時に野を往く
その日の特別授業の時間は老人介護や老人ホームについて少し学んだ。
ただ介護されていた昔と違い、今は生活の補助以外にも様々な催しを企画して、彼らが楽しめるようにしているのだと。
その中に近隣の学校から子供達が訪問するというものもあった。
子供達には核家族化が進んで普段触れ合うことの少ない年齢層との交流となり、ホーム入居者達には心の和む時間となる。
それはとても有効なのだと教師がスライドを見せながら説明をしていた。
「少し前からはこういうのも取り入れているのは知ってる子も多いんじゃないのか?」
そう言ってスライド写真が変わった。
映されていたのは動物と触れ合っている絵だった。
アニマルセラピーだと教師が言った。
元は難病の治療や長期入院している患者の心のケアとして取り入れられ、それが病気に対する抵抗力もつけるというのが判り、
それがいつしかこういった施設でも癒しとして取り入れられているのだ、と。
アニマルセラピーは確かに有用だろう。
だが当麻はそれよりも気になる事があった。
教師がした、普通の生活でもペットが癒しになるという話だ。
自分も犬を飼っているが家族してよく彼を撫で、そして癒されているのだと。
ペットが癒しというのはよく知っている。
一人暮らしのOLの間で一時期ミニブタが流行ったりしたニュースも記憶の中にある。
愛犬家や愛猫家の芸能人がペットの肉球を触っていると癒されると言っていたのも覚えている。
中にはその肉球の匂いを嗅ぐのが好きだと言った人もいた。
爪の匂いを嗅ぐという人もいた。
更に、聞いた当時は、ゲーっマジかよ!と思ったが、ペットのお尻の匂いを嗅ぐのが好きだと言った人までいた。
しかもそれが、群を抜いた可愛らしさで人気の雑誌モデル出身のタレントだったのがまた当麻にはショックだった。
あんな可愛い人がそんなトコを嗅いで癒される話を、まさか全国放送で言うなんて。
まだ初心な当麻には、別にファンではなかったがショックだった。そんな趣味の人もいるのだと思うと、思わず顔を顰めてしまった。
閑話休題。
ペットである犬猫とは明確な言葉の遣り取りが出来ずとも、一緒にいるだけで癒される。
それは、判る。羽柴家ではペットを飼ったことはないが、祖母の家には犬がいた。
当麻が生まれるより前に存在していたという彼女は幼い当麻の寂しさを理解していたのか、よく寄り添い、確かにそれが当麻の寂しさを紛らわしていた。
ただ気になるのは。
まるで、俺と征士の関係みたい…
という事だ。
征士とはいつも一緒にいるが、特別な会話をする事はあまりない。
ただ傍にいて、くっついているだけ。
その間、彼は当麻の肌に触れたがる。それは、癒しを求めての行為だ。(と、当麻は思っている。今でも)
征士は一人暮らしで、それなりにストレスもあると言っていた。
当麻に触れていると癒されるし、幸せな気持ちになるとも言っていた。
それは、つまり。
俺は、ペット代わり…?
友人として、と言っていた征士だが改めて考えてみると、どちらかと言うとペットと飼い主の関係の方が近いのかもしれない。
彼の家にいけば、当麻のためにと言って普段は食べないお菓子を置いてくれている事もそれを余計に思わせた。
そう思ってしまうと当麻の心は急速に冷えていく。
ペットを撫でることと、自分の肌を撫でることに違いはあるのだろうか。
寂しさからペットを抱きしめることと、自分を抱き締めることに違いはあるのだろうか。
ペットに頬を寄せたりキスをしたりすることと、昨日の征士のあの行動に違いはあるのだろうか。
大体考えてみれば、友人同士であんな事をするのだろうか。
…きっとしないし、違いなどない。
動き出してしまった思考は止まらない。それが苦しい。
そしてそれを悲しいとか、腹が立つと感じる自分自身の心が解らず、それがまた苦しい。
沈んだ思考に足をとられた当麻はまた溜息を吐いた。それを斜め後ろの席から伸が見つけ、眉根を寄せるのだった。
「当麻、元気ないね」
昨日約束したとおりに伸の家へ遊びに行けば、部屋に入るなり真剣にそう言われ当麻は少し驚く。
「え。そっかな」
