スペース・ラブ
週末に予定されていた伸との食事は、結果から言えば「最悪」の一言に尽きた。
だがこれは当麻側の結果であって、伸に言わせれば「最悪を免れてよかった」になる。
伸が予約していたのは彼の姉夫婦が経営する小さめのレストランだった。
厨房を担当するのは伸の義兄でフロアは姉1人のみというささやかな店だが、人気はあるらしく2人が店に着いた時は既に満席で、
予め伸が予約を入れておいたお陰でどうにか席を確保できる状態だった。
その店で、結局気分が悪くなった当麻は折角の食事を吐くために何度も席を立ったのが決定打となり、伸に身体の異変がバレた。
尤も伸からすれば吐く為に席を立たずとも、店で一番人気の仔牛のカツレツに一切彼が手を付けていない時点で何となくは解っていた事だ。
「………あまり、無理はしない方が良いよ」
両親の件以降のあらましを半ば無理矢理に当麻から聞きだした伸は、細くなった身体を抱き締めてそう言った。
浮いた背骨を撫でると、涙が止まらない。
淡々と、そして冷静に全て事を運んだ開発者は、あれ以来肉を切ることも、食べることも出来なくなっていた。
なのに人前では平然と振舞うから性質が悪い。
周囲は当麻の事を稀代の天才だとか孤高の天才だとか好きなように呼び、人によっては尊敬を、或いは畏敬の念を持って
見るようになっていた。
それらの感情に対して当麻は何て事のない態度で応えていた。
自分に出来る事、すべき事をしただけであって自分は大層な人間ではない。
そういう顔で人懐っこく、そして時には驚くほどだらしない姿を見せていた。
確かにそういう面は元々彼の中にあったのだろう。普段の仕草からそういう面は見て取れた。
けれど今見せているのはどれもこれも、伸には殊更その面だけを強調して無理に取り繕っているようにしか見えない。
「辛いなら辛いって言って、当麻。…僕には話を聞いてやるくらいしか出来ないけど、誰かに話すことで楽になる事は沢山あるから」
泣く事さえなくなった当麻の代わりに伸は滂沱と涙を流してそう告げると、何度も当麻は頷いた。
ありがとう、聞いてもらって楽になった。そう言って。
嘘じゃない。
伸が無理矢理にでも聞き出してくれたお陰で随分と気分は楽になっていた。
もう吐くような事はないような気さえしていた。
それ以降も具体的な事を話すわけではないが、当麻は気持ちが落ち着かなくなると伸と他愛のない会話をするようになっていた。
その頃には食事をしても吐く事はなかったし、徐々にではあるが肉類も食べられるようになっていた。
睡眠に関してももう問題がないようで、寧ろ寝汚ささえ発揮するようになったのには呆れ返ってものも言えない伸だったが、
それでもやはり何かを思い詰めるような表情を見せなくなったことは喜ばしかった。
だがその一方で有能な当麻に任される仕事は増え、そうなると士官学校にいたころよりも周囲の視線が彼に向かうことが多くなっていた。
それは当麻自身も解っていて、だからこそ自分の気持ちを偽る事に段々と長けていった。伸曰く、困った事に。
だが伸が心配するほどの事ではないというのが当麻の意見だ。
幸いな事に派手に嫌われることもないし、寂しさを埋める相手に不足する事もない。
仕事だって充実しているのだから、人生としては何の問題もない。
偶に聖人君子のように見てくる者や異常なまでに畏れる者もいたがそんな連中にどう言われようとも、面倒さえ引き起こしてくれなければ
当麻としては心底どうでもいい事だった。
極端に言えば、誰にどう思われようとも、最早当麻には関心がない。
所詮、その程度でしかなくなっていた。
そんな当麻が、怖いと思う事が出来た。
もしも征士が離れてしまったら。
そう思うと怖くて仕方が無かった。
もしも征士が他と同じように、両親を切り刻んだ自分を遠ざけるようになってしまったら。
もしも征士が自分を置いていなくなってしまったら。
もしも征士が……。
もしも…もしも征士が、両親の件に関して後悔している自分を知ってしまったら。
そう思うようになったのは、音声ファイルが流出したと聞かされてからだった。
