スペース・ラブ
3階の廊下を足を踏み鳴らして歩く男が居る。
彼は以前、足音を潜め気配を消してベース内を歩いていた筈だが、今はもうその必要がなくなったために自分の感情を体全体で表しながら、
靴音が響きやすい3階の廊下をズンズンと進んでいた。
頬に大きな傷を持っているその男は、内部調査室に所属している悪奴弥守だった。
彼は朝から駆けずり回っていた。
朝と言っても今日の朝ではない。一昨日の朝からだ。
シカイセン議長の解任と、そして同じくバダモン議長の解任があったのは1週間前の事だ。
羽柴当麻への襲撃や盗撮に関してそこに関わった者の記憶データは、再度の取り直しと調べ直しがその後すぐに始まった。
勿論、その解析にはチーフである那唖挫が立ち会った。
彼は部下の誰もが見落とした小さな修正痕を見事に見つけ出し、それを洗っていけば出るわ出るわ、シカイセンの姿と、バダモンの姿が。
しかもその中の幾つかはシカイセンの姿に修正されたバダモンの姿も紛れていた。
因みにシカイセンは容疑を認めてはいるものの、エリア全体の関与については完全に否定を続けていた。
しかしエリアからは自分たちも関わっていたという自供が次々に届いている。
嘗て政府が流通に規制をかけていた事実はあったから、恐らくその辺も含めてある程度配慮した裁定が行われるだろうけれど、
どちらにせよこの件については時間がかかることには違いない。
一方でバダモンだが、彼の方は直接手を下していなくとも関与しているであろう件が余りにも多く、未だ調査の段階で手間取っていた。
そのことを受けて、今まで内部調査室の仕事が適正だったのかという事にまで事態は及び、以前より在籍しているメンバーで、しかも
あの議会の時に当麻から名指しで表に姿を引きずり出された悪奴弥守が、その調査に当たらされていた。
それが一昨日の朝だった。
因みにあの日、議会が開かれていた部屋に悪奴弥守が居た理由は、実はバダモン糾弾のタイミングを待っていたからだった。
確かに彼は内部調査室に所属しているし、そしてその上司に当たる室長はバダモンだったが、実は少し前に総長補佐官から直接、
バダモンの周辺を洗うよう指示が下されていた。
そこで彼が見つけたのは、解析部門の中に議長に繋がっている人物だった。
その人物は実は那唖挫が不在の際に部門を取り仕切る地位にある人間だった。
議会の閉会の後の、バダモンによる三文芝居の後にそれを証拠として突きつけ、彼を糾弾しようと思っていたのだ。
内部調査室が今まで秘密の存在だった理由は単に正体が解らないほうが調査しやすいから、というものだった。
だがそれに限界を感じていた補佐官は、そろそろ表に出して牽制した方がいいと判断して、総長派の悪奴弥守に話を持ちかけていた。
その悪奴弥守にしても立場を明かせば四六時中、気配を消さなくて済むという単純なメリットがあったからその話には乗った。
それにあの議長にはそろそろ飽きてきていた。それを糾弾して一泡吹かせるというのは面白いかもしれない。
そう思いながら、その時が来るまでは調査室の一員として上司の指示にある程度従って動いていた。
なのに実際にはどうだ。
その面白そうな役割が番犬に取られただけでなく、新しい室長の存在を自分は補佐官から一切教えられていなかった。
そりゃ確かにバダモンが室長を解任になるのだ、誰か後任が来るのは当然の事だとしても、それがまさかあの可愛くない天才だなんて。
しかも彼に呼ばれて舞台に上げられ、そして自分の持っていた証拠を出すなんて、悪奴弥守としてはちょっとカッコ悪く思ってしまう。
これが面白いわけがない。
征士が柳生の屋敷に向かっていた日、実は当麻は補佐官と向かい合っていた。
当麻が内部調査室へ異動するのには勿論、柳生のコネを使ったのは言うまでもない。
