時に野を往く



「自分の気持ちをきちんと考えて、それから行動して欲しいのよ」


ベッドに入った当麻は、数時間前に小夜子から言われた言葉について何度も考えていた。

自分の気持ち。
一言にそういわれても、今まできちんと考えた事がない当麻には何処からどう考えていいのか解らない。
言われているのが、征士との事だというのは解ってはいるものの、だからといってどう考えるべきなのか。
昼にも少し、あれは考えたとは言い難いが、思考がそちらに傾いたモノはある。だがそれはどうなのだろうか。
正直、あまり考えたくなかった。

例えば本当にペット代わりにされているのだとしたら。

…解らなかった。苦しい。それ以外、何も解らなかった。


「……………何か…………ヤだなぁ…」


呟き、ベッドに転がったまま自分の右手を見た。
帰り際、伸が握ってくれた手だ。

姉さんは、ああ言ったけど…無理に考えなくてもいいって僕は思うから…

そう言って、握ってくれた、手。
とても優しくてあり難くて、よく知った感触だ。

伸も小夜子同様に、当麻が自分の中の感情を見ないようにしている事に勘付いている。
そして当麻自身もそれが彼らにバレていることも知っている。
だがどうしようもない。
あまり考えたくはないのだ。感情の事など、特に。
苦しいとか、悲しいとか…寂しいなんて感情について考えるとキリがない。
だから今まで考えないようにしてきた。
自分には滅多に会えないけれど愛してくれる両親がいて、心配してくれる親友や大人たちがいて、それで充分だと思う。
いや、思うようにしてきていた。
このままで良いのではないだろうか。
そう考えないでもない。
なのに征士の事を何故か考えてしまう。考えてしまうと今まで無視してきた感情の事を嫌でも考えさせられる。

もうここ数日、何度も繰り返した溜息をまた吐いてしまった。


例えば何が違うのだろうか。
握ってくれた伸の手。自分の肌に触れる征士の手。
年齢も、大きさも骨格も違うのは解っている。
だがそれ以上に何が違うのだろうか。

伸の手だって優しい。けれど、征士のそれと違う。
否、違うと感じるのは、自分の心だ。


「…………………好き、なんだよなぁ……」


征士の手の感触は、好きだった。
彼は自分に触れる事で癒されると言っていたが、それは当麻も同じだ。幸せな気がする。
特に何も喋らなくても苦痛ではないし、傍にいても不快ではない。

ではそう思う理由は………?


考えたくは、ない。
考えても、結論が出てもその先などないのだ。
だって自分たちは。


「……………考えなきゃ、駄目なかなぁ…。…姉ちゃん………辛いんだけど…」


視界がぼやけてくる。自分が泣いているのだとすぐに気付いた。
泣くのなんて何年ぶりだろうか。
誰かに傍にいてほしいと思うのは、一体いつ振りなのだろうか。







小夜子の希望した征士との面会は、すぐに果たされた。
昨日もあった征士からの誘いを、伸と約束があるからと言って当麻は断っていた。征士からの誘いを断ったのは初めてだった。
それで少しでも早く会いたかったから、と何の連絡もなしに彼が学校まで迎えに来た。
当麻を連れて行こうとした征士の手を遮って、伸が話があると切り出した。
それに何か思う事があったのだろうか。いつもより神妙な顔をした征士は頷き、伸も車に乗るよう促した。

車に乗る前に伸は姉に連絡をし、彼女からの了承も得た。
途中で征士が手土産を買い、その後で毛利家に3人で着く。
すぐに現れた小夜子はいつもの優しい笑みで彼らを迎え、奥の座敷へと案内した。




