時に野を往く
例の見合いから3日が過ぎた。
あの後、当麻より先に冷静さを取り戻した男は今回の見合いはなかった事にしようと言い出した。
それは当麻としても有難い。それが当初の目的だったのだから。
だが流石に伸の叔父の手前そういうワケにもいかず、やはりどちらかから断りを入れる事になった。
すると男は、ならば毛利さんの方から断っていただこうと言ったのだが、それは流石にどうかと当麻が止めた。
今まで断り続けてきた男が逆に断られるというのは周囲に余計な興味を引かせてしまう。
それは男にしても、伸の姉にしても。
だから今回も伊達さんが気に入らなかったという事にしたほうがいい、と言った当麻を、男は少し驚いて見つめ、
そしてすぐに微笑んで、そうしよう、と同意を返した。
翌日に彼の方から断りの電話があったと伸から教えてもらった。
彼から姉が大層喜んでいたと聞かされ、当麻自身もそれを喜んだ。
あれから、3日。
当麻は何故かこの3日間、時々あの男、伊達征士の事を思い出していた。
乱れた着物を元に戻せず困っている自分に手を貸してくれた時の、あの優しい手つき。
いや、そもそも彼が乱したのだからソレは当たり前の事だったのかもしれないけれど、それでもあの時の事が何故か頭からはなれない。
あの手が、自分の肌に触れたのだという事も。
そしてそれを思い出すたびに、突然脈が速くなるのだ。
その苦しさを逃がすように溜息を吐くのがこの3日での癖になってしまっていた。
「また溜息」
後頭部をパシンと叩かれ振り向くと、カバンを持った伸が立っていた。
「ってぇなぁ……」
「もうとっくに授業も、終礼も終わったよ。何ボーっとしてんの。居残り勉強でもするつもりかい?」
常に学年トップのキミには必要ないだろう?と笑いながら言う伸の表情は、もう明るい。
姉の見合いだけでなく、その恋人の独立ももう目途が立ちそうなのだという。
独立が決まれば、あとは少しだけ時間を置いて2人の仲を公にする事が出来る。
シスコンでなくとも身内の慶び事は嬉しいものだ。
それが今の伸の表情にはありありと浮かんでいた。
「てっきり帰ってるかと思ったのに」
そう言われて当麻は首をかしげた。
時計を見ると既に3時40分。終礼が終わってから既に20分経過していた。
6時限目の授業が終わってからずっと机の上に出しっぱなしになっていた教科書やノートを、クラスの誰も気付かなかったのだろうか。
いや、それは先ず自分が気付くべきだったかと思いはするが、それよりも、帰ってるかと、とはどういう事だろうか。
「…何で帰ってる?つーか、伸、教室にいなかったのか?」
「いたよ、終礼までは。…あっきれた、キミ、終礼の後で僕が先生に呼び出されたのも聞いてなかったのかい?」
それに気付いていたならば教科書も何も綺麗に片付けて帰り支度をしているであろう事を解って伸は言う。
「呼び出しって…お前、何したの?」
「僕じゃないよ。キミの事」
「……俺?俺、なんかしたか?」
「キミさぁ………進路志望の紙、何書いて提出したかわかってるの?」
進路志望。
彼らはまだ1年だが、2年生からは自分の進路に見合った学科を幾つか選択する事が出来るようになる。
だから1年とは言え各生徒の進路を教師がある程度把握し、適切に指導できるようにそれの提出を求められたのが昨日の朝だった。
「別に変なこと書いてないだろ」
「書いてるよ!何なの、高野山でお坊さんになるって!」
「なんだよ、なっちゃ駄目なのか?大体変なことじゃないだろ、俺、昔から言ってるんだし」
「そりゃね、昔からそう聞かされてる僕からすれば普通だけど、先生からしたら奇妙なモンなんだよ。
だから先生に呼び出されて、羽柴のコレは本気なのかって聞かれたの!」
「で、伸はなんて言ったんだよ」
「まぁ昔から言ってますから…って答えたけどさ…」
「正解。それでいいじゃん」