ただそのコネは補佐官への面会を得たところまでだ。
内部調査室室長への異動はコネではない。
どちらにせよベースの上層部も、そして政府も当麻をもっと目立つ地位に持って行きたい気持ちは前々からあった。
それは勿論、政府への心象操作のためだ。
彼らが望む事を具体的に言えば、T-54738451開発者として名前と顔を公表する事だ。
それを呑むかわりに当麻が要求したのが、内部調査室室長の席、そしてあるハンターの異動だった。
開発者として名を明かすことで危険は増えるし、室長ともなればそれなりに狙われる事も多くなる。
それらから身を守るためには番犬が必要だと言って。
取引と言えばそうだが、実際に当麻が有能なことは補佐官の男も知っていたし、どちらにせよバダモン解任は決まっていたことなので、
その要求はアッサリと受け入れられた。
現在、当麻は本人が危惧したとおり内部調査室室長としての地位を明かしたがために、就任から1週間しか経っていないと言うのに
取り入ろうとする者や、逆に消そうとする者の両方から付き纏われていた。
勿論、消そうとしている側に対しては番犬でもある恋人が、室長に触れる事を一切許さない上にその室長自身がスナイパータイプのため、
狙撃があるとすれば何処からかというのを知り尽くしているから、それらが成功した事は一度もない。
その陰にはちゃんと悪奴弥守の存在もあるのだが、彼からすれば迷惑な話だ。
退屈は嫌いだが、忙しすぎるのも好きではない。
だから悪奴弥守は此処最近、面白くない。
余談だが、取り入ろうとする側も様々な手をつくしていた。
解りやすいところで、明らかな下心を込めて高い腕時計を当麻に贈った者は、
「すっげーセンス悪い。俺、こういうの嫌い」
という遠慮のない言葉で叩き切られ、また別で老舗ブランドのスーツを贈ったものは、
「恋人でもないくせにどういうつもりだ」
と嫉妬深い、誰も敵わないようなような美貌の持ち主に一睨みされて何故か心をボキボキに折られてしまった。
因みに当麻が食道楽だと知った者は、お高い上に予約さえ取るのが難しいレストランでの食事に誘ったのだが、それについては、
「俺、美人としか飯食わないの」
とアッサリと断られていた。
大体彼の恋人以上の美人などそうそう見つからないのだから、こう言われてしまっては手の施しようもないではないか。
墓参りのあの日、征士に悪奴弥守が向けて言った通りに、彼らは糾弾を恐れる議長達にとっては「最低のペア」だった。
それは悪奴弥守にしても同じだった。
誰も寄り付かない非常用扉を開けた先に、実は内部調査室は存在していた。
今、そこに向かって足を踏み鳴らして進む彼だが、部屋に近付くにつれて段々とその歩調は弱まっていく。
何も室長が怖いわけではない。
当然だ、童顔で垂れ目のあの青年を、悪奴弥守ほどの男が恐れる事などないのだ。
…頭が切れすぎてちょっと厄介だなと思いはしても、恐れて堪るか、というのが本音だったりするが、まぁ置いておく。
人使いの荒さに文句は言いたいのだが、その扉を開けるのにはかなりの勇気と気力が必要になる。
悪奴弥守はドアの前に立つと、彼らしくもなく3度ほど深呼吸を繰り返した。
落ち着いたところで腹に力を入れて自分を奮い立たせる。
「…入るぞー」
声が僅かに震えたが、それは仕方がない。
「おかえりー」
そう言って自分を迎えてくれたのは室長だが、そのすぐ傍には番犬がいる。
彼の机は悪奴弥守と並んでいるのだが、彼がそこに座っている事は滅多にない。
部屋にいる時は常に室長の傍に椅子を持っていって、そこで必要以上に寄り添って何かしら話をしているのだ。
いや、自分の椅子に座っている時はまだいい。
最悪なのは、
「…………そういうのは家帰ってからやってくんねぇ?」
