時に野を往く
「…当麻、」
「ほら、征士。遅れるってば。すぐ済むって言われたんだろ?」
「それもそうだが…」
「仕方ないって。今日何してるかなんて公表してないんだし…それに急な呼び出しなんだから」
「だが、」
「大丈夫だよ、俺、ちゃんとこのまま待ってるから。ほら、早く行かないと。な?」
宴は随分と穏やかな雰囲気の中で進められていた。
正面の席には紋付袴と白無垢の2人がいるが、式ではない。
だから本当にただ集まって、彼らを祝って食べ酒を飲み、みなで語らう為の集まりだった。
”花嫁”とは言え食欲も旺盛な少年が食事に関して遠慮する事はなく、膳に出された料理を片っ端から綺麗に平らげていくのを
大人たちは微笑ましく見ていた。
食べっぷりが見事だというのもあったが、何と言っても食べている時の当麻ときたら本当に幸せそうで可愛いのだ。
しかも好き嫌いがない。何を与えても喜ぶものだから、彼らもつい自分の皿のものを少年に差し出してしまう。
それをまた嬉しそうに受け取るのが、夫の立場の青年としては少々面白くはない。
だから先程、おいひー、と言って当麻が海老の天麩羅を頬張っていたの見ていた征士は、まだ手をつけていなかった自分の分を当麻に差し出した。
「当麻、ほら」
他の者はみな皿ごと置いていくか、それか当麻の皿に食べ物を乗せていったのだが、征士は違った。
周囲に見せ付ける意味でその口元に直接運んでやったのだ。
一瞬驚いた当麻だが、何てったって食べるのが大好きな子供なので深く考えもせずに大きな海老に自ら口を寄せて食いついた。
征士も特に考えてはいなかった。ただ、この綺麗で可愛い生物は自分のものだと見せ付けたかっただけだった。
「…何か………お兄ちゃん、卑猥…」
その光景を見てボソリと言ったのは皐月で、言った直後に姉の弥生に二の腕を着物越しに抓られている。
よく着物越しに抓られるなと感心したのは伸だったが、それでも皐月の言いたい事が解って思いっきり顔を顰めた。
せめて当麻の両親がこの光景の意味に気付かず、そして彼女の呟きが聞こえてなければいいと祈るばかりだ。
そんな事などお構いなしの2人は「美味しいか?」「うん」なんて遣り取りをしているのだから、本当に先が思いやられてしまう。
大人たちの妙にニヤついた笑みの意味を知ったらどんな顔をするのだろうか。
つい1時間ほど前にはまだキスもしていないと恥ずかしそうに訴えていた、本当に無垢な彼だが、
知らないというのはどれ程恐ろしいのだろうかと半ば呆れてしまう。
別に自分に直接の被害はないが、それでもフォローが必要な気がしてきた伸は当麻の好物でもある煮物の小鉢を手に席を立ち、
正面の彼らの元へと歩み寄った。
「当麻、はい」
「お、ふきのとうだ」
ハンバーグやオムライスといったお子様味覚が当麻の好みでもあるが、その反面、毛利家で食事の世話になる事も多かった当麻は、
実は意外とふきのとうや牛蒡なんかも好きだったりする。
勿論、彼がそれらを好きになった理由は料理上手な一家のお陰だ。
喜んだ当麻の小鉢に彼の好きなふきのとうを入れてやる。
やったねー、なんて言いながら手を叩いて喜ぶ様は本当に無邪気だ。
「当麻ぁ、」
「んー?」
目の前にいる幼馴染を、伸は目を細めて見た。
「いやぁ………キミ、綺麗してもらったねぇ」
「だろ?…いや、だろ?つっても俺はあんまり解んないんだけど……完璧?」
「完璧、完璧。今のキミなら本物の女に人でも絶対に勝てないって思うよ」
「私もそう思う」
「さり気なくノロケてきましたねコノヤロウ。まあいいけど。……当麻、本当に大事にしてもらうんだよ?」
幼馴染としては、それが一番の願いだ。
男に嫁ぐのは、本人が選んだのだから構わない。
ただ願うのは親友として、彼が幸せであることだけだ。
「大丈夫、俺、征士のこと大事にするから」
「いや、僕が言ってるのは伊達さんのことじゃなくて、キミの事。伊達さんが大事にされてるかどうかなんて僕にはどうでもいいから」
「何言ってんだよ、ちゃんと俺も征士のこと大事にしなきゃ意味ないだろ。結婚だぞ、結婚」
特に気負うでもなくそう言い切る当麻に、伸は少し目を瞠った。
確かに一方的では結婚は成り立たたないが、いつの間に彼はこんな強さを持つようになったのだろうか。
昔から頭が良くてどこか生意気な雰囲気の彼ではあったが、こんなにもしっかりとした強さを伸は見た事がなかった。
伸はそれに驚き、そして安心すると微笑んで、お幸せに、とだけ言い残して自分の席へと戻っていった。
「伸ちゃん、意外」
席に戻ると、姉の小夜子が心底意外そうに声をかけてきた。
「…何が」
「だって伸ちゃんったら前はもっと敵を見るような目で伊達さん見てたのに」
「僕はいつまでもブツブツ言うような頑固者じゃないですからねー」
大事な親友が信じた人を信じないほど馬鹿でもないし。