全く表情を変えずに言う当麻に伸は釈然としない。
当麻は子供の頃から天才だった。
3歳の時、偶々目にした楽譜を一度見ただけで彼は譜面どおりに、見事にピアノで弾いてみせたのだ。
まだ小さな手だったから覚束無い箇所はあったが、それでも譜面に書かれた記号の意味を、誰に教わるでもなくきちんと把握して。
周囲の大人は彼に母譲りの才能を見て、いずれは世界に、などと勝手に盛り上がった。
だがある程度成長した当麻は、確かに譜面どおりには弾けたが、それ以上の、所謂”感情を込めて”は弾けなかった。
それに徐々に気付いていった大人たちは静かに去っていった。
しかし直後に当麻の天才的なまでの頭脳が露見した。
今度は父親譲りの天才だと先とは違う大人たちがまた勝手に盛り上がった。
将来は学者になるのだろうと誰もが彼に期待を込めた。
彼自身にも知的欲求や好奇心は大いにあったので、音楽の才能とは違いどこまでも彼は成長をした。
それに伴い周囲の期待も常に加熱気味になっていった。
ある日、大人の1人が既に1つの答えを期待して質問した。
当麻君は大きくなったら何になりたいの?と。
まだ小学3年生だったが物分りのいい当麻だ。大人を喜ばせる答えなど判りきっていた。
だがその時、彼が口にしたのは、
「お坊さん」
だった。
何てヒネた奴だろう。
周囲の大人は顔を引き攣らせながら笑っていたが、伸だけはそう思ってそれを聞いていた。
勝手に自分の将来を決める大人に嫌気が差していたのは何となく伸も知っていた。
だからちょっとした意趣返しなのだろうとは今でも思っているのだが、こうずっと言い続けられると本気でそう思っているのか迷ってくる。
実際本人にどういうつもりかと問い詰めてみても、俺は俗世を捨てて悟りを開く、などとしか言ってくれない。
大学までは普通に自分の知識欲を満たしていたいが、その後はスッパリ世間から離れたいのだと。
何も出家して僧侶になる事が悪いわけではないから、本気でそう思っているのなら伸だって反対はしない。
ただ、本当にそれが彼の本気の望みなのかが判らないから今も戸惑ってしまう。
子供の頃から知る、親友なのにきちんと向き合われてないようで、戸惑ってしまう。
「伸、帰らないのか?」
さっさと帰り支度を済ませた当麻がカバンを手に自分の袖を引っ張るのに気付いて、伸も慌てて自分カバンを持ち直した。
「帰るよ」
ぶらぶらだらりと家へ向かう。
「ねえ当麻、今日、家で御飯食べない?」
毎日ではないが週に何度か当麻は毛利家で晩ご飯を食べている。
だから改めて聞かずに、今日は家においでよ、と言えばいいのだが今回は見合いの礼もある。
母と姉が腕を奮って食事を作ってくれるのだと伸が伝えれば、当麻の目が嬉しそうに輝いた。
「マジ!?やったーおばちゃんも姉ちゃんも料理上手だモンんなぁ、楽しみ!」
「じゃあもうちょっと喜ばしてあげよっか?今日は手伝わないけど、昨日の仕込みは僕がしたんだ」
「やったー!!!じゃあ俺、今日は間食しない!」
当麻の三大欲求は、食べる眠る知る、だ。
細いし未だに成長期が来ていないが、それでも食べる量だけは凄まじい。
燃費の悪い車のようにすぐに腹を空かせては、大概の場合、食事の時間まで我慢できずに何かしら間食をしている。
が、今日はしないと宣言した。それだけ、伸の作る料理に期待をしている当麻だった。
往来であるにも拘らず大きな声を出して喜んだ当麻の腕を、突然誰かが掴んだ。
「…っえ…!?」
驚いて2人揃って振り返る。
「………やはりキミだったか…」
そこに居たのは、3日前の見合い相手、伊達征士だった。
「なん、で…」
「毛利さんからの依頼という事なら知り合いだろうし、見た感じから弟さんと歳が離れていないと思って彼の近くを探していた」
「…探してた?」
その言葉に、伸が眉間に深い皺を刻んだ。
