スペース・ラブ
仕事終わりに馴染みのバーへ寄り、適度に賑やかな雰囲気と気の利いた肴をアテに飲んでいると、話題はいつしか誕生日のことへ移り、
そこで今日が20代最後の日だと告げればマスターや常連客たちから盛大に祝われ更に酒を飲まされた。
意識は浮上してきたが目を開けるのが億劫で、そのままシーツに顔を埋めるとそこには慣れた感触があり、どうやら自宅には無事に帰りついたのだと知る。
誕生日プレゼントは何がいい。
顔は知っているが本名も素性も知らない、だが気の置けない常連客たちからそう聞かれた。
もう何年も誕生日にそれらしい祝いをしていなかったし、こうもあからさまに誰かからプレゼントの希望を聞かれる事がなくなっていたから
それが嬉しくて、そして何だかくすぐったくて、最初は「要らない」とか「祝ってもらっただけで充分」なんて殊勝な言葉を返したけれど、
それでもみんなが(嬉しい事に)しつこく食い下がってくれるので、つい、
料理の上手い、美人の恋人が欲しい。
と答えた。
別にそういう手合いの事に不自由しているわけではないけれど、特定の相手とはいつも長続きしなかった。
家族ともあまり一緒にいられるような環境で育っていなかったから誰かと長時間いるという、ただそれだけの時間の過ごし方が解らずに、
いつも最後はそれとなく自然に関係が終わっていた。
恋人は、欲しいといえば欲しい。
だがそこまで本気の願いではなかった。いや、本気の部分もある。
時折、寂しくなる時がある。誰かにいて欲しいと思うときがある。
だから、恋人は欲しいとは思っていた。
ただどうしていいか解らないから、欲しいと思う半面、欲しくないとも思っていた。
きっと欲しいのは”恋人”ではなく、”理解者”だというのは自分でも解っていた。
腰が重だるい。
この感覚には覚えがある。
当麻は思わず口端を持ち上げてそこだけで笑った。
20代最後の日から30代最初の日にかけて、きっと常連客やマスターが誰かを紹介してくれたのだろう、そういう事をしながら過ごしたというのは、
そう悪い気がしない。
自分の要望どおりに美人だったら尚嬉しいが、果たして自他共に認める面食いの自分から見ても美人かどうかは謎だ。
だがやっぱり、それでも悪い気はしない。
我乍ら中々にヤラシイ男だ。
なんて思ってうつ伏せた体勢のままで軽く伸びをすると、僅かながらに腰の、それも奥の方が痛んだ。
妙な痛みに顔を顰めていると、鼻をくすぐるいい匂いがしてくる。
そして何かを作っているような音も聞こえてきた。
今度はそれに顔を顰める。
一夜限りの関係で済む相手なら後腐れがなくていいのだが、もし昨夜の事で一気に距離を詰めて恋人面をするような相手だったら面倒だ、と考える。
単に昨夜の自分の要望どおりに”料理の上手”な美人が、その時のリクエスト通りに朝食を作ってくれているのなら歓迎できるが、
もしそういう面倒な相手だったら帰すのに手間だなぁ、なんて。
時間があるのなら当麻だって幾らでも相手をゆっくり優しく気遣って(そりゃ自分も楽しんだわけだから)説得を試みるが、今朝はそうは言ってられない。
自分の誕生日初日に新人が配属されてくるのだ。
少しばかり特殊で大事な仕事についている当麻は実は多忙で、しかも新人の担当は必ず自分がするという面倒な決まりがある。
勘のいい新人ならいいが、そうでもなかった場合の精神的疲労は半端ではないし、準備だって勿論ある。
だから今朝は時間があまりない。遅刻だって出来ない。
さあ、相手の出方次第かナァ…と思いつつ、体勢はそのままに重い腰を擦った。
少しだけ時間を置いて誰かが寝室に近付いてくる気配がする。
続いてドアを開ける音がした。
お姉さまタイプだろうか、それとも可愛い子タイプだろうかとやはりどこか浮かれて待っている当麻の耳に、
「……起きているか?」
と響いたのは、自分のソレよりも低い声だった。
驚いてバチリと音がしそうな勢いで目を開ける。
いや、確かに当麻の声は魅惑の低音とは言い難い高さだ。
高くもないが低くもない声は、よくチームの人間からも甘いものの食べすぎで声まで甘いという、よく解らないからかいを受ける。
それに声の低い女だって世の中には沢山いる。
