深窓
廊下に倒れている警備員。
荒らされた部屋、割られた分厚い窓ガラス。
床にゴロリと転がったマグと、そこに散らばる部屋の主お気に入りの濃厚なチョコレートドリンク。
それを見つけて屋敷の警備責任者は悲痛な声で叫んだ。
「早く、…っ早く、支社長に連絡を…!!!」
伊達というグループ企業がある。
金融、不動産、保険、それから食品に衣料品、最近ではIT関連にまで手を広げているそのグループは日本だけではなく世界中に
支社を持っている、とてもとても大きな企業だった。
その大きさたるや、この国の政を任されている人間でさえ義理を欠けば翌日には確実に消されていると噂されるほどだ。
そのグループ企業の1つを任されている支社長はまだ若い男だった。
名を、伊達征士という。
年齢はまだ30手前だが相当な切れ者にして、現会長の直系の孫。
その容姿は街を歩けば誰もが振り返り、性格は実直。
常に公明正大でそして何事にも揺るがない信念を持っている男だった。
「…………何て事だ」
既に自立している征士は実家を出て家を持っている。家というより、屋敷と言う方が正しいような家を。
自宅でもある屋敷からの緊急連絡を受け、午後の予定を全てキャンセルして飛んで帰ってみれば(実際、ヘリで帰ってきた)
侵入者があった痕跡と、そして荒らされた1室を目に彼は言葉を失った。
「あーあ、…事件、ですね」
隣で頭をかいているのは警視庁の若きエリート、毛利伸という男だ。
彼は大学在学中に征士と知り合い今でも個人的に交流を持っている人間で、そして彼のある”側面”を知る数少ない人間の1人でもある。
いつも自信に満ち溢れた姿をしている征士が床に残されたチョコレートドリンクの染みの傍にしゃがみ込んだきり、呆然としていた。
「可哀想ですね」
そう言ったのは山野純と言う若い警官だった。
打ちひしがれた征士の後姿に、民間人の平和を守る!と常日頃熱く思っている彼は胸が痛むのだろう。
だがそう話しかけられた伸はひどく面倒臭そうにもう一度頭をかいて溜息を吐いていた。
「可哀想は可哀想だけど……大丈夫かな…」
経済誌にインタビューが載れば普段は見向きもしないような若い女性にまで売れ、即完売というように人気の高い征士だったが、
彼には昔から大事にしている想い人がいる。
こちらも大学在学中に知り合った。
彼に言わせるとその人は、優しくて慈愛に満ちていて可憐で儚げで聡明で自分が守らなければと思うような、けれど決して脆弱ではない人、だそうだ。
因みに聡明と表現したが、桁外れの頭脳を持つその人は伊達グループのシンクタンクを務めている。
そもそも基本的に物欲の薄い征士が、世間で高級住宅街といわれるこの地に広大な土地を買い大きな屋敷を建てたのはその人のためだ。
屋敷の中にはその人のために世界中から集めた本と、それらを所蔵する部屋が幾つもある。
それから星を見るのが好きだというその人のために室内に個人が持つには少々、いやかなり大袈裟なプラネタリウムまである。
他にはホームシアターと、そして美味しいものを食べさせたくてコックごと用意してある本格的な厨房も。
ある程度の遊技場まで用意してあるあたり、相当な貢ぎ様である。
その人が強請ったわけではない。
征士がその人にそうしたいから、そうしているだけだ。
そうそう、その想い人。常と言うわけではないが、1日をベッドで寝て過ごすこともあるらしい。
そう聞くと、大抵の人間は物静かで控えめで、そして病弱な人物を思い描く。
弱い身体では外に出ることも滅多に叶わず、しかし好奇心や知識欲の強いその人。
窓の下に広がるのは色とりどりの花を咲かせる庭で、それを窓辺に寄り添って眺めている寂しげな表情。
その傍らに立つ、美丈夫。
そういう絵を、思い描く。
「いい加減にしろよ」
遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋に吐き捨てるような声色が響いた。
部屋の真ん中あたりには椅子があり、その椅子に座っている人間が居る。
やけにピッタリと椅子に沿うように足を下ろしているが、よく見るとその両足は椅子の脚に括りつけられていた。
両手は手首を纏めて縛り上げられている。
穏便な状況ではない。
昼間は人気がなくなる、1人暮らしの人間が多い街中の一角にあるマンションの部屋に声が響いた直後、何かが投げつけられる。
「あっつ……!!」
弧を描いたのは真っ赤なマグで、それは誰かに当たりそのまま床に落ちる。
中から濃い茶色の液体が零れ出た。