「突然お呼び立てして申し訳ありません。それと…先日は失礼致しました」

「いえ…」


本来なら数週間前に果たされるべきだった顔合わせだ。
頭の片隅でぼんやりとそう思いながら眺めている当麻の表情は、どこかぎこちなかった。
綺麗な男女。小夜子にはもう想う人がいるが、いつかは征士もこうして誰かと向かい合うのだろうか。
またつまらない思考に捕らわれていると、隣に座っている伸が卓の下でそっと手を握ってくれた。
その感触に少しだけ気持ちがしっかりとする。


「単刀直入に、今日、お呼びした用件を申し上げます。…伊達さんは当麻君の事をどうお考えなのでしょうか」

「……どう、とは」

「私達、毛利の家の人間にとって彼は幼い頃から知っている子です。大事な家族同然なのです。
その彼が最近、全く元気がありません。はっきり申し上げると、あなたと会うようになってからです」

「…………………」


少し驚いた表情をした征士の目が当麻に向けられる。
その視線に耐え切れず、当麻は目を伏せ、俯いてしまった。


「彼の中に、幾許かの迷いがあるのだと思います。ですから…今日は、伊達さんの考えをお聞かせいただきたいのです」

「それは、彼の…当麻の前でなければなりませんか?」


車の中からあまり喋らなかった征士が、しっかりと声を出した事に伸は少なからず違和感を覚えた。
以前、家の前で当麻と談笑しているのを見ているが、その時と声色が違う。
当麻にカナダ行きの事を話したりする人間だ。明らかに彼に懸想しているのも解っているが、だからと言ってそれを差し引いても違和感が残る。
気乗りしなかった筈の見合いの席で当麻を気に入り、そして態々探し出してまで交友関係を取り付け、
そして事ある毎に呼び出し、挙句の果てに頬に、とは言え口付けた男だ。
伸の中では、強引な変態、という何とも悲しいイメージしかない。
実際今日だって、たった一日会えなかったというだけでいちいち学校まで迎えに来るほど、まぁ何と言うか、餓えている男だ。
伸の中の印象は悪くなるばかりだった。

だが今いる彼はどうだろうか。
当麻の元気がないと姉に言われた時、気遣うように当麻を見た目は純粋な愛情で彼を心配しているように見えた。
どういう理由があるのか知らないが、当麻の前で自分の考えを述べる事を躊躇う彼の声は、どこまでも真摯な響きがあった。

……ただの変態ってワケじゃないって事…?

注意深く征士の事を伺っていると、自分が握っている当麻の手が強張るのに気付いた。


「…当麻?」


囁くように聞くと、唇を引き結んでいた当麻が何か言いたげな目をしている。
少し顔色が悪く見えた事に伸が不安を募らせる。


「どうしたの?当麻」

「あ、あのさ………俺、いない方がいいなら、席、外すから、」

「駄目よ当麻君」


だがそれを姉は許さなかった。
征士に対する時と違って随分と優しい眼差しだが、声はキッパリと容赦なかった。


「そこにいなさい。伊達さんも、当麻君がいると言いにくいような事なんでしょうか。彼には聞かせたくないような内容なんでしょうか」

「そうとは言い切れないのですが…」

「彼を傷つけるようなことですか?」

「…そうではないと思いたいというのが正直な言葉です。ただ…」

「ただ?」

「下手をすれば、怯えさせるかも知れないと…」


部屋に重い沈黙が流れた。

怯えさせる。
今更何を言っているのだろうかと伸は思った。
怯えさせるのが怖いと言うのならば、何故頬にキスをしたのだろうか。
やはり自制さえ出来ない、ただ餓えているだけの変態なのだろうか。それとも…?
解らない男だと思って、隣の当麻をまた見る。
こんなのといて、当麻は本当に楽しいのだろうか。


