スペース・ラブ
明け方に征士は一気に覚醒した。
外はまだ白んでいたから時間としては余裕がある。
だが征士の心には一切の余裕がなかった。
…とんでもない事をした……
腕の中で幸せそうに眠っている当麻を見るとつい頬が緩んでしまうが、それどころではない。
酒と、そして彼の誘惑に負けて自分は何て事をしたのかと心の中で頭を抱える。
ずっと憧れていた。
そして守りたいと思っていた。
それが恋だと気付いたのは昨夜だが、そのままに、好きだとか愛してるだとかの大事な言葉をすっ飛ばして、そのまま身体を繋いでしまった。
征士にはそれが耐えられない程の後悔を生んだ。
派手な見た目を裏切って真面目で実直な征士は”お付き合い”に関してきちんと手順を踏む性格だった。
勿論、妹にもそういう付き合いをするよう教えてきたし、自身も今まではそうしてきた。
と言っても放って置いても相手から寄ってくる征士は今まで自分から愛の告白をした事はなかったが、それはそれ。
手も握っていないのに、ナニを握るだなんて…!と考えてその発想にまた自己嫌悪を募らせる。
「……………」
もう一度腕の中で寝息を立てている当麻を見やった。
すやすやと眠るその顔は、何の苦しみも悲しみも湛えておらず、無垢で愛らしい。
やはり頬が緩んでしまった。
しかしそうではないと自分を叱咤する。
もう起こってしまった事は仕方がない。
これからどうするかだ、と当麻を抱き締めた姿勢はそのままに必死に考えた。
身体はもう繋いでしまった。
軽い男だと思われたかもしれない。
今から彼に本当に愛しているのだという事を伝えるには、正直な言葉しかない。
それから誠意を態度で伝えるしかない。
では先ず何をどうするべきか。
考えて眠りに落ちる前の当麻が言っていた言葉を思い出す。
美味しい朝食だ。
彼はそれを望んでいた。
部屋の主に断り無くキッチンを使うのは少々気が引けたが、今はそれどころではない。
身体を酷使させた彼のためにも美味しい朝食を作る事が自分の先ずすべき事だと、征士は結論を出した。
未だ眠っている当麻を起こさないように、抱いていた腕を緩めてゆっくりと離す。
捲れたシーツから覗いた胸に、昨夜自分が付けた跡が見えて静かに狼狽えてしまったが、当麻を起こしてしまうわけにはいかない。
そっとベッドを抜け出て、もう一度寝顔を覗き込む。
幸せそうな寝顔。
その頬にちゃっかりと口付けてから征士は床に脱ぎ散らかした自分の服を拾い、キッチンへと向かっていった。
クロックムッシュを作っている間も頭は、まず彼に何と言えば良いのかと必死に動いていた。
昨夜だけの関係にはしたくない。
それもあるが、ここで別れても暫くもすればまた顔を合わせるのだ。
夕べの自分はその時の当麻の反応を密かに楽しみにしていたが、こうなってしまっては話が違う。
さあ、どうするべきか。何と言うべきか。
ずっと好きだったと正直に言うのは当然だ。
ではいつから。
本部で見かけたときからだ。
だが薬の事は伏せた方が良いかもしれない。
名を明かしたくないと言っている彼だから、触れない方が良いだろう。
でもそれではただのストーカーではないか?そうでもないのか?
必死に考えていると寝室の方で動くような気配があった。
当麻が目を覚ましたのかもしれない。
「……迷うな、伊達征士」
自分を励まして寝室へ向かう。
精一杯に彼を愛して、自分の想いを信じてもらえば良い。
そう、心の中で何度も繰り返して。
そして、あの朝だった。
結論から言えば、当麻は昨夜の事は何もかも忘れていた。
というより、自分と会った記憶さえなかった。
アルコールによって記憶が全くなくなっている事を申し訳無さそうに言った彼はまだ裸で、征士にとってみれば目の毒でしかなかったが、
そんな事を言っている場合ではない。
兎に角、当麻には記憶がない。
卑怯かもしれないが征士は少し、運が良いと思ってしまった。
身体にはしっかりと関係が残っているが、それでも彼には記憶がない。
という事は一から関係を作り上げる事が出来るかも知れない。
そんな考えが頭を過ぎった。だから。
「だから昨日の事は……っ、その…なかった事に………して欲しいんだ……」
ひどく落ち込んでいる当麻には悪いが、征士はこの言葉に本当に救われたと思った。
だからそれを素直に受け入れて、お互いに忘れようと言った。
昨日の事は、なかった事に。
後で顔を合わせて、そこから仕切りなおしで彼に、今度こそちゃんと。
そうして征士は部屋を後にして、昨夜の記憶を頼りに自分の部屋へと戻っていった。
関係はゼロから…というより、当麻の反応は明らかに警戒を見せていて、ややマイナスからのスタートになったが、
それは欲を剥き出しにした自分への戒めとして受け入れた。
あの夜にあった事は忘れると言っても肉体に残された記憶はそう容易くは薄らいでくれない。
そもそも忘れるとは言ったが、心は諦めていない。
そのせいで征士は時折当麻に対して欲情してしまうし、夜になるとあの時の彼を思い出して一人熱を諌める事も多々あった。
少しずつ、関係は良くなっていった。
当麻はもう征士に警戒心を持っていないし、素直に甘えてくれる。
明らかに他よりも親密な関係にはなってきたが、そうなると今度は困ることが出てきた。
当麻が、自分の部屋に征士を招こうとする気配が何度かあった事だ。
部屋に行くのは悪いことではない。
何も恋人同士でなくたって友人同士でもそれくらいはする。
恐らく当麻はそのつもりなのだろう。
けれどそれが困る。
単に意識してしまっているからだけではない。
当麻が誘う時は決まってアルコールが入っているときか、それかこれから飲んでも差支えがないような時間帯の時ばかりだから征士は困るのだ。
酒は嫌いではない。寧ろ好きだ。
当麻も好きだ。
だけど、だから困る。
酒が入って彼の部屋に行って、もしあの夜の事を思い出してしまったら?
