スペース・ラブ
征士がそれに気付いたのは、朱天から音声ファイルの事を聞いてちょうど1週間経った頃だった。
朱天と初めて会った日の昼過ぎにトレーニングルームへ向かった征士は、その途中でナスティに会った。
厳密には会ったというのは正しい表現ではなく、彼女が待ち伏せていたのだが、兎に角、会った。
差し入れよと言って不自然なほどに綺麗に笑った彼女は、征士にベセベジェの箱を差し出す。
中身は当麻の好きなマカロン・ムーだと言って。
ただその距離は普通に受け渡しをするにしては異様なまでに近い。
何かあると察して用向きを尋ねれば、彼女は深刻な、そして些か疲れの滲んだ表情で声を潜めて、
当麻の傍を離れないでやって欲しいと半ば懇願するように彼に告げた。
元よりそのつもりのない征士だからその言葉には素直に頷いたが、心の端の方はざわざわと波立っていた。
自分の知らない当麻を知る彼女。
まだ幼い頃の当麻の声が解るほどだから、親しい間柄なのだろうことは解っている。
自分が彼を知るよりも彼女が彼に出会ったほうが早いのだから仕方が無いことも解っている。
それでも、自分の知らない彼を知っている彼女に無性に心が苛立った。
譬えそれが意味のない事だと解っていても。
その日の帰り、当麻の部屋の近くで茂みに巧みに隠されたカメラを見つけた。
誰を、何を撮ろうとしているかは持ち主が近くに居ないために不明だったが、既に録画状態になっているそれは設置されてから
然程時間が経っていない事は判った。
薄気味悪かったので直通ダイヤルで巡回専門のハンターに連絡を取り、落し物として届けた。
この1週間、こういう事は何度か繰り返された。
襲撃は3回で隠されたカメラは7台、そして明らかにカメラを構えて当麻を写そうとした人物は2人居た。
勿論襲撃者はその都度叩きのめして突き出し、盗撮についても”おまわりさん”に突き出して厳重注意処分にしてもらった。
どれもこれも大きな何かに繋がるような証言はなく、一方は計画を阻止した人物が憎かったと言い、また一方は英雄の写真が欲しかったと言う、
ただその程度のものしか出てこなかった。
音声ファイルのことからちょうど1週間経ったその日も、いつもと同じように征士が当麻を自宅まで送っている途中で、また襲われた。
今度は2人組みだ。
人気の多い道で襲ってきた連中はやはりプロとは思えない手口と動きで、1人は征士に拳1発で沈められ、もう1人は当麻に鼻の骨を折られて終わった。
ギャラリーの通報によって巡回専門のハンターが到着し、被害届けの提出の為にベースへ再び戻る頃には、昼間忙しかったこともあって
当麻の機嫌は最下層にまで達しており、征士が必死に宥めてどうにか調書を終えるような状態にまでなっていた。
全ての手続きを終えたのは日付が変わる直前で、時間も惜しいし以前のように仮眠室に泊まって行くかという話が出たときだ。
普段なら睡眠を優先する筈の当麻が、自宅へ帰ると言い出したのだ。
随分と眠そうにしていたし何度も欠伸をしているというのに、それでも自宅のベッドがいい、と言って。
頑なに仮眠室を拒むのを訝しみその理由を征士が聞いても、仮眠室のベッドはよく眠れない、としか言わない。
そんな筈はない。
征士は思っていた。
征士の知っている当麻といえば、食後に眠いと言っては仮眠室に行きたがるような人間だった。
そしていつも、見ているこっちまで幸せになるほど気持ち良さそうな寝顔を晒している。
なのに今更よく眠れないというのはどういう事だろうか。
追求をしようか否か迷っている征士の手を引いたのは当麻で、帰りたい、と彼は弱々しく呟き、それで征士はもうこれ以上何かを言うのはやめにした。
いい加減、疲れてもいた。
音声ファイルの1件以来、当麻がどこか1人になりたいような雰囲気を見せるので、征士が部屋に泊まる事はなかったがこの日は限界だった。
当麻を部屋に送ってから帰るのでは更に遅くなるというのもあったし不安定になっていく恋人をこれ以上放っておけないというのもあった。
それに自身の感情も乱れてきていて、それを諫めるためにも彼の肌を求めたい気持ちもあった。
拒まれる可能性を考えていた征士だったが、当麻も同じ気持ちだったのかそれはアッサリと受け入れられた。
抱き合っている最中は良かった。
苦しそうに寄せられた眉根や、長い睫毛の先が切なげに震える様は美しかったし、何も考えられないような快楽はいつもと同じだった。
