時に野を往く
「お兄ちゃん、遅いね…」
赤く染まった空を見上げて皐月がぽつりと零した。
時計はとうに4時を回っている。
集まっていた親戚たちも疎らに帰り始め、伊達家の母と弥生、そして毛利家の母と小夜子が宴の片付けをしている。
皐月と伸は当麻の話し相手として縁側に3人で並んでいたのだが、花器を片付けるために伸が呼び出されて今は当麻と皐月の2人だけだ。
征士が出て行ったのが大体1時半過ぎ。
本当ならば2時半、遅くとも3時半には戻ってくる予定なのだが彼は未だ戻っておらず、連絡さえない。
既に普段の服に着替えた皐月と違って当麻は律儀に白無垢のままだった。
つい先ほどまでは伸が当麻との子供の頃の話をし、皐月が子供の頃の兄が近寄り難い存在だったと話して盛り上がっていたのだが、
陽も傾き始め町並みが静かになってくると自然と彼らの声も沈んでいった。
「あ、でもお兄ちゃん絶対約束は守るからさ、戻ってくるよ…!」
うっかり遅いなどと言ってしまった彼女は、それでも彼女なりに必死に隣にいる”花嫁”を励まそうと明るい声を出した。
それに当麻は曖昧な笑みを返し、そうだな、と力なく答えた。
流石に着慣れない着物にも疲れてきたのだろう。
待つのにも疲れてきたのかもしれない。
時折、当麻がそっと溜息を吐いているのに皐月も気付いていた。
だから彼に白無垢を脱いでいるよう勧めはしたのだが、当麻の首が縦に振られることはなかった。
征士と約束したから。
それだけしか返してくれない。
自分と同い年だと言う少年の俯き加減の横顔は男だと解っていても色気があり、お兄ちゃん…絶対にお姉ちゃんの雷が落ちるよ…なんて思いながらも、
皐月はどうにか彼を励まそうと話題を探した。
「そ、そーそー、あのね、教授だけどさ」
「…ああ、五所川原って人?」
「うん。何かね、すっごい変わり者なんだって。寝るときにパンツ穿かないどころかパジャマのズボンも穿かないって」
「上は着たままで?」
「うん。そうなんだって!」
力一杯に返事すれば、漸く当麻が笑ってくれた。
それに皐月も勇気付けられる。
「……変な人だなぁ……って皐月ちゃん、それ、誰から聞いたんだよ」
まさか征士?と聞き返されて、皐月は得意げな顔をした。
「ううん。教授の助手もしてる、院生の笹田さんって人」
「ささだ?」
「そ。あ、でもね、この人、私あんまり好きじゃないの!」
「何で?」
「何かね、すんごい偉そうで自分の事を凄いでしょ?っていう態度がダダモレで、しかも教授のこういう事、皆に言いふらしてんの!」
「………何か凄い人だなぁ……でも皐月ちゃん、その人と話す機会なんかあったんだ?」
至極尤もな疑問を口にすれば、皐月が嫌そうに顔を顰めた。
それに当麻が首を傾げつつ続きを促す。
「だってその人、家までお兄ちゃんのこと迎えに来た事もあるし、何回もお兄ちゃんに電話してきてたんだもん」
「征士に?」
「でね、全然相手にされないから外堀から埋めようととして、私に親しげに話しかけてくんの!その時に聞いた話、さっきのは」
ふん、と腕組みした皐月は、ついポロリと漏らしてしまった。
「そりゃスタイルはいいけど、年増の、ホンットに嫌な女!きっと今日もお兄ちゃんが来るって言うから、教授にくっついて来てるに決まってるんだから!」
「…おんな」
静かな声が返ってきてから皐月は、しまった…という顔をしたが既に遅い。
当麻の耳にはしっかりと先程の情報は入った後だ。
「あ、でも違う、違うのよ当麻さん、違う、お兄ちゃんはホンットに相手にしてない!嫌ってるから!!絶対違うって」
「……その人、しつこいんだ?」
必死に話しかけたがそんな事は無視するように当麻に聞かれ、皐月は仕方なく頷く。
しつこいのは本当の事だ。
「自分に自信があるタイプ?」
「……うん」
「征士に嫌がられても引かないんだ」
「…………………うん」
へー、と何の感情もないような声を漏らしたきり当麻が黙ってしまったのを、皐月は不安げに見つめる。
伴侶を得た日に他の女にうつつを抜かすなど、あの兄においては絶対にありえないことだ。
誰かが傍にいることも誰かに触れられることも嫌ってきた兄が、唯一共に居たいと思った相手は今自分の横にいる白無垢姿の少年であり、
他になど決して目が行く筈などない。
それはきっと彼も知っているだろうけれど、それでもこの沈黙をどうにかしたくて、だがどう言えばいいのかさえ解らずただ少女は狼狽えた。
長く静かな時間だけが過ぎる。
「……うん」
