時に野を往く



慣れたソファの感触を背に受けながら、当麻は自分の胸に懐く征士の頭を撫でていた。

少し前から征士はよく甘えてくる。
確かにそれまででも癒しとして当麻を求めてくることはあったが、最近はどうも違うように当麻は思っていた。
疲れているのとはまた違う理由。
あるとすれば、それは若しかして。


「…征士、……マリッジブルー?」


呟くというよりかは、相手に向けた小さな声はきちんとその耳に届いたらしく、征士はぴくりと反応を返して、そして胸に甘えたままの姿勢で当麻の方を見た。


「………何故そう思う?」


聞き返しながらも指先は当麻の胸の赤い部分を弄ぶことをやめない。
その感触に、当麻は一度きつく目を閉じて緩やかに這い上がっている感情を押し殺して、征士の紫の目を見つめ返した。


「…何か……最近おかしい…」




実はつい先日、羽柴家の両親が帰国した。
当麻が目を覚ますとその寝顔をみてニッコリと笑った母親がいて、驚きに悲鳴を上げれば父親も部屋に入ってきた。
大事な一人息子が大事な話があると言ったので揃って仲良く帰国してきたという彼らを見た当麻は、
こういう機会がそうそう巡ってくるものではないというのを嫌というほど理解していたので、急遽征士を自宅に呼び出した。
そしてそこで彼らへの挨拶が無事に終わった。
伊達家に比べると滞りなくとは言い難かったが、それでもテレビなんかで観るそういったシーンに比べれば随分とスムーズに進んだ方だろう。

帰国する飛行機から一緒だったと言っていた2人はどうやら息子に彼女が出来たと思っていたらしく、玄関を開けて立っていたのが美人には変わりないが、
体躯も立派な男だった事にまず驚いていた。
同性だったため色恋の話ではないと思い、では何があったのか不安になった彼らは次に飛び出た結婚の話に、今度は目をひん剥いて固まった。
息子が男と結婚、それも嫁に行くと言うのだ。そりゃ驚くだろう。
滅多と会えないが充分に愛情を注いできた息子がいつの間にそういった性癖の持ち主になっていたのか、いや昔からだったのか、
では何故もっと早く気付いてやれなかったのか、自分たちの自己満足でしか息子を愛せていなかったのかと彼らは頭を抱えてこれまでの事を悔やんだが、
いやそういう問題ではないのだと息子に言われて漸く落ち着いて話を聞いてくれた。
2人で一生懸命に本気なのだと伝えれば、両親も理解を示してくれた。
そうして話は纏まった。

両家の許しも得た。
そうなると征士はすぐに実家に連絡を入れた。
それを待ち構えていた伊達家の母は即座に当麻の白無垢の手配を済ませ、それが出来次第、式を挙げようという話で落ち着いた。

いよいよ、結婚へのカウントダウンが始まった。

なのに征士の様子がおかしいのだ。当然、当麻としては気になって仕方がない。
一体何が不安なのだろうかと思いあれやこれやと考えて見たが、若しかして彼はマリッジブルーなのではなかろうか、と睨んでいた。




「から…、…もしかしてそうなのかなって俺は思ったんだけど……」


マリッジブルーというのがどういう物なのか当麻は詳しくは解らなかったが、結婚前に憂鬱になるのがそれだろうとは解っている。
実際のところ征士が憂鬱になっているのかと言われると、細かく言えば違うのだが、それでもやはり何か浮かない顔をしている事が多い。
それを気にして、このままでは埒が明かないと本人に問いかけてみているのだが、さあどうなのだろうか。

本当を言うと、征士は何も当麻との結婚というのに不安はなかった。
欲してやまなかった相手を遂に自分の傍に置く事が出来るのだ。
それに対しての不安はない。ついでに言うと、来年から社会人だがその事に関しての不安もない。
人間関係への憂鬱さは抱えていたが、それは当麻と出会ったことで随分と解消されたし改善もされた。
だったら何かと言われれば伸に起因する、自分の弱さに他ならない。

先日呼び出した彼から叱責され、そして棘のある声と違って随分と優しいヒントを貰った時には征士の心も晴れていた。
当麻の初恋に関しては本人に聞けばいい。
自分の知らない過去への嫉妬は愛した人を信じればいい。
それでいいのだと改めて気付かされた。愛するあまりに自分が盲目になりつつあった事を彼は教えてくれた。
歳は下だが彼は充分に大人の考えを持っている人間だと、感心していた。