そりゃあ元気があるとは言えないが、そこまで気落ちしていたのだろうか。
取敢えずは、はぐらかしてみる。
「ないネ」
だがそれが通用する伸ではない。
人を観察して心の動きを読み取ることは当麻も伸も得意だが、そこからどうこうしようという気が有るか無いかが2人の大きな違いだった。
一人っ子でしかも殆ど一人で育ってきたような当麻はどこか自分と他人をハッキリと分けて考えている部分がある。
読み取ったとしてもただそれだけの事として自分の中で処理し、気にも留めないことが多い。
それに対して伸は大概の場面に於いて公平で、そして近しい人間になればなるほど彼は優しい。
今も、そして昨日のことも、ここ最近ずっと様子のおかしい当麻を気遣って切り出しているのは、言われている当麻も解っていた。
だがどうする事も、どう言えばいいのかも解らない。
「ねえ、当麻。……キミ、本当に…大丈夫なの?」
昨日とは違う言葉を投げ掛ける。
聞かれて目を逸らした当麻の反応が、昨日のそれとは微妙に違うことに伸はやはり気付いた。
「…当麻?……当麻、…キミ………何を、されたの?」
顔を少し青褪めさせ、真剣な目で伸が問う。
腰を浮かせ、向かいに座っている当麻の肩を掴み揺さぶってみたが、当麻は目を逸らしたまま彼を見ようともしない。
「とうま……っ!?」
『お、おやめください…!』
『ヨイではないか、ヨイではないか』
悪代官風の征士(丁髷を結っている)が、いたいけな町娘風の当麻(いつもの頭に髪飾りが付いただけ)にイヤラシイ顔で迫り、腿に手を這わせている。
既に床が用意された部屋は2人きりで、幾ら人を呼んでも誰も助けには来ない。
帯を解かれ、着物を肌蹴られた町娘は哀れにも、悪代官の下に組み敷かれてしまい、後は……。
「当麻…!!」
伸の脳内では当麻がエライ事になっていた。
昨夜、母親が見ていた古い時代劇の映画のせいだ。無駄に挿入されていたそういうシーンを、見たまま、つい彼ら2人で再生してしまった。
伸だって当麻と同世代だ。そして仲の良い彼らは2人揃ってまだAVの類を見た事がなかかったのだから、他に思い浮かぶ、
参考になりそうな映像がなかったのだ。仕方がないといえば仕方がない。
だが兎に角、想像してしまい軽い混乱を起こしている伸は必死だ。真面目に、必死だ。
「当麻!未成年に手を出すのは立派な犯罪だからね!」
「て、手を出すって……!」
何を想像したのか突然考えが飛躍した伸に当麻が焦り、それを正そうとした瞬間、スパン!と音を立てて伸の部屋の襖が開いた。
近所の家と違い立派な日本家屋である毛利家に洋室はなく、伸の部屋も無駄なく綺麗に整えられた和室だった。
それは置いておいて。
襖を開けて現れたのは伸の姉、小夜子だった。
「当麻君、もう大丈夫よ。お姉ちゃんがちゃんと通報してあげるから!」
手には携帯を握り締めた彼女。
今にもコールしそうな先が解った当麻は伸の想像を止めるよりも先に、慌てて彼女を止めにかかった。
「じゃあ何?キミはあの男にキスされたわけだ」
「…キスっていうか………まぁその、…欧米的に」
状況を吐かされた当麻は、頬に彼の唇が触れた事を話した。
それより以前から続けられている、肌を撫でられているという部分だけは伏せて。
そんな事を言えば、未だ携帯を手から離さない姉が絶対に通報してしまうのは目に見えている。
「どうして急にそんな事をされたの?」
その姉は優しい口調と優しい笑みを浮かべて、特に問い詰めるといった風ではなく尋ねてくれているのだが、
目だけが笑っていない。いや、それは弟のほうも同じだ。
だがそんな目で見られても何故なんて解る筈がない。名前を呼ばれ、触れていいかと問われ、頷けばキスをされていたのだから。
「俺も、…知らない」
瞬き一つせずに姉弟は見つめたが、どうやらその言葉に嘘がないと解ると同時に溜息を吐いた。
「………わかったよ、当麻。この件に関してはオシマイ、もう聞かないよ。…その代わり今度から僕も一緒に伊達さんの家に行く」
「…え、」
「そうね。伸ちゃん、そうしなさい」
「いいよ、そんなの、」
「本当は行くのをやめて欲しいけど、キミ、やめないだろ?だったらこれ以上、何かされないように見張る人間が必要じゃないか」