皐月が自分の失言を後悔していると、何かに納得したらしい声を当麻が出した。
顔を上げて彼を見ると初めて見た時のあのどこか可憐な顔でもなく、今日見た美しい顔でもない、はっきりとした意思のある、
男らしい目をした少年がそこにいた。
「と、……とうま、さん?」
「俺、ちょっと行って来る」
そう言うと当麻は突然立ち上がり、そしてまた何か思案してから、うん、とまた頷いて足袋を脱ぎ捨てた。
呆気に取られる皐月を尻目に当麻はそのまま縁側のガラス戸を空けて裸足のまま庭に降り立つ。
「ふたばってさ、大通りに出て左ってお義母さん、言ってたっけ?」
「え、…ええ、うん、そう。大通りはここを真っ直ぐ行って…交差点大きいしすぐ解ると思う…」
驚きながらも答えると、当麻はありがと、と言って白無垢の裾を少し持ち上げて走り出してしまった。
「え、…………………え、えええ、ええええええ!!!?」
皐月が驚きに声を上げたのはそれから随分と後で、既に当麻の姿は門の外へと消えた後だった。
征士は困るを通り越してハッキリと怒っていた。
教授には自分は今取り込み中のために割ける時間は1時間から2時間ほどしかないとちゃんと伝えた筈だ。
編纂中の本の事だと言われ仕方なく出向いたが、本当ならば当麻の傍から離れたくはなかった。
それでも行くしかなくなったし、その当麻から行くよう言われたのだから渋々でも来てみれば実際はどうだ、誰もが中々本題に入らず
いつまでも下らない話をしているではないか。
それに痺れを切らした征士から切り出して漸く話は進んだが、それでも既に約束の1時間は過ぎていた。
それから更に時間がかかり、時計を見ると既に5時半近い。
当麻に言った時間を大幅に過ぎている。
このまま待つと言った彼はきっと今も律儀にあの姿のままなのだろうと思うと、征士は本当に申し訳なくなってくる。
着慣れない着物で、それも女物だ。動きも随分と制限されているだろうし重みもある。
きっと疲れているだろう。それでも彼が約束を破るような真似をしない事を思うと、征士は一刻も早く家に帰りたかった。
なのにさっきから助手を務めている笹田女史がしつこいのだ。
用事は済んだのだからさっさと帰ろうとした征士を呼び止め、何事かと立ち止まって聞けば、このあと自分は暇なのだと言う。
知るか。というのが征士の答えだ。
実際そう言った。
前々からやたらと自分に絡んでくる彼女の事が、征士はハッキリ言って嫌いだった。
元々自分に好意を寄せる人間が嫌いな彼は、漏れなく彼女の事も嫌いだった。
だから今回も大事な用が自分にはあると言って彼女のその遠回しな誘いはあっさりと断った。
いつもならこれである程度は引いていた彼女だ。
だが今回は違った。
最近、少しは態度を軟化させた征士を見て、チャンスだとでも思ったのだろう。
征士の態度が変わってきたのは誰に対してもで、それは勿論当麻と出会ったからこそ変わってきたものだが、そんな事は勿論彼女は知らない。
知らないが兎に角、この目の前の見た目も中身も完璧な男を自分のものに出来るチャンスだと思ったのだろう。
いつも以上にしつこく食い下がってくる。
それだけに止まらず彼女は、征士がふたばの女将に頼んで呼んでもらったタクシーも勝手に追い返してしまった。
それに征士は困るを通り越してハッキリと怒っていた。
「ねえ伊達君。あなた、女性が暇だって言ってるのに相手もしてくれないの?」
自信をそのまま表したように、胸元の大きく開いた服で征士にしなだれかかると、ねぇ、と猫なで声を出した。
それに征士は嫌悪感も顕に眉間に皺を寄せ、心の底から不快な声で対応する。
「私にはそういった義務がありませんので」
そう言って身を引いて彼女をかわす。
すると今度は腕を取られ、柔らかな胸を押し付けられた。
「あら、男ならもっと女性に積極的であるべきじゃない?」
自信満々な態度と、再びの猫なで声。
だがそれは征士にとって不快なものでしかない。
触れてくる肌も何もかも。
当麻以外の人間に触れることも、触れられることも、征士にとっては不快でならない。
だから思いっきり邪険にその腕を振り払った。
それに彼女が、プライドを傷けられたことへの怒りを目に湛えたがそんなもの、構うものか。
一刻も早く会いたい人が征士にはいるのだ。
そう、青い髪の、可愛らしい。
「征士!」
高くもなく低くもない、独特の甘い声の………とまで考えて征士は思考を停めた。
空耳かと思ったがそれでも周囲を見渡す。
「……とうま」
通りの向こうに、青い髪の、白無垢を着たままの人物がいる。