アルコールで上気した肌や潤んだ目で見つめられて、もし欲を抑え切れなかったら?
…自制する自信が、征士には全くなかった。
折角ここまで築き上げてきた関係を壊してしまいそうで怖かった。
当麻の態度が自分と他ではかなり差がある事は解っているが、それでも彼の認識ではまだ”親しい友人”という可能性が大きい。
その友人に、また身体を求められたらどうだろうか。
願い下げだと言っている”男”の友人に……どうだろうか。
きっと、怯える。………だから、困る。
当麻の事は好きだけれど、当麻を傷付けたくはない。
自分の想いを遂げることと彼の心を守ることは、征士の中では秤にかけるまでもないことだった。
そもそも何のために都市部へきたのか。当麻の事を傍で守るためだ。
その為に故郷から離れた。
なのに自分が彼を傷つけてどうする。
そう思うからこそ、征士は当麻の部屋へは行けなかった。
だがそろそろもう少し関係を深めたいと思ってもいた。
そこに、妹から連絡が来た。
随分前に頼んでおいた映画のデータを見つけたというのだ。
征士はチャンスだと思った。
翌日に当麻は自分の故郷へ仕事で行く。
そこで彼にそのデータを渡しておいてくれれば、それを理由になら部屋へいける。
酒ではない、ちゃんとした他の理由があるのだ。約2時間のそれを観て、終われば帰ればいい。
これなら大丈夫だと征士は思った。
最初のきっかけを作れば、あとは部屋へも行きやすくなる。
そこから関係をどうするかはまた考えていけば良い。
何故こんなに回りくどいのか。
答えは簡単だ、昔から征士は放って置いても相手から寄ってくる。
相手を好ましいと思えば受け入れるし、そうでなければ断る。
優れた容姿と真面目な性格の彼はモテた。
そのせいで今まで口説くという行為をした事がない。
口下手なのも手伝って余計に、だ。
ついでに言うと家族以外の誰かに強い執着を示したこともない。もっと正直に言うと、これほど強い肉欲を持ったこともない。
だから征士は自分の元へデータを送られてしまった場合、普通に当麻に渡してそれで終わってしまう事が解っていたのだ。
情けないかも知れないが、直接当麻の手に渡れば案外お喋りな彼はきっと妹の事を話してくれるだろうし、
そこから話を広げて一緒に映画を観るように持っていけるかもしれない。
運が良ければ当麻のほうから誘ってくれるかもしれない。
いや、きっと誘ってくれるだろう。彼も部屋へ”友人”を招きたそうにしていたのだから。
征士はホームで当麻を待っていた。
もうすぐ彼を乗せた定期便がやってくる。
自分に対して他より心を許してくれている彼は、自分を見つけたらどんな顔をするのだろうか。
やっぱりお前かという面倒臭そうな顔だろうか、嬉しそうな顔だろうか、それとも居て当然のような顔をするのだろうか。
そう考えるだけでも心は浮かれてくる。
発着時間を表示したパネルと時計の間を征士の目は何度も往復した。
周囲から観れば、少々挙動不審な美形が1人。
そこにやっと目的の定期便がやってきた。
扉が四方に吸い込まれるように開いて次々に人が降りてくる。
どの顔も、征士が初めて此処に来た時に見たように周囲には無関心だ。
その隙間から青い髪が見えた。
人の波の合間から次第にその姿が見えてくる。
征士に気付いた当麻は、………何故か顔を真っ赤にした。
一瞬だけ俯いた当麻が顔を上げると、今度は何故か怒っているような顔?をしてるではないか。
征士にはワケがわからない。怒られるような事をした覚えも、妹に頼んだ覚えもない。
何か妹が失礼なことをしたのだろうかと考えた。
躾けはきちんとしているが、…ありえなくはない。彼女は母に似てお転婆で、しかし父にも似て暢気で、つまり自由奔放だ。
その彼女が何か当麻にとんでもない事を言ったのだろうかと密かに狼狽えている征士の目の前に当麻がやってきた。
表情は変わっていない。
顔を真っ赤にして口をきつく引き結び、まるで挑むような目で自分を見上げてくる。
「……お、…おかえり」
征士はつい引き攣ったような声が出てしまった。
