スペース・ラブ
征士が17歳になった頃だった。
家へ帰ると、家の中が妙な空気に包まれているのに気が付いた。
不思議に思いながらリビングを覗くと、姉が落ち着きのない様子でそこにいた。
「…?何かあったのか?」
「征士…」
19歳になった彼女は町でも一番美しいと評判の美女になっていた。
ただ性格を良く知る征士からしたら、よく出来た冗談だと常に思う事だ。
「マリーが目を覚まさないらしいの」
マリーというのは美容室を営んでいる家の5歳になったばかりの娘で、明るく活発な少女は近所の人気者でもあった。
「目を覚まさない?どうして」
「知らないわよ。奥さん、とても心配してたのよ…」
「いつから目を覚まさないんだ」
「今朝よ。私は昼に髪を切りに行ってたんだけど、その時にまだ起きないって言ってて…昨日、海沿いに住んでる
お爺さんに会いに行って沢山遊んだって言うから疲れてるのかしらって話してたんだけど、私不安になってきて電話したのよ。そしたら、」
「起きていなかったのか」
「……征士」
「…?何だ?」
人が話しているのに言葉を重ねないで、と彼女は帰ってきたばかりの弟の頭を遠慮なく叩いた。
確かに言葉を遮ったのは悪いと思ったが、結論を聞きたかったのだから仕方が無い。
だが反論は無駄だ。彼女に言えば万倍返しでくるのが常なのだから、征士は黙る事にして姉に話しの続きを促した。
「そう、マリーがね、まだ起きないから病院へ連れて行くっていってたのよ」
「それがいつ?」
「3時間前」
「それでその後の連絡は?」
「………まだないの。ねえ、病院なんて此処じゃナボコフの所しかないから行き先は解ってるんだけど、
私、行けば迷惑だと思う?」
なるほど、心配でならない姉は誰かにその判断の背を押してもらおうと家で誰かの帰宅を待っていたらしい。
家族でもないのに行けば、それは迷惑になるかもしれない。
だが姉の弥生は朝にその話をしていたし、昼には電話もしているのだ。
心配して行っても問題はないだろう。
そう判断して征士は、行ったほうがいいんじゃないかと姉に言った。
すると彼女は少し微笑んで、そして手荷物と、マリーが大好きだったマフィンを持つとすぐに家を出て行った。
マリーの病気は、不明だった。
医者でも解らないと言われたのだ。
病院にあった設備で検査もしたが体から異常は発見されなかった。単に疲労の度合いが深かったのかもしれない。
ただ眠っている間は食事が出来ないので、栄養が取れない。
幼い子供の代謝は早いからそれはあまり良くないとして医者は入院を勧めた。
それを受けてマリーの両親は、心配で駆けつけてくれた弥生に礼をいい、そして母親が娘に付き添い、
父親は店の片付けもあるので弥生と共に病院を後にした。
マリーはそれから2日経っても3日経っても、目を覚まさなかった。
その頃にはもう近所ではある程度その事は噂にはなっていたが、それがハンターたちの耳に入るのはもう少し遅かった。
相変わらず住人とハンターとの溝は深く、それが不幸を招いたと言っても過言ではなかった。
もしも誰かがハンターに連絡をすれば、少しは被害の拡大を防げたかもしれないが、言ったところで後の祭りだ。
マリーは結局1週間後に完全に覚めない眠りに就いてしまった。
そしてマリーの母親が、それからきっちり1週間後に同じように目を覚まさなくなった。
彼女は3週間は生きていた。
次に倒れたのはマリーの父ではなく、隣に住む63歳の男性だった。
彼は10日間、その状態で生きていた。
そしてそれはゆっくりと、だが確実に被害が広がっていった。
感染して命を落とした者はどれも生前の姿を保っており、言われなければそれが既に絶命しているのだとは気付かない。
若しかしたらまだ息を吹き返すのではないかと期待をして、どの家もまだ葬式さえしていなかった。
征士の家でも感染者が出た。
最初の感染者は姉だった。
美しい彼女はそのまま眠っており、まるで声をかければ起き出しそうな雰囲気を持っていた。
だが実際は幾ら声をかけようとも、揺さぶろうとも目を覚まさない。
この頃になると病院のベッドはもういっぱいになっていて、彼女は自宅のベッドの上で眠り続けていた。
ここにきて、漸くハンターの耳に現状が伝わった。
彼らは急いで感染者の家を回り、リストを作って本部へとそのデータを送った。
本部の人間が住人を集めて話があるといったのはそれから8日目の事で、既に征士の姉の命は亡くなっていた。
ハンターベース内の会議室に住人が集められる。
対処法や薬の配布かと思っていたが、それは違った。
神経質そうな、如何にも政府の人間らしい外観の男が最初に言ったのは、これがテロリストの撒いたウィルスで、
彼らが”プリンセス”と呼んでいる、都市部では5年前から被害が拡大している物だという事だった。
そしてその次の言葉で、微かな期待を持っていた住人たちは一気にそれを奪われた。
「現在、手立ては一切ありません。都市部でも被害は広がったままです」
「そんな事を言いに態々来たのか!」
怒声を上げたのは幼い息子を失くした父親だった。
その声を受けても役人の表情は一切変わらなかった。
「そうではありません。お願いをしに来ました」
とてもそうとは思えない、淡々とした口調で彼は続ける。
「献体をお願いしに来ました」
献体、と言われて部屋の空気が張り詰める。
「…献体に回すと、どうなるんでしょうか」
尋ねたのは征士だった。
役人はちらりとだけ征士を見て、そしてすぐに部屋全体に視線を戻した。