ところがその気持ちにまた翳りが差した。

キッカケは羽柴家への挨拶だった。
見た事もない青年との恋愛を真剣だと言う息子の気持ちに理解を示してやりたくとも、あまりにも唐突過ぎて夫妻には判断材料がなかった。
だから返答に窮していたのは征士の目から見てもハッキリと解っていた。
誠意を示すには時間が必要かもしれない。そう考えていた時に、当麻が言ったのだ。
「伸も知っている」と。
それを聞いた夫妻はそれまでの驚きや戸惑いが一転、ああなら大丈夫だと明らかに安心した様子を見せたのだ。
伸が知っている。なら大丈夫。
そこまで信頼されている彼に対して、もう嫉妬は抱かなくなっていたが、それでも不安は抱いた。
当麻からも、当麻の両親からも信頼されている彼。

果たして自分もそうなれるのだろうかという不安が湧き上がる。
元々人付き合いは苦手だし、誰かと接するだけの事が嫌になってくる性格だった。
こういう性格上、きっと自分は生涯独りだろうし、きっと誰とも支えあわずに生きていくのだと思っていた。
寂しいといわれればそうかも知れないが、何も無理をして誰かといる必要性もないだろうと半ば諦め混じりに思っていた。

だが当麻に出会ってそれは変わった。
当麻といたいし、当麻の傍にいたい。
彼が癒してくれるのなら、苦手な人付き合いも少しは歩み寄りをもてる気がしたし、実際、そうしつつある。

しかし当麻はどうなのだろうか。
自分は彼といる事でメリットが沢山ある。
当麻は自分を好きだといってくれた。それは自分も同じだ。
では他には?
自分は彼に与えてもらうばかりで、何かできているのだろうか。今後、何かできるのだろうか。

そう思うと彼を想い続けて本当にいいのだろうかとさえ思ってしまう。
それでも手放すことが出来ず、彼に甘えてしまう。

このままではいけない、とは思う。
だから少しだけ、思い切ってみたほうがいいのかも知れない。
そう考えた征士は当麻の細い腰に回した腕の力を、もう少しだけ強めた。




「………当麻」

「んー?」

「私がそういう状態かどうかは…自分では解らん。…だが……」

「うん…」

「……好きなんだ、当麻」

「…うん、俺もだよ」

「好きで好きでどうしようもない。…誰かに対してこう思ったのは初めてだし、誰かに触れたいと思ったのも初めてだ。だから解らないのだ。
何処まで想っていいのか、何処まで想うとそれは重荷にしかならないのか。だから……当麻、重いのなら言って欲しい」


縋るように抱き締められ、大きな身体を持て余した子供のような征士の頭を当麻は変わらず撫で続けた。


「重いなんて俺、思った事ない」


今は確かに物理的には重いけどさぁ、とちょっと冗談交じりに付け加えながら当麻は言った。
征士からの反応はなかったが、そんな物は無視して笑ってやる。


「征士ってばすぐこうやって圧し掛かってくるんだ。体重、幾つなんだよ」

「その……すまない」


そうして離れようとした征士の頭を、当麻は言っている内容とは真逆に、離さないように力を込めて自分の胸に押し留めた。


「…当麻、…?」

「嫌だなんて言ってない。俺の言葉、最後まで聞けよ」


細いまま完成してしまった腕で骨格としても美しい頭蓋を必死に抱き締めると、征士も諦めたのか納得したのか、
もう一度その薄い胸に懐いた。
視界には起伏の目立たない白い肌が広がっている。
そこに唇を寄せると頭の上から擽ったそうな声が聞こえてきた。


「征士はさ、誰かにこうしたいって思ったのが初めてだって言うけど…俺だってそうだからさぁ…」


正直、どうしていいのか全然解んないんだよな。と当麻が続ける。

親がああだから家には殆どいなかったし、婆ちゃんは小さい頃に死んじゃったし、そこで飼ってた犬もそう。
だからスキンシップってのが俺も凄い足らない状態で育ってきて………だから誰かといるっていうのに寧ろ抵抗はチョットあった。

低くはないが高くもない、独特の甘さのある声で続けられる言葉に征士は静かに耳を傾け続けた。


「だから、誰かとこうしてくっついてるのが気持ちいいなんて知らなかった。でも、その相手が誰でもいいってワケじゃないってのは解ってる」


そこまでを一気に言うと今度は当麻が起き上がろうとする気配があったので、征士はそれにしたがって胸から唇を離し、
彼が起き上がるのを手を引いて手伝ってやる。
ソファに座り、互いに向き合った。