それを無視して当麻は、征士、と呼びかけてくる。…やはり甘さのない口調で。
「…どうした」
「…………………ちょっと俺、今からトンデモナイ事聞くけどさ」
「……うむ」
了承をしたのに、何故か当麻はすぐに口を開かない。
何度も目を泳がせて頬を染め、漸く意を決したように再び視線を征士に戻した。
「あの夜さ、」
あの夜、というのは、あの夜、なのだろうと征士は頭の中だけで返事をした。
「俺、……気持ち良さそうだった?」
「…………………………………………」
「………………どうだった?」
「…………………。……………は?」
「だから…!……その、俺の記憶ぶっ飛んでるあの夜、…俺、……お前とヤってどうっぽかった?って聞いてんだよ!」
どうって。
そりゃ凄く気持ち良さそうに、自分から腰を振っていた。
……だなんて、こんな人の多い場所で言える征士ではない。
「お前の主観で良いから教えろ!」
いや、教えろって。
征士は困惑した。状況も質問もだが、当麻の意図がわからない。
しかし彼は顔を真っ赤にして、言え!と言っている。
「その…とても、……気持ち良さそうには見えた」
諦めて征士は小声で答えた。
すると当麻は、
「じゃあお前はヨかったのか!?」
などと間髪いれずに聞いてくる。
本当に意味が解らない。
まるであの夜のようだ。
なんて考えている場合ではない。
当麻は早く答えろと目で急かしてくる。
「……正直に言って、……物凄く、良かった…」
だからもう正直に自白した。
だってあの夜の事は本当に凄く良くって、今でも思い出すだけで熱が下肢に集まりそうになるくらいなのだ。
嘘じゃない。
そう告げると今度は何故か当麻の身体から力が抜け、溜息を吐きながらその場にへなへなと座り込んでしまった。
「………当麻?」
心配して上から声をかける。
見下ろす耳も項も、真っ赤だ。
「………………当麻、大丈夫か?」
熱があるのかもしれないと心配になった征士が声をかけると、征士、とまた名を呼ばれた。
随分と小さな声だった。
「何だ?」
「……お前がコレ聞いてどう思うか解らないけど…兎に角、聞いてくれ」
「ああ、聞く。だがここでしゃがみ込むな。周囲の目が…」
人並み以上の容姿の2人が少しオカシナ動きをしているのだ。
いくら人に関心の低い都市部の人間でも、時間に余裕のある者がチラチラとその様を伺っているのが解る。
それに居心地悪そうにして征士は言ったが当麻は立とうとしない。
「とうま、」
「駄目、俺、立てない。ちょっと今から全神経を喋るほうに回すから、無理。お前しゃがめ」
腕を引いてみても本気で立ち上がる気配のない当麻に折れた征士が、その向かいにしゃがみ込む。
ホームで丸まる男2人。周囲の好奇は更に集まった。
「……あのさ、」
当麻の声はそれに気付いているのかとても小さい。
顔を寄せなければ雑踏に負けて聞こえないほどだ。
「俺さ、……恋人の条件として趣味の一致とか性格上の相性とかって大事だと思うんだよ」
「…………待て、何だいきなり」
「いいから聞け!…………………それで、それと同じくらい、俺…身体の相性も大事だと思ってるんだよ」
「………………ほお…」
どう答えて良いのかわからないから、適当な相槌になってしまった。
当麻はそれを無視して言葉を続ける。
「で、………………俺、何かちょっと…お前のこと、好き、みたい」
「…そうか。…………………なに?」
「お前は男だしさ、俺は男はヤなんだけど、ヤだったハズなんだけど、何か……そうみたい」
「いや、当麻、ちょっと待て」
「そんで俺、言っちまうけど人を口説くのは得意な方だし平気なんだけど、もう上手い言葉も出ないし、顔見れないくらい、
何かお前のこと好きになっちゃったみたい。………どうしよう」
「いや、」
どうしようって。…言われても。
何も言えずに征士も困る。
だって、どうしようって、言われても。
「………………お前、…俺のこと、好きじゃないっけ?」
漸く上げられた顔は相変わらず真っ赤で、目なんて潤んでて、拗ねたように唇を尖らせたりなんかされたら、もう……!
*****
好きに決まってる!んです。