室長の椅子に征士が座り、そしてその膝に当麻を乗せている時があることだ。
そういう甘い雰囲気が苦手な悪奴弥守としては本当にやめて欲しい行為でしかない。
「野犬が帰ってくるとは思わんかったからな」
その上、番犬は相変わらず憎たらしいことしか言わない。
征士の仕事は室長の身辺警護が主だから、悪奴弥守のように外で動き回る事は滅多にない。
そして内部調査室の存在と室長の他、メンバーとして2人の名は公表されたが、他のメンバーについては未だに未公表のままだ。
その彼らも勿論、調査で外に出ている事が多い。
となるとこの部屋には自然、征士と当麻が2人でいることが多くなる。
常識は弁えているのだ、何も仕事場で事に及ぶことはないが、それでもイチャイチャイチャイチャしていると思うと、扉1つ開けるのにも
悪奴弥守のように免疫のない者はかなり気力を削られる破目になる。
だが彼らにも言い分はある。
普段はそうでなくとも、一度集中すると猫背になってしまう癖が当麻にはあった。
それを後ろから引っ張って矯正するために征士がいるのだが、後ろに立ってそれをするのも中々に疲れるので、
それで、その、膝に乗せる形になる。らしい。
一応は周囲に気遣っているそうで、人が来ればそれはすぐにやめてくれる。
だから今も悪奴弥守が帰ってきた時点で、当麻は征士の膝から降りたし、征士は自分の椅子を引き寄せてそこに腰を下ろしている。
「……で、今度は何を見てたんだよ」
「んー、資料。と、カタログ」
「カタログ?」
机の上にはいつものようにカフェオレと、資料はバダモンに関するものばかりが見受けられたが、カタログとは何だろうか。
そう思って悪奴弥守がディスクを渡すついでで机に近付くと、そこには家のカタログがあった。
「……んだよ、お前ら、家買うの?」
「まだ先の話だけどさ、老後に住む家の事、考えようかなって」
「…………お前、次で31じゃなかったっけ?」
「うん」
「気ぃ早すぎんだろ」
「でもやっぱり考えときたいし」
言われて悪奴弥守も何となく考えた。
調査室にいる自分たちは恐らくあの警備の厳しい、一般的には高級住宅地と呼ばれている区画に居を構えさせられる事になるのだろう。
それは優雅かもしれないが、刺激が足りない。
そんな暮らしの事を考えるのは悪奴弥守の性には合わなかった。
「……ま、お前らはあのエリアの一等地に、蔦の絡まる豪邸でも立ててジジイんなっても仲良く暮らしてて下さいな」
適当な言葉で切り上げて、ディスクをそのカタログの上に落とした。
これでこの話も、自分の現段階の仕事も終わり。そういうつもりだった。
「あ、俺、あのエリアには住まないから」
だが当麻のほうが話を続けてしまった。
しかし、住まない、とはどういう事だろうか。
「俺らの意思なんか関係なくあの辺に住まされるモンだぜ?」
「でも住まない。俺、それも条件の中に入れたから」
「………………」
思わず悪奴弥守は眉間に皺を寄せてしまった。
「条件って、……開発者として公表する交換条件?」
「そ」
「じゃあどこに住むんだよ」
「私の故郷だ」
横から口を挟んだ番犬は、無表情は無表情なりに、それでもどこか幸せそうな顔でそう言った。
「当麻が出張の際に、あそこが気に入ったらしくてな」
そして誇らしげだ。
やってられない。やってられない。まだ1週間しか経って居ないと言うのに、もうウンザリしてくる。
オペレーションルームの連中は毎日こういう遣り取りを見せられて、苦痛ではなかったのだろうかと悪奴弥守は天を仰いだ。
「あー……そぉ」
バダモンの件が全部片付いたら、長期休暇を貰おうか。
それか思い切って辞表でも出してしまおうか。
そんな風に考えている悪奴弥守を気にもせずに、当麻は次に調べてきてもらう資料の整理に取り掛かっていた。
**END**
はた迷惑なほどに、仲良し。