「俺は、相手が征士じゃなきゃこういう事はしたくない」


はっきり、丁寧に言い切る。
空を切り取ったような青い目は真っ直ぐな強さで征士を見据え、その視線の強さに征士は驚く。
今までその目に聡明さがあったのは知っていた。だがいつの間に彼はこんな強さを持っていたのだろうか。
いつの間にそういう目をするようになっていたのだろうか。


「征士と会って、こういう風に抱き合うようになってから俺、結構変わったって自分でも思うんだよ。
その…前はさ、…正直、あんまり周りの奴ら好きじゃなかったんだよ。適当には遊ぶけど相手に対して何かしたいって本気では思わなかったし」

「……しかし毛利さんの…」

「伸は別枠。アレは家族だから」


こちらもはっきりと言い切られて征士は少しだけ顔を顰めた。
結局、彼は当麻にとって随分と特別らしい。


「でも伸は伸。家族だからさ、…その……やっぱ征士に思うみたいには思えないんだよ」

「…私みたいに?」

「その………だから、……その………キスしたい、とか、ヤりたい、とか、……それに征士見てる時みたいに、ちゃんとしてたいって、は、思えない」


与えられれば与えるし、与えたいとも思うが、征士に対してのように何も返されなくとも何かを与え続けたいとは思えない、と。


「俺、そりゃ今は征士に甘えてる立場だけどさ、それでも」

「待て、当麻。お前に甘えているのは私の方だろう」


大体今も仕事の後で呼び出して、現実としてその胸に甘えていた。
弱い自分を、その華奢な肢体で受け止めてくれているのは当麻のほうだ。
自分は何もしてやれていない、と征士が言外に伝えると当麻が照れたように笑い返してきた。


「何で。俺、自分がいてもいいんだって思えてるのに?」

「いてもいい?」

「自分で言うのも何だけど俺ってば天才児でさ、周りの大人はみぃんな俺の事、天才羽柴さんの天才の息子っていう目でしか見てくれなかったんだ。
そりゃ伸の家族は違うよ。違うけど、殆どみんなそう。だから伸が、そういう大人の目から必死に俺の事を守ってくれてたのは知ってるんだ。
……まぁ、つまりは俺っていう個人はあんまり人に認識されたことがなくって……こんなん親に言ったら絶対に辛い思いさせるし違うって言うの解ってるけど、
それでも俺、親があんまり家に居ないから、俺っていなくても一緒なのかナァって考える事が、すげぇたまに、だけどあったんだよ」

「そんな事は…」

「うん、絶対無いと思う。俺の親、息子の俺から見ても親馬鹿だからさ、絶対無いのは解ってるんだ。でも……寂しいってのは、…あった」

「…当麻」

「でも今は征士、いるし。征士は最初に会った時が本当の俺じゃないのに俺を見つけてくれたし、俺のこと、全然知らないのに興味持ってくれたし。
最初は俺、自分が寂しいから、征士が一緒にいてくれるから好きなのかなって思ったんだけど、やっぱり違うみたい。俺、征士のこと、好き」


一緒にいてくれるから好きなんじゃなくて、好きだから一緒にいたい。

そう告げてくれた少年の、征士は?と言いながら首を傾げる姿があまりにも可愛らしすぎて嬉しすぎて、征士はその身体を力一杯抱き締めた。
ぎゅうと抱き締めると、笑いながら苦しいと訴えてくるが力を緩めてなんかやらない。
好きなだけで結婚なんて出来ないのは解っているが、それでも好きだから全て一緒に受け入れたい。
相手でなければ嫌なのは、お互い様。
それは知っていたが、否、知っていただけできちんと理解していなかったがための迷いは、相手の言葉一つであっさりとかき消される。
勿論、そこには彼の親友の少年による有難いまでの叱責があったからこそだ。



抱き締めたままの体勢で再びソファに倒れこみ、愛しい人の耳に直接、精一杯の愛情と感謝を込めて愛していると囁く征士に、
当麻はクスクスと笑いながら、さっきの首の傾げ方、完璧だろ?と悪い声が返してくる。

計算とは恐れ入った。

自分のツボをもう心得て、それであっさり陥落させられる自分を嫌だと思わない事を含めて征士は完敗だと思い知る。
だがそれだけでは悔しいので、せめてもの意趣返しで、形のいい耳朶に歯を立ててやった。




*****
いっつもソファでいちゃいちゃいちゃ。