スペース・ラブ
その日は朝から風がなかった。
空には雲もなく、見事に晴れ渡った青空が広がっている。
政府が所有している墓地の周辺には、高い建物が何もない。
そこに眠っているのが英霊ばかりで、そこを訪れるのは専ら近しい者ばかりだ。
英霊である以上、彼らは英雄で、だからこそその家族の姿を一目見たいと思う人間がいないとも限らない。
中に入るには許可が必要になるために部外者がそこへ入ってくる事はないが、それでも周囲に高い建物があればそこから覗かれる可能性がある。
それに英霊やその家族に対して悪い感情を抱いている人間は少なからずいるものだ。
それらからも守るために、墓地周辺には高い建物がない。
ただ随分と距離を開ければ、都市部なので当然高層の建物はある。
だがそれらは距離が程遠く、スナイパーでもかなりの腕と、そして余程の運がない限り狙撃は出来ない。
例えば、風のない、よく晴れて見通しのいい日だとかの、運が。
男は都市部のシンボルにもなっているタワーの外に居た。
彼がいるのは外と言ってもタワー最上部に近い、点検時と照明の入れ替え時期にしか人が入らないような場所で、通常ならIDパスが必要になる、
関係者以外は立ち入ることが許されないエリアだった。
そこに男が、1人。
持ち込んだカバンを開けて、取り出したパーツを黙々と組み立てていく。
組みあがったのは狙撃用のライフルだった。
旧式のそれは彼の拘りだ。
「…………時間は、まだあるか」
時計を見る。
ターゲットとなる人物が来るにはまだ少し時間があった。
彼が毎月決まった日の午前中に両親の墓を訪れていることは既に知っている。
幼い頃に両親を亡くし、その両親を誇りに思っている青年。
ターゲットとなる彼には何の怨みも無いが、ともう一度スコープの微調整をした。
正直、ターゲットは誰でも良かった。
政府への警告に使えるのならば議長でも、そして補佐官でも総長でもそれは良かった。
彼を…羽柴当麻を選んだのは、単に彼という存在がお誂え向きだったからだ。
その生い立ち、頭脳、ベース内における彼の地位、そしてその容姿と最近出来たという、こちらも人並みはずれた容姿の恋人。
どれも人の注目を集めるには充分すぎる要素だった。
その彼を、警告として始末する。
否、警告だけではない。彼を始末してその遺体を回収すれば、政府が漏らしたくない情報が山と出てくるはずだ。
これほどお誂え向きのターゲットはいなかった。
男は時計を確認した後で首からぶら下るロケットを開いた。
中には幼い少年と少女が笑っている写真が1枚、入っている。
「フローラ……」
幼い頃に命を落とした妹。
あの時、あの風邪が流行っていた時、政府が非加盟エリアへの薬の流通を一時でも解放してくれれば、
彼女は自分と同じように歳を重ねる事が出来たのかも知れない。
そう思うと悔しくてたまらなかった。
憎しみは今も消えない。
エリアでの有力者が政府に加盟すると言い出した時は誰もが反対をした。
当時はまだ幼かったが男もそれに反対していた。妹の命を、利権の為に奪った連中になど従いたくはない。
誰もが家族を失った身だった。誰もが同じように言っていた。
だが彼は言ったのだ。
我々の苦しみと悲しみを、時間が幾らかかっても連中に思い知らせてやる、と。
従順になった飼い犬に、手を噛まれる以上の痛手を負わせてやると言った彼に、エリアの人間はもう反対をしなかった。
彼と共に、地獄への道を辿る事を選んだのだ。
スコープを覗いた。
墓の前に立つ人影は、未だない。
大切な人を失う事の辛さを、恐らく痛いほどに知っているであろう彼を始末する事に胸が痛まないでもない。
だからせめて彼の両親の傍で、両親が亡くなったとされている日に、愛する人と一緒に逝かせてやろうと議長と決めていた。
彼には罪はない。
ただ、政府に与していただけ。ただ、それだけだ。
彼への襲撃は、どれもこれも直接対面するものばかりを選んだ。
そうすることで周囲には彼らの存在を見せ付けるために、そして彼らには襲撃者は直接の攻撃しかしてこないと印象付けるために。
男はこの日の為に狙撃訓練を受け続けてきた。
腕は間違いのないものになっていた。
先ず、羽柴当麻を撃つ。そして直後にその恋人も、撃つ。
魂というものの概念はよく判らないが、それでもあまり時間を開けると彼らの魂が離れ離れになってしまうのではないかと思ったからだ。
ターゲットは誰でも良かった。
だからこそ、お誂え向きになってしまった彼を哀れんでもいた。
見晴らしのいい場所は事前に何度も足を運んで確認もしている。
与えられたIDパスは、勿論、議長が用意したものだ。
男はもう一度ロケットの中の写真を見た。
微笑んでいる妹と、幼いながらも兄らしくしようと口をきつく結んでいる自分。
それに彼は微笑みかけた。
フローラ、ゴメンな。兄ちゃんはお前の元へはいけない。
今から人の命を奪うのだ。
明るく誰からも愛されていた妹と同じ場所に行けるはずがない。
だが直後に、どうせ大きくなりすぎて妹は自分が兄だと気付かないかと思い至り、微笑みは苦笑いに変わった。
もう一度スコープを覗く。
丸い視界に人の足が入った。