だがそれにしても低い、低すぎる。
どう考えたって男の声だ。
いや、でも待って欲しい、そんな、男相手とか、嘘、ちょっと。
そんな願いを込めて身体を勢いよく反転させて相手を見ようと思った。
…のだが。
「……イ……ったぁ!!!」
腰に走った激痛のせいで、相手の顔を見る前に再びシーツに顔を埋める破目になった。
痛い。
何なんだか解らないが腰が物凄く痛かった。
正しくは腰というより、さきほど違和感を覚えたあの”奥のほう”だ。
そこに手を添えていると、部屋の入り口にいた相手がベッドに近寄り、そして腰をかけたのだろう、僅かにマットレスが傾いだ。
そして自分の腰を労わるように、自分の手の上にその手を重ねてくる。
「大丈夫か……?」
そう聞いてくる声はやはり低かった。それも何かちょっと、イイ声なのだ。
その上自分の手に重なっている手は残念なことに自分よりもがっしりとした、大きな手だ。
嗚呼、これは若しかして……と当麻が恐る恐る目を開け、極力身体にダメージがないようにゆっくりと振り返る。
「………………わぁ……」
美人だ。
それも、この世のものとも思えないほどの、美人だ。
面食いの自分でも、わーい美人だ!と両の手を上げて喜ぶほどに、美人だった。
「その……朝食が出来たものだから呼びにきたのだが…」
但し、男という事を除けば。
自分を心配そうに見つめている男は紛い物ではない美しい金の髪に、宝石を埋め込んだかのような綺麗な紫の目をしていた。
鼻筋は通り、口元には誰の目にも好感が持てる誠実さが滲んでいる。
太いが見苦しくない首があって、今は見えないが体躯だってきっと素晴しく均整が取れているのだろう。
添えられた手の温かさは彼の心の温度を示しているようで、それが妙に心地いい。
だが、男だった。
その事実に当麻が目を見開いたまま固まっていると、その男が顔を近づけてくる。
「……っちょ、…っと…なに!?」
「いや、大丈夫かと思って…」
「大丈夫って……何が…」
いや、本当に、ナニが。
当麻の背を冷たい汗がダラダラと流れている。
状況的に考えて、いや、もう、見知らぬ他人が家に居て自分が裸のままベッドにいて、しかも腰に覚えのあるだるさがあって、
となると、まあ大体の予想はつくというか諦めはつくのだが、それでもせめて縋りたい部分がある。
自分が抱いたのか、抱かれたのか。
古い時代の概念は既に幾つか変わっており、異性であろうと同性であろうと愛情に変わりはないというのが今のスタンダードだ。
全ての人類がその認識を受け入れているわけではないが、それでも人間愛だというのがマジョリティだ。
当麻だって偏見はない。職場にだって何人もそういう人間はいる。普通に受け入れているし祝福もする。
だが自分がそれをするかと言われれば、それはノーだった。
同じヤるんなら俺は断然女相手がいいというのが当麻の意見だ。
その自分が男とベッドを共にしたというだけでも衝撃が凄まじいのだ。
せめて、だからせめて、藁にも縋る思いで、せめて、自分が”抱いた”のであれば…と祈る。
これだけの美人だ、だったらまだ気も楽かもしれないと思いながら。
「その……私も男相手は初めてだったから…加減が解らず……その、…無理をさせたのかと」
だがそのイイ男は低い声で、当麻の僅かな希望を打ち砕くような事を言う。
「その、無理って………具体的には…どういう…」
恐る恐る聞き返す当麻に彼は少しだけ目を瞠って、そして何かに納得したような顔を見せた。
僅かな変化だがそれだけでも十分に鑑賞に堪え得る美しさがあり、つい見惚れた当麻だがそれどころではないと気持ちを切り替えた。
「……そうか、昨夜は随分と酔っていたからか」
「…なにが」
酔ってはいたが、何がそんなに納得がいくと言うのだろうか。
不安と不審に駆られて聞き返すと、男は美しく微笑んだ。
それも、白く美しい肌を、僅かばかり赤く染めて。
「随分と大胆だったから」
大胆って、なあに。
声も出せない当麻を置いて、彼は昨夜の事を思い出しているのだろうか、とても幸せそうに口元を緩めた。
「最初は物慣れない雰囲気だったのに、2回目は自ら私に跨って腰を振ったのも、その様子だと忘れたようだな」
跨って、腰を……?