物を投げた人物、投げられた人物。
部屋にいるのはこの2人だけではなく、それを遠巻きに見ている人間が数人、まだいた。
薄暗い部屋の中なので顔ははっきり見えないが、その誰もがしっかりとした体躯をしている。
それに対して椅子に縛られている人間は、ほっそりした身体をしていた。
「こんなん、飲めねぇ」
「す……すいません…」
誰もが息を詰めている。
緊張しているのだ。
話が違う。
誰ともなく思った。
体躯のいい連中は、資産家ばかりを狙った犯罪グループの者たちだ。
そして椅子にいる人物こそ征士の想い人、羽柴当麻だった。
資産家の家族や恋人を誘拐し、そして身代金を奪うのが彼らの手口だ。
家に侵入、若しくは普段通る道で待ち伏せてターゲットを連れ去り、連絡をするまでの間”丁重に”扱う。
それが彼らの常のやり方だった。
連絡をすぐに入れないのは相手を焦らし、金額を吊り上げるためだ。
今回もいつもと同じようにしていた。
人質を座り心地の悪い椅子に座らせ、縛り上げる。自由を奪われた身体はいずれ精神を蝕んでいく。
威圧するように周囲をぐるりと囲み、しかし相手の要求をある程度飲む。
だが丁重に扱っている途中で掌を返したように声を荒げ、時には暴力を振るって人質の精神を更に疲弊させる。
そうやって人質が混乱をきたし恐怖のどん底に陥っていくのを見るのもまた、彼らは楽みの1つとしていた。
その彼らに囲まれている当麻。
熱い飲み物の入ったマグを投げつけられた、
のは、犯人の方だった。
何か要求はあるかと縛り上げてすぐに尋ねた。
すると人質の当麻は連れ去られる前に飲もうとしていたチョコレートドリンクが欲しい、と答えた。
適当にそれを用意して、飲みやすいように椅子の背凭れに縛られていた上半身を解き、代わりにマグが掴める程度に両手首を縛る。
その手にマグを渡すと当麻はふうふうと数度息を吹きかけている。
猫舌なのかもしれない。
伊達という男に愛されている、どこか色気のある青年のそんな仕草に、犯人達は下衆な笑みを浮かべてそれを見守った。
ある程度冷めたところで当麻がゆっくりとマグに口をつける。
直後に眉間に皺を寄せ、マグを渡した男を睨み上げたのである。
クソ不味い。
そう言って。
優しくて慈愛に満ちていて可憐で儚げで聡明で自分が守らなければと、かの美丈夫に言わせる人物の、まさかの言葉に犯人の1人は反応が遅れた。
すると更に当麻の眉間に皺が寄る。
そして言ったのだ。
「作り直せ」
と。
作り直すこと5回。
不味い。薄い。安モン使うな。市販の板チョコでいいから加えろ。チョコのチョイスが悪い。
全てにケチを付けられても大人しく従うのは人質を丁重に扱う段階だから、ではなく、単に驚きのあまりつい反抗を忘れてしまっているからだ。
あと、このタレ目、何か妙に迫力がある。
因みに今までのものは言葉は悪くとも、まだマグを突き返される程度で済んでいた。
投げつけられたという事は、つまりそれだけ当麻の機嫌が悪くなってきている証拠だ。
6回目の作り直しが当麻に差し出される。
可哀想に、犯人の手は僅かに震えていた。
しかしそんな物を気にする当麻ではないので、当然のようにマグを受け取り、口をつける。
そしてまた、刻まれる眉間の皺。
マグを投げられると思った犯人は思わず目を閉じ身を強張らせた。
が、いつまで経っても熱い液体はぶつけられない。
恐々目をあけると正面の斜め下にある顔は、やはり眉間に皺を刻んだままだ。
「………………飲んでみろ」
マグを突き出される。
味の評価もなく飲めと言われるとそれはそれで、怖い。
だが受け取らないとまた静かな罵声と共にマグを投げつけられかねないので、男は大人しくそれを受け取って1口飲んだ。
「どうだ」
当麻に問われ、男はどう答えていいのか少し迷っているようだった。
「正直に答えろよ。どうだつってんだろ」
「あの………甘すぎるかな、と」
甘いのがいいと言うので常識の範囲内で甘めに作っていたのだが、どうも当麻が納得しない。
だから今回はいっその事と半ば自棄になり砂糖を入れまくってみたのだが、やはり常人には甘すぎて吐きそうだ。
「だろうな」
だがそれは当麻の口にも合わなかったらしい。
垂れた眦で睨みつけたままだ。
「人間が飲めねぇようなモンを、出すんじゃねー!!」
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常識の範囲を超えた甘党のくせに人間ですかとか言ったら、きっと豊富な語彙でマシンガン状に責められるので黙る犯人。