「この際です。はっきりした方がいい事だと、…最近の当麻君を見る限り、私は思います」

「…………」


小夜子の言葉を受けた征士が、一度ゆっくりと瞬きをして、そして身体ごと当麻のほうに向き直った。
言う決心がついたのだろうか。
伸がその動向を注意深く見守る。


「当麻」


優しい、慈しむような声。
当麻の未発達のままの細い肩がビクリと震えた。


「当麻、どうか…怖がらないで聞いて欲しい」


俯いたままだった当麻に顔を上げるよう伸が促した。
当麻が自分を見ている事を確認して、征士は一度区切った言葉を続けた。


「当麻、こんな事を言えば妙な人間だと思われるかもしれないが、私はお前が好きだ。愛している。
見合いの時、すぐに好ましいと思えた。誰かに対してそう思ったのは生まれて初めてだ。だから…男だと知った時はショックだった。
だがそれでも忘れられなくて……だからお前を探して、最初は友人から、徐々に近付いていって……いずれお前を手に入れたいと思っていた」


一気に吐き出された告白は熱烈だ。
予想はしていたが、思わず毛利姉弟は目を見開いてしまった。


「いや…今でも思っている。手放したくはない。お前を呼び出して会って、それだけでヨシとしようとは思うのだが…だが我慢が出来なくて、…だから、つい…」


触れてしまうのだ、と。
最後は消え入るような声で続けられた言葉の後は、また沈黙が部屋に漂った。


なるほど。確かに考えてみれば知り合って2週間と少しの人間に、しかも同性にここまで思っていると言われたら大抵の人間は怯えるだろう。
だからもう暫くは隠していたかったのだろう。せめてもう少し、当麻の気持ちがどこを向いているのか解るまでは。
堂々とした見た目と違い、彼は繊細で、案外に弱い人間なのかもしれない。






「……ありがとうございました。あなたの気持ちは解りました」


沈黙を破ったのは、姉の凛とした、だがいつも以上に優しい声だった。


「当麻君」

「…………………………………なに、…?」

「伊達さんはそう考えているそうよ。…あなたは?」

「……………」

「昨日、あなたに言ったわね?自分の気持ちをきちんと考えて欲しいって。…考えた?」


責めるではなく、優しく促すような目で。


「……………………考えた、よ……でも」

「でも?」

「俺、………多分、そういう事なんだと思う。俺も、………なんだと思う。……でも」

「でも、なあに?」


伸が当麻の心を守るようにしっかりと手を握ると、彼からも強く握り返してきた。
青い大きな目は潤み、今にも涙が零れそうだ。


「でも、無理だよ…」

「何故」


聞き返したのは征士だった。


「だって俺も征士も、…男だ」

「ああ、そうだ。だがだからと言って私は自分に嘘を吐きたくない」

「でも駄目だ、征士、だって俺……俺、まだ成長期が来てないからこんなだけど…もし征士より大きくなったら?ゴッツイ身体になったら?
それでも征士は……俺のこと、そんな風に思えるのか?」

「当麻がたとえどんな容姿をしていようと私の気持ちは変わらない」

「そんなの解らないじゃないか……そんな風に言ったって、……先の事なんて何にも……!」


悲痛な音を伴って向けられた言葉に全員何も言えなかった。


「そんな風に言ったって、どんなに約束したって…………!!!」


どんなに望んでも、どんなに願っても果たされなかった過去の約束たちが当麻を縛り付けていた。
それは例えば運動会、例えば授業参観、或いは誕生日。
多忙な両親は今回こそはと愛する息子の為に約束をするのだが、忙しさが彼らを解放してくれる事は少なく、約束がその通りになったのは数えるほど。
その度に彼らは酷く気落ちして息子に謝り、そして息子は彼らからの愛情も、彼らの忙しさも判っているからこそ大した事ではないように笑って許してきた。
だが実際は、そうする事で心はいつだって傷付いていた。
どうすることも出来ないと諦めながらも、それでも湧き上がるやり場のない感情を切り捨てるために、子供は徐々に自分の心を覗かなくなっていた。

その感情を、伏せていた気持ちを全て剥き出しにする、真摯な目。
見合いの席でもそうだったが、その目で見つめられると全てを見透かされているような気がしてくる。
優しい腕に抱き締められると無駄だと諦めていた全てを望んでしまいそうになる。