あの時と違いスーツではなく、カジュアル過ぎない私服姿の彼は、見合いの時に比べれば幾分か歳相応に見える。
その彼が、当麻を探していた、と。
「………ねえ、当麻、どういうこと?…キミ、男ってバレたわけ?」
姉と2人がかりで女装させた当麻が、そんじょそこらの女性より可愛らしかった事に彼ら姉弟は自信を持っていた。
あの日の当麻は女性物の着物を着て化粧をしていた。
髪の色だって本来はとても珍しい色をしているのだが、あの時は栗色のカツラを被っていた。
バレるはずがないという自信もあった。
対して今は制服姿だ。本来の、羽柴当麻の姿だ。
あの日の”彼女”が当麻だと示す証拠があまりにも少ない。
青い目と声くらいしかないが、勿論あの時はこんなに騒いだ声を立ててなどない。
それでもこの男は、男の状態の”彼女”を見つけてしまったのだ。
あの場に居合わせた者全て、誰もおかしな顔などしていなかったというのに。
だとしたらこれは、気付いた、のではなく、男だと知っていた、という事かと伸の目が険しくなる。
「バレたっていうか…その………白状しないとちょっと姉ちゃんも俺もマズかったって言うか…」
見合いは無事に破談の方向になったとその日のうちに報告していたが、どうやったかは誰にも話していなかった。
巧く出来なかった自分が恥ずかしいというのは勿論あったが、それ以上にあの密室での出来事を当麻は話したくはなかった。
あんな風に肌に触れられて、それを気持ち悪いと思わなかった自分を認めたくはなかった。
口篭ると伸が、ふうん、とだけ返し、すぐに征士に向き直る。
「で、何かご用ですか」
腕をつかまれたままの当麻を背に庇うように伸が前に出た。
「あの時のことでしたら、あれは貴方の言うとおり僕が当麻に頼んでやってもらった事です。だから僕が謝ります」
「……謝る?何故」
「…見合いに替え玉を使って、しかもソレが男だったなんて馬鹿にしてると思われても仕方が無いからです」
征士は首をかしげ、そして伸の後ろに庇われている当麻を見た。
幾分か表情が和らいでいるように見えるのは、伸の気のせいだろうか。
「なるほど、それが本来の姿か」
「あ……………はい…」
「その方がいいな」
言って向けられた微笑の意味を量りかねて、いよいよ当麻は困ってしまい彼から目を逸らした。
「何の、用ですか」
一方、その笑みをからかわれていると捉えた伸は先程よりも語気を強めて再び問う。
視線を当麻から伸に戻した征士の表情は、やはりどちらかと言うと硬質なものだった。
それがまた伸を苛立たせる。
「先日のことでしたら、」
「その事はいい。…いや、良くない部分もあるのだが………」
伸の言葉を遮り、何かを思案した征士はもう一度目を逸らしたままの当麻を見た。
「とうま、といったか。…先日の事のお詫びに食事に誘いたい。…いいか?」
「…侘び?」
「侘び…」
当麻と伸がほぼ同時に返した。
意味がわからず当麻が征士を見ると、彼の視線が意味有り気に自分の胸元へ注がれた。
咄嗟に持っていたカバンで胸元を隠し、また目を逸らす。
その視線の意味は判らなかったが何か不穏な空気を読み取った伸が、当麻が答えるより前に口を開いた。
「すいません、当麻は今日、僕の家で御飯を食べる約束なんです。だからそのお誘いはお断りさせていただ」
「お、お茶くらいなら…!」
またも遮られた伸の言葉だが、今度は当麻がその主だった。
「…当麻…?」
「お、俺も…謝りたい、し……あ、大丈夫、絶対何も食わないから…っ」
「当麻、そういう事を言いたいんじゃなくて」
「なら決まりだな。大丈夫、ちゃんと夕食の時間には帰す」
そうしてまた微笑んだ彼を伸は睨みつけ、そして今度は当麻に、何かあったらすぐ電話するんだよ、と耳打ちして親友を見送った。
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伸ちゃん警戒モード。