征士は勿論驚いたが、それには一緒にいた笹田女史も驚いていた。
そりゃそうだ、白無垢を着た人間がいるだけでも驚くと言うのに、それが自分の傍に立っている美丈夫の名を呼んだのだから。
驚いて立ち尽くす2人を通りの向こうから見ていた当麻は、咄嗟に左右の確認をして信号によって車の流れが止まっているのを確かめると、
持ち上げていた白無垢の裾を更に上げ、腿を顕にして植え込みの間をすり抜け車の間をすり抜け、そして2人の近くまで走り寄ってきた。
「征士、…!」
「当麻…お前……っ」
来てくれた事に一瞬喜んだ征士だが、その表情はすぐに曇った。
12月の風はとても冷たく、しかも陽が沈んでしまった今は気温が昼よりも更に下がっており、暗がりのせいで足元がよく見えない。
そんな中を裸足で駆けて来た”花嫁”の足は傷付き、爪が割れて血が滲んでいた。
「当麻、お前、草履は…!?」
「履きなれてないから走れないと思って…」
「では足袋は、足袋はどうした!?」
「折角お義母さんがいいのを用意してくれたのに汚すわけにいかないから…」
「それに当麻、ここまで走ってきたのか!?」
確かに伊達の家からふたばまでは大通りに出てから20分だ。
だがそれはあくまで車での話だ。
人間の足ではもっと時間がかかるし、ましてや着物なんかじゃもっとかかる。
実際、今目の前にいる当麻も肩で息をして、冬だというのに額には汗が浮かんでいた。
髪は乱れているし、頭を飾っていた山茶花も幾つか花びらが散ってしまっている。
「それはちょっと計算ミスした……」
ちょっとなんてレベルではないだろうと征士は言いかけたが、そんな事は今はいい。
文字通り形振り構わず来てくれた存在が愛し過ぎて、往来だというのに人目も憚らず征士はその細い身体を力一杯抱き寄せ、
頬や額に何度も口付ける。
呆気に取られたのは笹田女子だ。
征士が見合いをしているというのは実は学内では結構有名な話で、そうなると当然、彼が断り続けているというのも周知のことだった。
だが、では今目の前のこの白無垢姿の”少女”は誰だろうか、何なのだろうか。
どう見ても胸はないし、先ほど顕になった腿を見ても肉感的な身体の持ち主でもない。
しかし明らかに自分より若く、化粧だってそれほど施していないのにとても綺麗な肌をしている。
しかもあの伊達征士が慈しむような目を向け、しかも抱き寄せてましてや口付けるだなんて。
一体この人物は誰だというのだ。白無垢で現れたこれは一体何だというのだ。
「すいません、見ての通りこれは怪我をしていますし、私は連れ帰りますので」
失礼、とだけ言い残して征士は当麻を抱きかかえてもう一度タクシーを呼んでもらう為にふたばへと歩いていった。
呆気に取られたままの彼女が再び動けるようになるのにはもう少し時間が必要なようだった。
「当麻、足は大丈夫か?」
足が痛まないように抱きかかかえ直して征士が聞くと、当麻は案外あっけらかんとした声で、大丈夫、と返してきた。
「征士こそ大丈夫だったか?」
「…私か?」
「うん。皐月ちゃんが言ってたんだよ、しつこい女だって。征士、女の人の相手って苦手だろ?」
普段の仕事の電話でも、女性相手の時の方が疲れているのを当麻はちゃんと覚えていた。
だからきっと今回も、しつこいと言うのなら付き纏われているだろうし、そうすると彼の疲労も相当だと思ったというのだ。
「だからさ、征士、助けに来た。間に合った?」
目尻を下げてへにゃっとした笑みで当麻に聞かれ、征士は素直に驚いていた。
自分の為だけに家から走ってきたという彼が嬉しいが、その反面、そこまでさせた自分が情けない。
「当麻、まさかお前、その為にわざと裸足で…?」
「んー…それもあるけど、草履は走りにくいし足袋を汚したくなかったのもホント」
「ではふたばまでの距離については…?」
「それは完全にミス。俺、人間の足で20分くらいって思ったんだよ。…だから全然店の看板が見えなくて途中、凄い不安だった」
そう言って紅を塗られ赤くなった唇を少し尖らせる。
その姿に征士は一瞬、完全に固まったが、それでも店の前にタクシーが着くと、すぐに当麻を後部座席に運び込む。
「……兎に角、急いで帰ろう」
その声に得体の知れない”何か”を感じて不安を覚えた当麻は、それでも素直に頷いて疲れた身体をシートに沈めた。
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本日はお日柄もよくダッシュ。