時に野を往く



鹿威しの音が聞こえてきそうな一室で、当麻がちらりと視線を持ち上げて向かいの男を見れば、真っ直ぐこちらを見ている紫の目とかち合い、
途端、当麻は顔を赤くして俯いてしまう。



伸の姉には周囲には伏せているが既に恋人がいると、当麻は車の中で聞かされた。
母の弟子の1人であるその人は、名を聞けば当麻もすぐに顔が判るほどには付き合いがあった。
ああ、確かに彼女の並んでも遜色のない、優しそうな人だったと思い出す。
疚しい事などない、まっさらな経歴の持ち主である彼との仲を公表できないわけが、2人にはあった。

彼が、近々独立するのだ。

何人も弟子を持っている伸の母だが、独立を認めた人物は少ない。
今回の彼の独立だってその前の弟子の独立から既に8年経っている。
つまりそれはまだ伸の父が生きていた頃で、主を失くしてからは初めての独立だ。

家柄としても毛利家程ではないが申し分はない、その彼の独立。
下手なタイミングで2人の仲がバレてしまっては、金で地位を買っただの娘婿になるからだのと良からぬ噂を招きかねない。

だから伸の母も、姉も、今は必要以上にナーバスになっていた。


今回の見合い相手の事に関しても少し聞いていた。
何でも随分とご立派な家柄の長男で、まだ大学生だが来年、社会人となる彼は勿論ゆくゆくはグループを継ぐ予定だ。
それなりの家柄ともなればそこは毛利家と同じでやはり分家や周囲の人間が見合いを進めてくるらしく、まだ22歳の彼は今回の見合いが4回目となるとも。
ついでに言えば、前の3回は全て殆ど口も聞かずに自分の方から断っている人間だとも。
因みに伸に言わせると、幸いな事に彼は見合い写真を一度たりとも見ていないという。
だから他人で、それも男の当麻を替え玉に使うことが出来たわけだが、それは本当に幸いといっていいのだろうか。

いや、それよりも。
ならば放って置いても今回の見合いだって断られたのではないかと、当麻はせめてもの抵抗を見せたがそれには伸が首を横に振った。

万が一という事があるかも知れない。
それに姉自身が、思いを分かち合っている人が居ると言うのに他の男と合うこと自体にいい顔をしなかったらしい。
なるほど、それでは仕方がないと思いはする。
思いはしても今の自分の状態を仕方ないとは思いたくなかった。

だが。


しょうがない、姉ちゃんの為だし。

幼い頃から自分を実の弟のように可愛がり、また当麻自身も実の姉のように慕っている人物の困りごとだ。
男に二言はない。
実父と毛利の父の、2人の父からの教えはまだ15歳の当麻にしっかりと根付いている。
いい加減腹を括ってブチ壊そうじゃないか。



とは、思いはするのだが。


「…………………」


駄目だ。視線を上げれば向かいの男と目が合う。

見事なまでの金の髪に凛とした美しさを見せる紫の瞳。それらを納めるには充分過ぎるほどの完璧な顔立ち。
背筋を真っ直ぐに伸ばして座っている姿は同性の当麻から見ても見惚れるほど、服越しでもしっかりとした体躯で。

つまり、大人の男の風格だ。

欠点どころか隙さえないその男が先ほどから無言で自分を見つめているのを感じて、当麻もどうしていいものか悩んでいた。
清廉な瞳で見つめられると、今ココで女装して素性を偽っている自分が酷く罪深く思えるから性質が悪い。
頼まれごとで、しかも怖いと思う事など滅多とない当麻だったが、それでも彼の視線の前では何故だか怯んでしまう。


部屋は既に他の者が退席してしまい2人きりだ。
どちらも喋る気配がないものだから静まり返った部屋は不気味でもある。


姉ちゃんのため、姉ちゃんのため、姉ちゃんのため。

当麻は心の中で3回繰り返して思い切って顔を上げた。
またぶつかる、視線。
そして途端に顔だけが熱くなるのが解って、当麻はうっと息を飲む。

このままでは埒が明かない。
兎に角何か切り出さねば。


「あ、……あの…っ!」

「何だ」


勇気を振り絞って声をかければ即座に返事が返される。
声までイイときたものだから、当麻の顔は更に赤くなってしまった。


「…そ…そんなに……見るな…ぁ、…いで下さい…っ」


うっかり地の言葉が出そうになったのをどうにか取り繕う。
心臓に超負荷がかかるんですけど!とは心の中でだけ続けた。
すると男が切れ長の目を見開き、端正な顔が少しだけ驚きを見せる。
その変化に背を押され、更に言葉を続けた。