いや、いやいやいや。
それよりもアンタ。
「に………っ、2回!?」
男相手に、2回。
それも乗っかったって事は、俺はつまり。
当麻の顔がどんどんと青褪めていく。
思わず指を二本立てて示してしまった。
震える声で聞き返したが、男はその手をそっと包んで更にもう1本指を立てさせる。
「3回した」
「………………………っっっ!!!?」
衝撃の告白に当麻の頭は完全に真っ白になった。
3回。ですってよ。
「最初は普通に抱き合って、それから次は騎乗位。最後はバックで。……とても良かった、当麻」
しかも自分の名前を知ってるとか、……えーっ。
俺、アンタの名前知らない、いや聞いたかも知らないけど知らない、ってそういう問題じゃなくって、えーっ。
頭を飛び交う色々な言葉に翻弄されていると、頬に優しく口付けられ、それでどうにか意識を取り戻す。
「え、あ、あの!」
「何だ?」
裸のままの肩を優しく抱いている手に安らぎを感じかけている自分を無理矢理に黙らせて必死に男のほうを向き直る。
「その、俺、……アンタの言うとおり昨日は凄い酔ってたみたいで…!」
「ああ、だろうな」
「その、だから………だから、俺、昨日のこと、全然覚えてなくって……」
「……ああ」
「だから、………その…」
本当の事だ。
何も覚えていない。
どう抱かれたのかさえ解っていないし、どういう流れでそういう事になったのかさえ、何も。
だから正直に伝えているのだが、何故だか自分が酷く悪いことをしているようで彼の顔をマトモに見れず、俯いてしまった。
見てはいないが、それでも彼が見守るような優しい雰囲気で自分の言葉を待っているのが解って、それが余計に心苦しく感じる。
だが、言わなければならない。
「だから昨日の事は……っ、その…なかった事に………して欲しいんだ……」
アナタとは今後、こういう事も、これから会うこともないのだと。
自分は異性しかそういう対象に見れないのだと。
そう、きちんと告げなければならない。
見た目は派手だし相手の性格はよく解らないが、それでも触れてくる手の感じから彼が今、とても自分を気遣ってくれているのは解ったから、
そんな相手だからこそきちんとしておく必要がある。
そう判断して当麻は必死に言葉を繋いだ。
沈黙が、長いのか短いのか。それさえ解らないほどに必死になった。
微かに吐かれた溜息の後で、まるで労わるように肩を撫でられる。
その動作に少し身構えた当麻だが、やはり彼は優しい空気だけは壊さなかった。
「わかった」
その声に顔を上げると、それでも慈しむように微笑んだままの彼がいた。
「確かに酔った上での関係だ。昨日の事はなかった事にするのがお互いのためだろうな」
「………ごめん」
「謝る必要はない。私はお前の名前を忘れる。だからお前も私の名を忘れてくれ。……と言ってもその様子ではそれも覚えていないか」
苦笑交じりに言われて当麻は益々立つ瀬がない。
項垂れて素直に謝罪の言葉を紡げば、今度はその頭を撫でられる。
久し振りの感触に、その手が離れるのを残念に思ってしまった自分を心の中でだけ窘めた。
「では、私も今日は少し忙しいのでこれで失礼する。あっちのテーブルの上にクロックムッシュを作ってあるから、嫌いでなければ…」
「あ、大丈夫、俺、好きだから…っ!」
妙に一生懸命に答えた自分を恥じつつ、ベッドから離れる彼を見送る。
「その…………ごめん。それから、ありがとう」
部屋から出る直前にその背に声をかければ、彼は少し振り返り、そしてやはり優しく微笑んだまま部屋を出て行った。
彼の気配が完全に自宅から消えた事に当麻は細く息を吐いた。
悪い人間ではなかった。
それどころかとても好ましい、こういう出会いでなければ親友になりたいと思うような相手だった。
名前さえ自分は覚えていないけど、彼との別れが寂しくて堪らなかった。
もしまた会う事があれば、と考えてそれを否定するように当麻は首を横に振る。
自分から言ったではないか。
昨夜の事はなかった事に。そしてもう会わないだろう事も。
最低の誕生日を迎えた。
心にぽっかりと穴が開いたような気分だった。
たった少し会話を交わしただけなのに、彼の損失は心に随分と重い影を落としてくれた。
自分が招いた結果だ。それは解っている。
短時間しかきちんと会話をしていないけれど、あんなに好ましい人間は初めてだった。
最低の誕生日を迎えた。
それは、自分のせいだ。
自己嫌悪に陥りはしたが今日も仕事はある。
それに彼の作ってくれた朝食をちゃんと食べたい。
自分の頬を叩いて痛む腰に気合を入れて、当麻はベッドから立ち上がった。
「………………………………あん…の、やろう…」
立ち上がった瞬間、下半身を這った違和感はそのまま腿を伝って流れる。
「……後処理くらい、しやがれ………っ!!!」
前言撤回。
アイツとはもう、本当に、会わない…!!
自分が抱かれた側だという現実を見事に突きつけてくれた感触は、彼への評価を一気に覆した。
ふつふつと湧き上がる怒りを胸に寝室を出て、それでも食道楽の当麻が空腹といい匂いに勝てるはずもなく、
テーブルの上にある朝食だけは有難く食べる事にしたのだった。
食事に罪はない、なんて思いながら。
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酔った勢いでヤッた10月10日。