満足そうに息を吐き、互いに労わるように口付けると当麻はそのまま心地よい眠りの中に落ちていった。
だが眠りに就いた彼を抱き寄せた時に、征士は気付いた。
いつも無心に眠りに就いていた当麻の寝顔が、幸せそうに眠っていた寝顔が、今は何かから逃れたそうなものになっていた事に気付いて、愕然とした。
そしてすぐ後に激しい怒りが湧き上がっていた。
これ程までに彼を傷付け追い詰めているもの全てが、憎いと思った。
それが敵意であろうと好意であろうと、彼の心に無断で踏み込んで好き勝手に荒らしていく全てが、憎いと思った。
全部全部、何もかもが。
その翌日、またあの男に会った。
今度はオペレーションルームへ向かう途中の廊下に、気配を完全に消した状態で立っていた。
そのせいか彼の事を気に留めるものは誰もいなかったが、征士は敏感に感じ取ってすぐにそちらへ目を向けた。
「お、見つかっちゃった?」
言った男は今日もメール係の服を着ている。相変わらず手荷物はないようだ。
「ちょうど会いたいと思っていてな」
「何だよ、浮気なんかしたら恋人泣かすことになるぜ?」
にやにやと笑っている男の言葉を無視して、征士は彼をエントランスと中庭を見渡せるスペースに連れて行った。
周囲から丸見えの位置だったが2人して気配を絶っていたし、足音1つ立てなかったせいで、やはり誰も彼らの事を気には留めなかった。
「なんだ、もう覚えたのか」
それが足運びのことだと判ったが征士は答えなかった。
今は聞いておきたい事がある。
「誰が音声ファイルを流した」
只ならぬ雰囲気の彼は、どうやらバダモンの指示で動いている様子があった。
そのバダモンが当麻にファイルの流出を知らせていたし、それに何かを伝えている。
ならば彼も何か知っているのではないかと征士は思っていた。
「知るかよ」
だが彼の返事は実に素っ気無かった。
表情を観察したが、嘘は見えない。
以前少し話した程度だったが、彼ははぐらかしはしても嘘をつくようには見えなかった。
「そうか。なら、一体今何が起こっている?当麻に付き纏っている連中はどこが大元だ?」
「さあ?言っちまうと”現在調査中”。確実な証拠もねーのに動けないんでね。つまり、お前に教えられることは、何もねぇ」
「最近急に事が動いているように見えるのは、音声ファイルのせいか?それとも知らないだけでもっと前からか?」
「質問だらけだな、面倒臭ぇ……。…俺が言えんのは、議長には気をつけとけってことだけだ」
「当麻に影響が出始めている。どう気を付けろと言うんだ」
苛立った声を上げる征士に、男は皮肉を混ぜた笑みを浮かべた。
「じゃあ逆に聞くけどよ、お前はどうしたいってんだ」
「当麻を苦しめているもの全てを片付けたい」
一瞬だけ表情をなくし、だが男は次の瞬間には廊下にまで響き渡るような大声で笑い始めた。
腹を抱え頬の傷を歪め、目には涙まで浮かべて笑う男を征士は最初に抱えていた感情とはまた別の感情で見下ろす。
ある程度笑いが収まって男の息が整うのを待ってから征士は声をかけた。
「何がおかしい」
「いや、……っぷ、…おまえ、相当惚れ込んでんだなー」
「悪いか」
「いやーあ、……いやいや、悪くねぇよー。あー…でもなぁ」
たっぷり間を置いた男の表情は真剣ではあるが、どこかからかいを含んでいた。
「何がそんなに辛いのか、本人に聞いたのかよ」
「………それは…」
「聞いてみろよ」
「………………」
返す言葉は、見つからなかった。
黙り込んだ征士を、まるで畳み掛けるかのように男は話し続ける。
「俺は仕事で利用できそうなもんは全部使うんだけどよ、今回はボスから釘を刺されてんだよ。”羽柴当麻は傷つけるな”って」
「………なに?」
「でも俺ぁ、関わんねぇのは出来るが守る気はねぇからな。どーしよっかなーって思ってたらお前、ちょーどイイとこにお前がいるじゃねーの」
軽々しく話し続けた男が征士に顔を近づけると、その目には物騒な物が潜んでいた。
「お前の役割はテメーの恋人を守ることだけだ。頭冷やしてテメーの領分、考え直しな。俺の仕事の範囲に首突っ込んでんじゃネーぞ。
俺は天才を傷つけんなとは言われてても、お前を始末すんなとは言われてねぇからな」
邪魔したらテメーから処分するぞ。
そう言葉尻に付けて、男は去っていった。
征士は男が去っても暫くそこから動くことが出来なかった。
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