「初対面の人間にそんなに見られたら、…普通、緊張します」

「……。それもそうか。…失礼した。………ただ貴方が何も話さないから人となりを知りたくて観察していただけなのだが…悪い事をした」


天然か!?天然なのか!!?
言ってやりたい気もするが、どうもこの相手ばかりは当麻でも読めず、どう相手すればいいのかまだ判らずにいた。

当麻は大体の場面において優秀なのだが、それでもこの目の前の、伊達征士と言う見合い相手の事は読めなかった。

最初部屋に入った時に思ったのは、”モテそうだ”。
次に紹介を受けている間中の態度から見て、”真面目が服着て歩いてら”。
では後は若い2人で…と言って他の者が退席をした時の視線の動きからは、もう何も判らなかった。
困っているのか、面倒だと思っているのか。兎に角、表情が乏しすぎるのだ、彼は。
さっきの驚いた表情だってやっと見せてくれた変化で、それは本人なりにはとても驚いていたのかもしれないが、
それこそ30分以上同じ表情ばかりを見ていた当麻からすれば、アハ体験かとでも言いたいほどに見落としそうな変化だったのだから。

最初の印象以降、全く情報が得られず当麻は困惑を続ける。
漸く少しは会話をしたのだからそこから情報を引き出そうとは思うのだが、駄目だ、視線も、声も、全てが当麻を居た堪れない気持ちにさせる。


「ところで」


どうにも言葉をこれ以上発せそうにない当麻を気にも留めず、今度は相手から口を開いた。


「ところで毛利さん」

「……………。……あ、ああ、はい。何ですか?」


今の自分が”羽柴”ではなく”毛利”という事さえ忘れかけていた当麻の反応が遅れる。
それにも相手の表情は変わらない。
訝しんでいるのか、それとも本当に何も気にしていないのか。
どう頑張っても判らないので、取敢えず当麻は相手の言葉を待った。


「毛利さんは私より2歳年上だと伺っているのだが…」

「……ええ」

「………本当に?」


思わず口元が引き攣りそうになった。
幾ら化粧を施して大人っぽい髪型のカツラを被らされていても、当麻は未だ15歳で、実際の彼女の年齢とは9つも離れている。
24歳の女性に見せること自体が、どだい、無理なのだ。
それは薄々当麻自身も解っていたことだった。


「寧ろ先ほどまで一緒にいた弟さんの方が大人びて見えるのだが」

「…え、ええ……」


そりゃあ、伸とはワケあって今は同学年だけど7ヶ月だけ、俺よりお兄さんだし。
なんて言えないから心の中だけで呟いて、頭を必死に整理して言い訳を組み立てる。


「童顔だと、言われるものですから」

「だが肌艶も随分と若く見る」


肌艶って……!!!
叫びそうになるのをぐっと堪えた。


「そうでしょうか…」

「ああ。私の妹がちょうど高校1年なのだが、それとあまり変わらないように見受けられる」

「……………はあ…」


ズバリ、同い年です大正解です。とか言いたいが、これも言えない。
だがマズイ。相手のペースだ。
いや、それよりも見合い中に殆ど喋らない男ではなかったのか。聞いてたのと話が違うではないか。
いやいや、そんな文句よりも今はどうにかして自分のペースに持っていかなければ。
見合い云々以前に、調子を掴めない当麻は何だか悔しくて堪らない。


「毎日14時間は寝てますから」


だから無駄に微笑んでサラっと言ってやった。
ご立派な家柄なら礼儀作法やら何やらと煩い筈だ。
14時間も寝るようなグータラな女など願い下げだろう。

さあ、どうだ。呆れて物も言えまい。おら、とっとと呆れた顔を見せろ。

一矢報いたような気になっている当麻の笑みははどこか挑発的な物に変わっていた。
それを見た相手の表情が、見る間に崩れていく。……常人であれば、ちょっと崩れた、程度に。
当麻はそれに僅かな手応えを感じた。


「…面白いな」


だが彼の放ったその一言で、その手応えはスルリと己の手を抜けてゆき、男の代わりに当麻の表情が激しく崩れてしまった。


「お、…面白い…!?」


面白いって何だ、どういう意味だ!
単に笑えるって意味なのか、それとももっと深い意味なのか。


「いや、失礼。だが毛利さん、貴方は面白い人だ」


男の表情が、最初の頃より随分と柔らかくなっていた。
そうなると元よりあった美貌は更に美しさを増し、ハッキリ言って綺麗な物が大好きな当麻は見惚れてしまいそうになる。


「今までの見合い相手と言うのは誰も彼も必死に話しかけ続けるばかりで、しかもその内容は過剰なまでのアピールばかりで、
何も気を引くような物がなかったのだが、貴方は違うな。とても面白い。いや、言い方が悪いか……とても興味深い人だ」

「っちょ…!!」


微笑んだ美丈夫は当麻を困惑のドン底に落とすような事を言ってくれた。

興味深い。
それでは駄目なのだ、寧ろ興味を失って、あまりのつまらなさに明日には忘れてくれる程でなければ困るのだ。
その為に当麻が来ているのだ。なのに彼は、興味深い、と。


「私自身、見合いはまだ早いと思っているし結婚だってまだ先の事だとは思っている。だが、貴方ならもう少し話していたいと思える 」


そーれーはー困ります!!
超、困ります!!!

