それは私のだと言っているだろう?」

「ヤだって。イヤ」

「ではそれはもういいから、私のパジャマを持って来てくれ」

「いいじゃん、せいじ、おれのきてよ」

「何故」

「こーかん。いいじゃん、な?」


ヘラヘラっと笑っている姿は可愛いけれど、酔っ払い同様に何だか面倒だ。
それでも仕方がない。
どうも引く様子のない当麻に、征士のほうが折れて無理矢理に当麻のパジャマを身に付けた。

風呂を出て何か飲み物を…とキッチンに足を踏み入れて征士は気付いた。
帰宅時にも指摘した封筒が、未だにローテーブルの上に置かれたままだ。
大事な物だと言っていたのにすっかり忘れてしまっているらしい。
当麻らしくないが、よほど疲れているのだなと苦笑いが漏れた。


「当麻、これはこのままではイカンだろう」


声をかけた相手は既に寝室に入ってしまっている。
夜だが少し大きめの声で伝えてみても、返事がない。
もう寝てしまったのかと思い封筒を手にして寝室へ向かうと、ベッドの上にその相手は座っていた。


「当麻、返事くらいしないか」

「うん」

「うん、じゃない。これは大事なものだろう?」

「うん」

「ではちゃんと保管しておかねばならんだろう」

「うん」

「……………………」


聞いているのだろうか。
不安になりつつも征士はもう一度当麻に声をかけた。


「当麻」

「うん」

「では念のためにこれは此処に隠しておくぞ」

「うん」

「解っているか?」

「うん」

「覚えたか?」

「うん」

「では私はどこへ封筒を隠した?」






夕べはちゃんと答えられたぞ、と言いながら征士が指差したのは寝室にあるクローゼットだ。
中を開けると、あった。通信簿を入れた封筒は持って帰ってきた時の姿そのままに、クローゼットの右側に立てかけられていた。


「……あった…………!」

「あった、じゃない。全くお前と言うヤツは…」

「よかったー…!わーっ征士、助かった!」

「それは良かった。…ところで当麻」

「んー?」

「夕べ、寝る前にお前が言ったことなんだが…」

「うん?」

「大根姫と紅生姜大臣の耳の歌とは何だ」

「……は?」

「寝る前に、”明日の朝歌う”と言っていたぞ」

「ナニソレ」

「知るか。お前が自分で言ったんだぞ」

「言われても俺、そんなの知らない」

「無責任な事を言うな。お陰で私は夢にまで見たではないか」

「夢で見たならいいじゃないか!」

「目が覚めてお前がバタバタしているのを見たら忘れた。気持ちが悪いから歌ってくれ。いや、歌え!」

「無茶言うな!」




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朝から何してんの、な日。
この後2人で歌詞を考えました。が、音楽センスはないので曲はつけられませんでした。