そしてすぐに身体も入り込んでくる。
来た。
恋人と寄り添うようにしている青年の髪は青い。
間違いなく、彼だ。
両親の墓に花を置いている。
アンタに怨みはないんだ。
そう口の中で呟いて、男は引き金に指をかける。
昨日、地元を離れる前に妹の墓に寄って彼女に好きだったラムネ菓子を供えてきた。
これが成功すれば何かが出る前に自ら命を絶つと決めていた。自分に未練として残るものはない。
ただ、彼を撃ち抜くだけ。
「…………………?」
違和感を感じて声を出そうとしたが、それは出来なかった。
代わりに空気が漏れる音と、何か生暖かいものが胸を濡らしていく。
引き金を引くにはもう心が乱れてしまっていた。
「………っ、……っご、…」
言葉を巧く続けられない。
しゃがんだままの体勢から力を失って倒れこむと、いつの間にいたのか、そこには見知らぬ男が立っていた。
男の頬にある傷が、印象的だった。
「馬鹿じゃねーのか」
面倒臭そうに言うと、タワーの清掃員の格好をした男は足元に転がって既に意識のない狙撃手の頭を軽く蹴った。
冷たい視線のまま尻のポケットに入れていた電話を取り出すと、登録しているアドレスから1つを選んでコールする。
「さぁ、知らない番号でも出るのかな?」
笑うように言って先ほどまで狙撃手が覗いていたスコープを覗き込む。
丸い視界の中では、通話相手が丁度胸ポケットから電話を取り出している姿があった。
3回、4回、………7回鳴って、電話は繋がった。
「お前、」
「悪奴弥守?」
馬鹿じゃねーのこんな時に無防備過ぎンだろボケ。
そう言おうとした男の耳に、疑うような言葉が投げ掛けられた。
悪奴弥守。そうだ、自分の名だ。
だがそれに驚いている場合ではない。
スコープの中の青年、当麻はまるで此方の様子がわかるように悪奴弥守のほうを向いて、笑っている。
「…………テメェ……俺をハメやがったのか」
予想も着かない展開は嫌いではないが、自分が主導権を握れない状況は好きではない。
苦々しく言えば、笑い声が聞こえてくる。
「半分成功して、半分失敗した」
「んだと?」
「アンタみたいなタイプは、てっきり忠告の為に姿を見せてくれると思ってたんだけどなぁ…まさか電話だとは思わなかった」
ていうか何で俺のプライベートの番号知ってるの?と電話の相手は言っている。
スコープの中の彼はニコニコとして、時折手まで振ってみせる始末だ。
気に入らねぇ…
悪奴弥守は益々苦い顔をした。
相手には当然見えていないだろうが、舌も出してやった。
「今日は顔、拝めない?」
「ったりめーだ、アホ」
「ケチ。…ところでさぁ」
「んだよ」
「アンタの忠義はどこにある?」
さっきまでの軽い調子ではない問いに、悪奴弥守は黙った。
忠義、と言われても。
「俺がバダモン議長の指示で動いてるってのは、お前の恋人から聞いてるんじゃねーの?」
言ってないとしたら随分と秘密の多い恋人だねと皮肉を込めていったが、当麻からはもう笑い声は返ってこなかった。
「指示をしてる奴じゃない。ついでに言うと、アンタの所属している部署にも興味は無い。ただ、アンタの忠義の先を聞いてるんだ」
「………………マジ、可愛くねぇな」
「可愛いって言う評価は聞き飽きてきたんだよ」
スコープから見える顔は相変わらずの童顔だが、その眼差しは強い。
「………俺の忠義、ね」
その視線に、悪奴弥守は何となく喋ってもいいような気がしてくる。
「そりゃー勿論、総長様さ」
だから本当の事を教えた。
ただ相手がどう受け止めるかは知らない。
どういう場面に於いても、幾ら自分がどう思おうとも所詮は相手の受け取り方で何もかもが変わるものだ。
それを理解したうえで言葉にしたが、相手はどうやら信じてくれたらしい。
スコープの中の彼は満足そうな顔をしていた。
「そ」
たとえ、返事は短くとも。
スコープを覗く姿勢にも疲れてきたなと思った頃に、当麻の隣にいる征士がその細い腰を抱く腕に力を込めたのが見えた。
そして電話から、楽しそうだな、という少しくぐもった、明らかに拗ねた声が聞こえてきて悪奴弥守も潮時かと姿勢を戻した。
「じゃ、番犬にヨロシクとでも言っといてくれや」
「黙れ野犬」
聞こえた不快なまでの低音に驚いて再びスコープを覗き込むと、いつの間にか電話は征士の手にあった。
恋人が見ていたのと同じ方向を見ている彼の眉間には皺が深く深く刻まれている。
どうやら恋人が自分以外の男と楽しくお喋りしていたのが気に入らないらしい。
「心狭ぇな、おい」
「だとしても貴様には関係ないだろう」
「…………マジ、お前らって最低のコンビだな」
可愛い方は可愛くないし、美人の方は性格が歪んでいる。
「……ま、いいけどよ。それよりも」
「何だ、まだあるのか」
「忠告は聞いとくモンだ。”議長には気をつけるこった”」
相手からの短い返事を受けると悪奴弥守は通話を終了し、足元に転がっている男の脈をとる。
既に事切れている事を確認するとアドレスから先ほどとは別の物を選んでコールした。
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総長はあの人で、補佐官はあの人。