美しく微笑んだ男の向かいで、当麻は目を白黒させていた。

どうにかしなければ。
どうにかしてこの場を切り抜けねば伸の姉を困らせるだけでなく、自分自身も何だか窮地に追い込まれる気がしてならない。
だがどうやって逃げるべきなのか。



ペースが狂いっぱなしで珍しい事に気が動転まくった当麻は、それでも逃げを打つ為に席から立ち上がり、
無言のまま向かいに座っている男の隣へ腰を下ろした。
その突然の行動には男も驚いたようで、少し上体が引けている。
それを無視して当麻は相手の手を取った。
そして着物の身八つ口を乱暴に広げて、その隙間に相手の手を入れさせる。


「何を……!………………!!!?」


驚いた声を上げた男だったが、後は絶句した。
そりゃそうだろう。
柔らかな感触があると思っていた場所は、大きい小さいの問題ではなく、本当に何もないのだから。


「……………………ま、待ってくれ」


漸く搾り出した男の声は震えていた。
それが逆に当麻を落ち着かせたのは皮肉なものだ。


「…ごめんなさい。……私、……じゃなくて、俺、なんです」


まっ平らな胸は、成長期にも来ていないから筋肉さえ薄い。
身八つ口から抜かれた手は力なく彼の膝に落ちた。

折角気に入ってもらえたのに。

断られる事に必死だった筈の当麻だが、あまりの彼の落胆振りに罪悪感を募らせた。






「毛利さん……」


長い沈黙を破ったのは、やはり男の声だった。


「毛利さんでもないんです…」


彼の呼びかけた名でもない当麻は、素直に否定の言葉を吐いた。
それがまた彼の瞳に悲痛な色を浮かべさせるのに、当麻の胸が痛む。
最早、ほぼ無表情だった彼はいない。否、表情はやはり変化に乏しいのだが、先ほどから瞳に痛々しいほどに感情が浮かんでいる。


「その……いや、………その、では…………」

「ごめんなさい」


その言葉しか出せない。
もう顔を見ることさえ辛くなって俯いた当麻の視界の端に、彼の膝が近付いたのが見えた。


「……え、」


いきなり肩をつかまれ、上体を反らされる。
無防備になった胸元に男の手が近付いた。


「っちょ、ちょっと、…!」

「…失礼…!」


驚きに声を上げると、それを無視して彼は着物の胸元を徐に左右に割り開いた。
力任せに肩まで開けられ、当麻の胸が顕になる。
…まっ平らの、胸が。

男はそれを凝視している。
目で見て確かめたかったのだろうか。
好ましいと思えた”女性”の触れた箇所が、本当に何もないのか、目で確かめたかったのだろうか。

彼に対して罪悪感を抱き始めている当麻はその突然の行為に怯えはしたが、相手の気の済むようにさせようとそのまま息を潜めた。


「……………………」

「……………………………っ」


が、突然の感触に身を強張らせてしまう。

男の手が、当麻の裸のままの胸を撫でていた。

触れるか触れないかの微妙な感触に、知らず肌が粟立ってしまう。
男の瞳の色を伺えば亡羊としているあたり、やはりショックから立ち直っていないのが判った。
他意はないのだろう。だが、この慣れない感触。


ワケのわからないままに心臓がバクバクと激しく脈を打ち始める。
触れられた箇所が妙に熱を持ち、肌は湿り気を帯び始めていく。

互いに何も言えずに暫くその気持ちを見失ったままの行為を続けていた。…のだが。


「……………………ぁ…っ」


いつのまにか顕になっていない布の中にまで入り込んだ男の指先が、当麻の胸の尖りをそろりと掠めた。
途端に漏れた、微かな声。
それにハタと我に返ったのは互いで、咄嗟に男は手を引き抜いた。


「す、…すまん…!」


弾かれたように揃って身を離し、顔を赤らめる。
当麻は男に背を向け必死に胸元を隠し、男は所在なさげに髪を掻き毟った。




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誰か入ってきたら申し開きできない状況ですよ、征士さん。