「無理だよ、……征士…俺、」

「無理ではない。では私は誓う。お前が、私と生涯を共にしてくれるというのなら、お前を決して1人にはしないと」


静かな、だが強く、真っ直ぐで、迷いのない声。
嘘偽りのない目が当麻を見つめている。
信じたい。
そう思ってしまうのを心の中にいる誰かが、無駄だと囁きかけてくる。
望みは持つだけ無駄なのだ、と。傷付くだけだ、と。


「生涯って言ったって…」

「当麻、私と結婚して欲しい。もし私が、今の言葉を裏切るような事があれば…あなた達が私を罰してくれるのでしょう?」


ありえないような事を言った男が、姉弟を見る。
弟のほうは驚いていたが、姉は目は真剣に、だが口元には優しい笑みを浮かべてしっかりと頷いていた。


「伊達さんがそこまで強い気持ちを持っているとは思っていなかったですが、そのつもりで今日はお呼びしました。
最初に言いましたが当麻君は私にとって大事な家族なんです。あなたが彼の心からの幸せを望める相手か、見たかったのです」


姉の真意を知り、伸はまた驚きに目を見開く。


「当麻君、……もう、いいと思うの。誰かの事を、…伊達さんの事を信じてもいいと思うの」


ね?と自分と直角の面に座っている弟の隣の、もう一人の弟に微笑みかければ、彼の大きな目から涙が零れ落ちた。


「でも………結婚なんて…」

「方法がないわけではない」


諦め悪く尚も足掻こうとする当麻に、真剣な声で征士が伝えた。


「でも征士は……跡取りだし…」

「私には上と下に姉と妹がいる。何とかならんでもない」

「だけど…」

「当麻」

「……………………………………」

「当麻、お前の育ってきた環境の事は少ししか知らない。だがお前の心ならある程度解っている。今はまだ無理でも少しずつでいい。
私を信じて欲しい。少しずつ、お前の事を知っていきたいし、私の事を知って欲しい」

「…それで、……嫌になったら?」

「その時は彼らが私をどうにかするだろう。…それこそ骨も残らんかも知れんな」


そうして漸く、悪戯っぽくではあるが笑った征士につられて、当麻が笑った。
それはここ暫く見れなかった当麻のちゃんとした笑顔だった。
その顔の可愛さといったら涙の跡も手伝って、子供の頃からの親友である伸でさえ、くらりとくる程だった。


「はい、そこまで」


その笑顔にヤラれて思わず当麻を抱き締めようとした征士の腕を、小夜子がいつの間にか持ち出していた薙刀で遮った。


「…………………何の真似でしょうか…」

「姉さん、それ、僕の……」


当麻と征士の間に突き出されたそれに、征士は上半身を反らしてかわし、当麻の方は思わず伸が抱き寄せて身を守った。

伸が中学時代に部活で使っていたらしい薙刀は、納戸にしまわれていた筈だ。
それを彼女は持ち出して、卓の下に隠していたというのだろうか…

突きつけられた先に顔を引き攣らせた征士を小夜子は優しい笑顔のまま見やり、薙刀を引っ込めることなく言った。


「当麻君はまだ未成年なんですよね。つまり、まだ保護が必要な子なんです」

「…ええ、そうですね……」

「その子に手を出すのは犯罪だって、ご存知?」

「知っていますが……その、今の流れで言えば、私と当麻は婚約しているも同然なのでは…」

「それとこれとは別問題!いい!?幾ら当麻君が可愛いからって手を出して御覧なさい、叩っ切りますからね!……伸ちゃんが」

「僕かよ…」


ぼそっとぼやけば、腕の中の当麻がクスクスと笑い、おっかねー、と言うので、伸も笑った。
笑えないのは既に成人している大人2人だった。




*****
終わりじゃないです。まだ続きますよ。