その内容が直接の原因ではないが、それでもその件が嘗て当麻が無理に抑え込んだ感情を引きずり出したことは間違いない。
今は全てを受け入れてくれている彼だが、もし自分の後悔を知ってしまったらどうなるのだろうか。
どこまでも優しい彼だから、或いは自分のそんな考えも受け入れてくれるかもしれない。
そう思う一方で、妹の命を救った事を心から感謝してくれている征士に、それを真っ向から否定するような事を言う勇気は当麻に無かった。
だから家に帰りつくなり急に、何を思っているのか正直に話して欲しいと、征士に言われてとても困惑していた。
「当麻、頼む。私はお前を知りたい」
「……………………」
「何に腹を立てている?何が辛い?」
「それは…………」
「言えないか?私は、……そんなに頼りにならないのか…?」
「そう、じゃ…ない……」
頬に添えられた手の優しさに泣きそうになる。
征士と出会ってから泣く事が増えた。
それだけではない。腹を立てることも、ブツリと切れることも、そして心から楽しいと思う事も。
だから、言えない。
言って彼が自分から離れてしまうことが、怖い。
「征士だって……聞いただろ?例のファイルの流出を…」
「…ああ」
「だったら言わなくても」
「それでは駄目だ」
頬を撫でる手は優しいのに、言葉は毅然としていた。
強い眼差しから逃れたい当麻は、一度も征士と目を合わせていない。
「私が勝手に判断したことではなく、お前の本心をちゃんと聞きたい」
「………やだよ」
「言ってくれ、当麻。何がそんなにお前を苦しめている?」
「言える訳……ない」
「どうして」
「……………」
「私はそんなに信用ならないか?」
「そうじゃない…」
「では何故」
「……………お願いだ、征士、……やめてくれ…」
「私を…信じてくれというのはまだ無理な話か?」
「………………違う、征士の事は、…信じれるんだ、でも…」
「…でも?」
必死に言葉を紡ぐ声には涙が混じっている。
「……………………俺は、……自信がない」
「私を信じきれるかどうかか?」
「…違う…」
「……………」
「……言って……言ったとして、…俺自身が、それでもお前が傍にいてくれるだけの価値ある人間だとは…思えない…」
きつく閉じた目から溢れた涙が頬を伝い、征士の手を濡らした。
「どうしてそう決め付ける…?私は絶対にお前の傍を離れない。誓って言う」
「そんなん、解らないだろ……!」
「私自身の事だ、私が一番良く解っている。…当麻、だから話して欲しい」
「じゃあもしも、……もしも、俺が後悔してるって言ったら、お前……どう思うんだよ……っ!」
両親を墓に入れてやれなかったこと。
両親の意思を尊重した筈なのに、未だに自分の中では納得が出来ていないこと。
自分の心に踏ん切りをつかせるために自ら両親を解体したというのに、今でも気持ちがそこに囚われていること。
そんな思いを抱えている自分を、いつまでも前に進めない自分を征士が軽蔑するんじゃないかと思い、それを恐れていること。
泣きながら声を絞り出すように、捲し立てるように吐き出された言葉の途中で、征士はその細い身体を強く抱き寄せた。
すまない。涙を流し、何度もそう謝りながら。
「……な…んでお前が謝るんだよ…」
「私が献体を拒まなければお前にそんな思いをさせる事もなかった」
「征士だけが悪いんじゃない…それにあんな姿を見たら誰だって……」
「それでもお前を苦しめた内の1人だ。…当麻、…すまない、……すまない」
顔を埋められている肩の辺りのシャツが濡れていくのが解る。
泣かないで欲しいと願う当麻も、同じように征士のシャツを己の涙で濡らしていた。
「違う、征士、…ごめん、そうじゃない。俺の親は、……覚悟をしてた人間だから、でも征士の家族はそうじゃない、だから、」
「たとえそうだったとしても、お前を苦しめてきたことに変わりはない…当麻、すまない……」
互いに謝りながら、そして互いを慰めるように抱き合いながら2人は暫く泣き続けた。
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8年間抱え続けた後悔。