「いいって…!」
当麻は必死に抵抗をした。
2人きりの部屋で自分たちが何をしているのか、何をされているのかを見られたくはない。
それに2人だけのあの時間を、それが譬え親友であっても他者に介入されたくない。
自分たちの関係が友人というよりも飼い主とペットのようであったとしても、それが悲しいと思ってしまっても、当麻は関係を絶ちたくなかった。
「俺、平気だから…!」
「平気とかそういうんじゃないんだよ!?」
「そうよ、当麻君。何かあってからじゃ遅いの。解るでしょう?」
「でもいいって………っ!!!………大丈夫、俺、ちゃんと………自分で何とかできるから」
「でも当麻君、」
言いかけて小夜子の言葉が止まった。
当麻の大きな目が潤んでいる。
人の前で見せる感情と言えば喜と楽しかない当麻が、怒るのは面倒だし泣くだけ無駄と割り切っている筈の当麻が、今にも泣きそうだ。
それを見た姉は続けようとしていた言葉を溜息に変えて吐き出した。
「………わかったわ、……伸ちゃん、やっぱりやめてあげましょう」
「でも姉さん…っ」
「いいから。…当麻君、でもこれだけは約束してちょうだい」
「………………………何かあったら、ちゃんと逃げること?」
「それは当然のことよ。…そうじゃなくてね、あなたに何かあったら悲しいと思う人間がいるの。それだけは忘れないって約束してちょうだい」
ね?と、幾分か和らいだ瞳で言われ、当麻は素直に頷いた。
「それから自分の気持ちを大事にして欲しいの」
「……?」
「自分の気持ちをきちんと考えて、それから行動して欲しいのよ」
幼い頃から頭が良く、だからこそ素直になりきれず完全に甘えてはくれない、ずっと孤独を抱えている当麻を小夜子は心配していた。
憐れむわけではないが、それでも不憫に思ってしまうのだ。
寂しさから目を逸らすように、いつしか自分の心とちゃんと向き合わなくなってしまった彼の事を、小夜子は気に掛け続けていた。
その当麻の、僅かではあるが彼の変化に彼女は気付いた。
当麻自身も未だ気付いてはいない可能性のある、その感情。
「約束できる?」
「…うん、する」
「よろしい。…それからね」
「………って、まだあるのかよ…」
確かに約束は1つとは言っていないが、それでもまだ続くらしい彼女の言葉に、ついウンザリとした言葉を挟んでしまった当麻が彼女を見ると、
眉根を寄せて片方の口端だけを上げているのが見えた。
これは昔からする彼女の癖で、幼い弟たちがつまらない悪戯や悪ふざけが過ぎた時に見せる、戒めの表情だ。
「…ゴメン」
ヒステリックに怒ることの少ない彼女の事だ、今回の事だって自分の事を真剣に心配してくれているのは解っているから、素直に謝罪の言葉を口にする。
「で、何?」
「伊達さんにね、会わせて欲しいの」
「…………。…………何で?」
見合いの時点では会いたくないと言っていた彼女の変化に当麻が戸惑うのも無理はない。
一体彼に会って何をしたいというのだろうか。
「会って、ちょっと確かめたいのよ。勿論、2人きりでなんて会わないわ」
「姉ちゃんにはコイビトいるもんな」
「それもだけど、それよりも2人で会ったりしたら、私、顔面の形が変わるまでぶん殴りそうだわ」
穏やかな笑顔と優しい声色で、とんでもない単語が飛び出た。
昨日の伸のキンタマ発言といい、この姉弟、相当堪りかねているのか、それとも本性は”こう”なのだろうか。
「姉さん、ぶん殴るのはやめなよ、流石に…。姉さんからそんな言葉が出ると何か悲しいよ」
それまで黙っていた伸も、呆れたように口を挟む。昨日の自分の発言は棚に上げて。
「黙りなさい、伸ちゃん。私が何を言おうと私の勝手よ。…それよりも。会う時は当麻君も、それに伸ちゃんも同席しなさい」
「え」
「何で?」
「はっきりさせた方がいい事があるからに決まってるでしょ?」
にっこりと、優しく美しく微笑む彼女に、弟2人は顔を見合わせて同じ角度で首をかしげた。
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思った以上にお姉さんが出てきてます。