「このウィルスに感染した方は最初は眠りに就き、そしてそのまま死に至ります。それは皆様もご存知でしょう。
経過として言えば、体内に入ったウィルスが活動を始める時に、宿主となった方はまず目を覚まさなくなります。
そしてウィルスが細胞と一体化していく時に徐々に身体の機能も停止して、そして完全に一体化すると、
……まぁ、死に至る。それが現在までで解っていることです」
「だから献体に回すとどうなるっていうのよ!」
「非常に言い難い事ですが………全身を、毛細血管や神経に至るまで解析する事になるので、原型を留める事はありません」
「…そんな、」
「それにウィルスがどう変化しているかも解らない以上、ご家族の方にお返しすることも今のところはお約束できません」
「あんたら、そんな話をするために俺たちを集めたのか!」
「ふざけるな!今まで何もしてくれなかったクセに、よくそんな酷いことを頼みに来れるな!」
「図々しいぞ!!」
部屋が一斉に騒がしくなる。
掴みかかるという行動に出なかったのは、役人の前には重火器を携えたハンターが護衛として立っていたからだ。
役人は住人がある程度感情を吐き出すのを待って、そして冷淡な声で、しかし強くはっきりと言った。
「我々だってこの土地に来た事でリスクは抱えています。その上でお願いに来ました。
被害は今も拡大しています。少しでも多くの命を守るために、献体をお願いしに来ました」
部屋が静まり返る。
役人は目を伏せた。
「ただ………こればかりは強制は出来ません。被害者の姿を見れば、私たちだってそれを切り刻む事に抵抗はあります。
ですから、本当に、…本当に献体してもいいという方は名乗り出てください。無理強いはしません。
献体には出したくないというのは、誰しも同じです、どの土地でも同じでしたから、我々は構いません。
ただ、本当に回してもいいという方が1人でもいらっしゃったら、………それだけです」
そう言って深々と頭を下げた。
結局、誰も献体を出さなかった。
政府から来た彼の言う事は尤もなことだ。
頭では理解できるが、だが心が受け入れることを拒んでいる。
征士も、今もただ眠っているようにしか見えない姉を献体には出せなかった。
若しかしたら今後誰かが献体をしてくれて、そして薬が開発されれば彼女はまた目を覚ますかもしれない。
そう思うと尚更、彼らに姉を差し出すことは出来なかった。
そうこうしている間にも、被害は確実に広がっていた。
最初の発祥から3年も経つと、町の人口は既に半分近くまで減っていた。
征士の家でも姉に続き祖母が、そして祖母の傍を離れなかった祖父が倒れた。
少し時間を置いて母親が倒れると、父親は征士と皐月をリビングに呼んだ。
「大事な話だ。ちゃんと聞きなさい」
最初にそう言った父は、何か覚悟をしている目をしていた。
「もし、もし私が朝になっても部屋から出てこなくなったら、その時は部屋を覗いてはいけない。
ドアにも触れてはいけないし、近付くことも出来たらしない方がいい」
「……お父さん、そんなの、」
「皐月、約束しなさい」
感染ルートが確実にわかったワケではないが、空気感染の可能性が高いと言われている以上、そんな事をしても無駄だと
彼女は言いたいのだろう。
だが接触感染の可能性も否定はしきれていない。
まだ何も解っていないのだ。
政府は今も献体を求めてあちこちのエリアを回っているのだろう。
ニュースでは聞かないが、公表していないだけで、恐らく5年前に発った船の捜索も、そしてその後続となる船も発っているはずだ。
だが今でも何も解っていない。
そして、テロリスト達はそれをどうやって手に入れる事が出来たのかさえ解っていない今、政府に対する世評は厳しい。
中には既に諦めている人たちもいる。
全く被害のないエリアも沢山あったが、そこに住む人たちの間でも不安は広がっているという事だけはニュースで流されている。
「兎に角、約束しなさい。征士も」
結局、そう言った父親はあれから半月も待たずに眠ってしまった。
7人だった家族は、既に征士と皐月の2人だけになっており、更に2年が経っていた。
「……お兄ちゃん」
「何だ」
「お父さんもお母さんも、…お爺ちゃんもお婆ちゃんも、それにお姉ちゃんも、みんな助かるよね?」
「……私に聞くな」
「…ちょっとくらい、妹の為に嘘くらい言ってよ」
「無理な相談だ」
2人だけの食卓は味気なかった。
お互いがお互いに、残された最後の家族だ。
末っ子の妹は少し甘えん坊なところもあるので、彼女が寂しくないように征士は家に居る間はなるべく彼女の傍にいるようにした。
それほどに、彼女が大事だった。
なのに、その妹がある朝を境に部屋から出てこなくなった。
ドアに前に立ち声をかけたが返事はない。
父親からはそういう行為は慎むように言われていたが、征士はドアを開け放った。
「皐月、いつまで寝ている」
腹に力を入れて出したつもりの声は、震えていた。
ベッドに近付くと、彼女は穏やかに呼吸を繰り返していた。
「皐月」
肩を掴んで揺さぶってみる。
身体にはまだ体温が感じられたが、反応はなかった。
「さつき、…」
すがるように妹に呼びかける。
「さつき、さつき……!」
いつもなら無理に起こすと嫌がった反応を返す妹は、今は力なく兄の手に揺さぶられるだけになっていた。
瞼は開かない。ただ、呼吸を繰り返しているだけ。
「……さつ、き……っ」
征士は1人、開けてはならないドアばかりが増えた家に、1人だけ残される形になった。
*****
征士、22歳。