時に野を往く



皐月の悲鳴が上がって少し後に伸が縁側に戻ってきた。
それに気付いた彼女はすぐに伸に泣きそうな顔で縋りつき、どうしよう、と言ったのだ。


「どうしようって…何が?」

「当麻さん!で、出てっちゃったの!私、余計な事を言ったから…!!」


後悔と混乱を同時に抱えた彼女から視線を外すと確かに当麻の姿はなく、代わりに足袋が落ちていた。


「…………………うん、大丈夫だね」

「…え?」

「当麻、何て言って出てった?」

「…”ちょっと行ってくる”って…」

「じゃあ、大丈夫」


彼女を安心させるように優しく笑った伸は、救急箱を用意しといたらいいと思うよ、と言って脱ぎ捨てられた足袋を拾い上げた。






その騒動から大体1時間半ほど経った時だった。
伊達家の前に車がとまる音がして皐月が大慌てで門の外に飛び出した。

すっかり暗くなった其処にいたのは兄と、その兄に抱えられている彼の伴侶となった少年だった。


「……遅くなった」


征士は短く言うと今にも泣きそうな皐月の横を通り抜け、玄関に立っている姉に救急箱の所在を尋ねた。
姉はそんな彼を一睨みだけして、離れに置いてるわ、と此方も短く返したのだった。

言いたい事は山のようにあったのだろう。
だが抱えられている当麻の足を見れば今はそんな小言よりも手当てが先だとすぐに気付く。
白い、骨ばった足は皮が剥け、爪が割れ、身を切るような冷たい空気にいつまでも晒すには些か痛々しすぎた。
彼の母だけは極力穏やかな顔でまるで何もなかったかのように、手当てが済んだら当麻さんの帯を解くのを手伝ってあげなさい、
と息子に声をかけていた。





離れに運び込まれていた年代物のソファに優しい手つきで下ろされた当麻が征士の表情を伺うが、そこには何の感情も見えなかった。


「湯を取ってくる」


スーツの上を脱ぎ、ネクタイを放り出した征士はやはり短くそれだけ告げて離れから出ていった。

タクシーに乗せられてからずっと、征士は黙ったままだった。
流石にやりすぎたのかも知れない。
しつこい女だと聞いて腹が立ったのは勿論あった。だから態と、その女に見せ付けるように駆けつけてやった。
その女より若い自分が、それも白無垢を着た姿で。
まるで待ってるのが寂しかったと言わんばかりの行動をとってやった。
だが、確かにそれは計算高すぎる行動でもあった。
幾ら征士を助けるためだったとは言え、誠実な彼にはそれは充分に軽蔑に値する行動だったのかもしれない。

反省は、している。

抱き締めてくれたしキスもしてくれたが、やはりあまり褒められた行動ではなかったのかもしれない。
しかも両足に傷を作り、他の家族にまで心配をかけた。

ろくに説明もせずに飛び出したから、皐月は自分の発言を悔いたのだろう、今にも泣きそうな顔をしていた。
弥生の強張った顔は突然いなくなった自分を心配してくれたからこそだというのも解った。
穏やかな顔で迎えてくれた母に対しては申し訳ない感情しか沸かない。

反省は、している。そして後悔も。


落ち込んでいると征士が桶を手に室内に戻ってきた。
彼が今、どんな目で自分を見ているのか確かめる勇気がなくて当麻は俯いたままそれを迎えた。


「少し沁みるかもしれない。…我慢できるか?」

「…………うん」


征士は座らせた当麻の足元に跪き袖を捲くると、まず右の足を自分の膝の上に乗せて湯で濡らした柔らかな布で、血と汚れを落とし始める。
適度に温かい湯のお陰で当麻は痛みをあまり感じずに済んだ。
丁寧に洗い終えると、今度は左の足も同じように洗っていく。
両の足が粗方綺麗になったのを確かめて次は消毒液を沁み込ませた綿で傷口を拭った。
最後に包帯を、大きな手で器用に巻きつけていく様を当麻は俯いたまま何とはなしに眺め続けた。

武骨だけれど、優しい手。
真面目で不器用な彼を助けてやりたくて取った行動だったが、やはり自分はズルイだけの人間なのかもしれない。
頭ばかりで心がないのだ。

そう思うと次第に目が潤んできてしまう。
それを悟られたくなくて目を閉じる。


「…当麻」


征士の低くて静かな声が聞こえた。


「その………すまなかった」


包帯を巻き終えた足を、そっと包み込む大きな手の感触がある。


「私のためにこんな怪我をさせてしまった。…それに寒かっただろう?…すまない」


ゆっくりと持ち上げられる足。
そこに触れた、柔らかい感触。

何事かと思った当麻が目を開けると、自分の足の甲に征士が口付けていた。


「せ、…いじ…?」

「なのに、…すまない」

「何で謝るんだよ…俺、が…勝手にしたことだし……それに…俺、幾らなんでも悪い事、したのに…」


謝りながらも触れることをやめない征士の唇は、足の甲から足首、臑をゆっくりと上ってくる。


「当麻は悪くはないだろう?私のためにしてくれた事だ。不安にもさせた……なのに私は………」


綺麗な骨の形が見える膝に口付けて。


「そんなお前に、欲情した」


口付けた時の汗の匂い。
上気した頬。
たくし上げられた裾から覗いた、真っ直ぐに伸びた脚。
抱き締めた時のいつもよりしっとりとした肌、高い体温。
常よりも赤く色付いた唇が尖らされた様。

それら全てに。


「キスがしたいと思った。…それ以上の事も」


そう言いながら今度は手が当麻の足を撫でる。
唇の時と同じように、ゆっくりと足の指1本1本を確かめるように撫で、踝の骨の形をなぞり、そのまま脹脛を撫で上げ、膝裏を擽る。
着物の裾から入った手が腿を這い、そのまま更に進もうとした。