そう心の中だけで続けた伸は、しまったふきのとうを当麻にあげすぎた、と小鉢を見つめ密かに後悔していた。
宴が進み、そして昼を過ぎた頃だ。
当麻の両親が日本を離れなければならない時間が来てしまい、白無垢を着た息子と名残惜しげに別れの挨拶をした。
「じゃあ当麻君、大晦日には帰ってこれるから…それまで風邪とか引かないでね?」
「解ってるって。て言うか俺、風邪引かないじゃん、親父のお陰で」
それを聞いた父親は少し複雑そうな顔をする。
当麻はそれがいつも不思議でならなかったが何故か理由を聞いてはいけないような気がして、いつも聞けずにいた。
「それでは伊達君、」
「パパ、”伊達君”じゃなくて、”征士君”」
義理の息子となる青年に向き直れば妻から訂正を入れられ、長身の男は気恥ずかしそうに、そうだった、と零した。
「征士君、その……当麻を、本当によろしくお願いします」
「はい」
短い言葉を交わしあい、そして握手をすると羽柴夫妻は伊達家を後にした。
その直後だった。
伊達家の家の電話が鳴ったのだ。
妹の皐月が対応し、そして兄のほうを見て少し困ったような顔で彼を呼んだ。
「なんだ」
「何か……大学の先生」
「先生?誰だ?」
「何だっけ、何か長い苗字の人だった」
「……五所川原先生か?」
「そう、そうそう、そんなエラソーな名前の人」
あまりにも礼を欠いた妹の物言いを窘めてから征士が電話口に出る。
何か押し問答をしているようだったが、目で先に戻るよう促された皐月と当麻はそのまま広間に戻っていった。
それから暫くの後に広間に戻ってきた征士は浮かない顔をしていた。
すぐにそれに気付いた当麻が何事かと聞けば、先程の電話の相手がどうも本の編纂を征士が手伝っている教授だったらしく、
何やら近くまで来ているから出て来いというのだそうだ。
ただの宴ではなく大事な宴の真っ最中だ。征士も勿論拒んだのだが、出版社の人間も来ていると言うではないか。
本の編纂に関係する用だと言われ、それでも征士は返事を渋ってしまった。
だがどうしても征士が関わった部分の事だと言われ、已む無く出なければならなくなった。
せめてもの交渉として、1時間から2時間ほどで帰る事を約束させて。
「しかし征士、お前当麻さんを置いて…」
「いいよ、行って来いよ」
不機嫌を顕にした祖父の言葉を遮ったのは当麻だった。
家族が心配して彼の表情を伺ったが、別段、怒った風でもない。
「当麻さん、しかし」
「だって結婚して征士が仕事をしだしたら、それこそこういう事って増える可能性もあるんだろ?だったら仕方ないし。
大事な用だって言うし……それに征士、ちゃんと帰ってくるって言ってるんだ。俺、ちゃんと待ってるから行って来いよ」
ほら、と言って当麻が征士の背を押した。
せめて我侭の一つでも言ってくれれば罪悪感も薄らいだのだが、それさえしない当麻に征士は只管申し訳ないと思うしか出来なかった。
紋付袴で出かけるわけには行かず、征士は一旦部屋に戻り、そして教授のご要望どおりにスーツに着替えた。
「場所は?」
母の短い言葉には明らかに怒りが含まれているのは解っているが、それでもどうしようもないのだ。
勿論、母親が怒っているのは出て行く征士にでもなく、それを後押しした当麻にでもなく、タイミングの悪い、厚かましい教授に対してだ。
著名な人物だか何だか知らないが、こちとら祝い事の真っ只中ですのよ!と言いたいのだろう。
それを隠しもしない彼女は中々に気性の激しい人物でもある。
征士はそれを敢えて気付かない振りで、短く、
「ふたば」
と店の名前だけで答えた。
ふたばというのは伊達家を出て少し行った先にある大通りを20分ほど直進した場所にある粋な料理屋だ。
出版社の人間も来ているという事は、取材なのだろう。
征士は益々面倒そうな顔をした。なるべく写真は断ろうと考えている。実は征士は写真の類が苦手だった。
のろのろと靴を履き、そして見送るために玄関まで来ている当麻をもう一度見る。
彼を置いて出なければならない事に征士はかなり気落ちしてしまう。
「…当麻、」
「ほら、征士。遅れるってば。すぐ済むって言われたんだろ?」
「それもそうだが…」
「仕方ないって。今日何してるかなんて公表してないんだし…それに急な呼び出しなんだから」
「だが、」
「大丈夫だよ、俺、ちゃんとこのまま待ってるから。ほら、早く行かないと。な?」
スーツに着替えた征士を玄関まで見送りに来ている当麻は白無垢のままだ。
着替えはしたもののまだ何事かを言いたそうにしていた征士だったが、当麻に背を押され渋々と玄関を出て行った。
その背に受けた、行ってらっしゃい、という声だけがせめてもの救いだった。
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旦那様をお見送り。