「……ま、待った!」


それを当麻が慌てて止めた。
不思議に思った征士が顔を上げると、顔を真っ赤にして必死に征士の手を止めている当麻がいた。


「…なぜ?」

「だ、駄目だって……それ以上、手、…駄目…!」

「……嫌なのか?」


拒絶とも違う表情をしている当麻だが、征士は少し遠慮がちに聞く。
すると当麻の首は横に振られた。やはり拒絶ではないらしい。


「…では何故」

「そ、……その、……だって俺…………………………何も、………穿いてない」


消えそうな声で返された言葉に征士は思わず絶句してしまった。

何も、穿いていない。

何故、と聞こうとして、だがすぐに納得がいった。
着物を着ているのだ。
こういう時には下着を着けないものだと母親が常に言っていたのを思い出して征士は黙った。
実際に姉や妹、そして母が着物の時にどうかは知らないし知る気もないが、なるほど、これはこれでいい。などと1人悦に浸る。


「だから……、恥ずかしい…」

「…わかった。では当麻」


征士が着物の裾から手を抜いてくれた事に安心した当麻は、彼がすぐ隣に座ったのを不思議そうな顔で見上げる。
その小さな顔を、征士の大きな手が包み込んだ。


「キスを、しても?」


それも、恥ずかしい。
だがしたくないワケではない。
寧ろずっと待っていた。

身体をきつく抱き締められ、肌に懐かれる事はあってもキスはした事がない。
いつしてくれるのかと思っていた。昼間にもそういう流れはあったがあの時は人前だから恥ずかしかった。だが本当はしたくなかったワケではない。

だから。

小さな声で返事をして、ゆっくりと目を閉じた。


すぐに柔らかな何かで唇を塞がれた。
最初は重ねるだけ。徐々に角度を変えて、唇を食み合って。
その感触に慣れ始めた頃に、薄く開いた箇所から舌が入り込んできた。


「……ん…っ」


始めのうちは戸惑いはしたがずっと相手が欲しかったから、貪欲に絡めあい、貪りあった。

静かな部屋には濡れた音と、時折漏れる甘い声だけしか聞こえない。




当麻がキスに夢中になっていると、不意に胸から腰にかけた辺りが軽くなる。
少しだけ驚いて唇を離すと、いつの間にか征士が帯を解いていた。


「……………器用なんだな…」

「苦しいかと思って」


確かに伊達の母は、帯を解くのを手伝ってやれと言っていた。
だからと言って何もこのタイミングでなくても…と当麻は少し笑ってしまう。


「…律儀だなぁ征士は…」


そう言ってクスクスと笑っていると、突然、征士の手が身八つ口から差し込まれた。


「………っ!?…、せ、征士…!?」


驚く当麻を、征士は面白そうに、だが愛しそうに見つめる。
侵入してきた手は、だがただ触れただけだった。


「最初の時も、当麻は女物の着物を着ていたな」

「…そう言えばそうだったな」

「あの時のお前は、”毛利小夜子”だった…」


初めて会ったのはまだ当麻が誕生日を迎える前だ。
あの時は小夜子の身代わりで、見合いを台無しにする為に当麻は征士と対面していた。


「気に入った途端、突然こうして胸を触らされたんだったな」

「…断って欲しかったからね。…男だってバラすしか無かったんだよ、あの時は」

「そうだったな。だが私はそれがショックで…それで自分の目で確かめようと思って…」


身八つ口からそっと手を抜くと、今度は征士の手が白無垢の襟元に伸ばされる。
そしてあの時と同じに、だがあの時と違って優しい手つきでそこを広げた。


「こうして、…お前の肌を見た」


既に帯の外された着物は簡単に大きく開き、以前よりも胸が顕になる。
それに照れた当麻が身を捩って隠そうとしたがそれは征士の手で阻まれた。

ゆっくりと肌を撫でる手。
その感触に当麻が目を閉じる。
大きくて温かな手が、じっくりと白い胸を味わうように這った。


「あの時、お前が声を出さなかったら……きっと私はあの場でお前を求めたかもしれない」


真摯な目で見つめ、とんでもない事を征士は口にした。
あの時既に欲情していたのだと。


「…とうま」


優しく名を呼んだ低い声は、いつもよりもずっと艶を含んでいた。
それに当麻が答えるより先に着物を留めていた腰紐を抜かれ、長襦袢も手早く肌蹴られてしまう。
そうすると当麻の裸体が落とされてもいない明かりの元に晒され、それを恥ずかしがって慌てて隠そうとした細い手を征士の手が阻んだ。


「征士…っ」

「隠さないで。………見せて欲しい」


声も出せない当麻の肌の上を征士の清廉な眼差しが滑っていく。

浮いた鎖骨、なだらかな白い胸、そこにある赤く愛らしい蕾。
更に視線を落とせば起伏の少ない腹に形のいい臍が窪みを作り、その先にある下腹部には髪と同じ色の茂み、
そしてその下には桜色をしたものが、柔らかに勃ちあがりかけた状態でそこにあった。


「当麻………、とうま、……凄く、綺麗だ」


じっと見つめられ、羞恥に当麻の頬が赤く染まり、目が潤んでいく。
これ以上、こうして見られていたくない。
明らかに欲情した目でそんな風に見られるのは初めてだった。


「せいじ………」


今にも泣きそうなほどに濡れた目で見つめ返す。
何度か躊躇って、それでも堪えきれずに当麻の細い指が征士のスラックスに伸びる。


「俺も………征士の、……見たい」




*****
初めて。