時に野を往く
週明けのその日、学校に来るなりクラスでもまぁ割と目立つ女子が声を潜めて、だが普段から大きな声の彼女の内緒の話は
その時教室にいた生徒みんなにダダ漏れの状態で、仲の良い友達数人に話していた。
−アタシ、たーくんとヤッチャッタ。
−もうね駄目、結構イタイ。
−でも…何かヨカッタよぉー!
それが聞こえて他の生徒はどうだったかは知らないが、伸は溜息を吐いて、聞きたくもないなぁ…なんて考えていた。
他人のそんな事はハッキリ言ってどうだっていいのだ。
人前で話しても良い事悪い事を昔ながらの倫理観で父母からきっちり躾けられている伸からすれば、朝っぱらからそんな話を堂々とする彼女は
恥知らずを超えて、最早信じられない生物のようだ。
友人達より一足先に経験した彼女は何だか大人になったつもりで得意げに話しているが、相手のそのたーくんとやらはある意味可哀想だな、
程度に伸は同情しつつ隣の当麻を見ると、どうも顔色が悪い。
日曜日だった昨日は確か朝から征士の家へ行っていた筈だ。
順調にお付き合いを進めているらしい彼らが現実としてどの程度の関係かは知らないが、真面目すぎる征士が当麻に不摂生をさせるとは思えず、
伸は首を少しだけ捻る。
昨日の夕食は毛利家で食べる約束だったからきっちり6時には当麻は彼の車で送り届けられてきたし、食欲も相変わらずバッチリだった。
伸の母が作ったブリ大根に舌鼓を打ってご飯を3杯オカワリしていたのを覚えている。
夜だって部屋の電気はちゃんと11時半には消えていたのを確認したし、何かあったのだろうか。
いや、当麻の場合、電気を消した後で光が漏れないよう頭から布団を被りつつ携帯ゲームをしていた可能性もある。
そういうズルイ所が彼には昔からあるので油断はならない。
単なる寝不足の、可能性あり。
そう結論付けた伸は口数少なく俯き加減の当麻の事を、一先ず頭の隅にでも追いやって1時限目の授業で提出予定のプリントをカバンから出していた。
「…当麻、キミ、……昨日、ちゃんと寝た?」
昼休みになっても当麻の顔色が悪い。
天気もいいし冬が近付いている割に今日は暖かかったので屋上に出てみれば、陽の光の下ではっきりと顔色が悪いのが目立った。
授業中、散々に寝まくっていた筈なのに未だに青いとはどういう事なのか。
そのくせ小夜子が特別に作ってくれたお弁当は綺麗に平らげている。
顔色の悪さは胃の悪さでない事に安心はしたが、それでも不安は残る。
伸が尋ねてみれば当麻は一瞬目を泳がせて、そして不安そうに青い目を揺らして伸を見つめてきた。
何か言いたげに口を開きかけてはまた閉じる。
その繰り返しを伸が根気強く見守り続けてみれば、漸く意を決したように当麻がボソリと呟いた。
「……………………は、…初めての時って、……やっぱ痛いのかな…」
と。
初めて?痛い?
何が?と問いかけて伸はすぐにそれを取りやめにした。
思い浮かんだ1つの可能性が正解だとすれば、まぁ何という事を口にしているのでしょう。
「……………敢えて答えるなら、僕は知らない、だね」
男相手に結婚話が出ている当麻と違って伸には今のところ、いや恐らくこの先ずっと”そちら側”に回る経験などないだろう。
そんな事を聞かれたって答えようがない。
冷たいようだが下手な慰めも言えないのだから、知らないものは知らないと正直に答えるのが優しさだ。
「……だよなぁ……………あああ、……痛いのかな、俺、痛いのヤなんだけど…」
いやいやいや。
当麻、それよりもキミ、それじゃあ今後そういう事をするぞって友達に宣言している事になるんですけども。
しかも相手の顔も性格もある程度知ってるだけに生々しいからやめてほしいんですけども。
遠い目をした伸を無視して当麻は不安をポロポロと吐き出し続ける。
「どどど、どうしよう、俺、そんなん………は、恥ずかしいし、…征士、…征士、上手いのかな…」
「………知らないよ、そんなの…」
溜息と共にやっと答えることが出来たのはそんな言葉だけだった。
だが今の言葉で伸は少なからず安心できた。
ここまで怖がっているという事は間違いなく当麻はまだ”綺麗な身体”なわけだし、相手に迫られてもいないのだろう。
初恋云々を抜きにしてもやっぱり男である親友がそういう事に”なっていた”というのはショックだし、これからあるとするのなら、
まぁ何と言うか、ある程度の心構えが出来る。
慰めようなどないが、それでも本人の気休めになるならと伸も何かいい言葉を探すが、やはりそう簡単には思い浮かばない。
きっと上手いと思うよというのもオカシな話だ。気持ちよくって気にならないんじゃないというのも妙な話だ。
うんうん唸っている当麻の横で伸も同じようにうんうんと唸り続けていた。
そんな伸の耳に、そもそも征士のデカいし、というトンデモナイ言葉が飛び込んできて、驚きのあまり音がしそうな勢いで当麻の方に首を巡らす。
口をきつく引き結んで目を瞠り、眉を吊り上げてじっと自分を見ている伸に最初は当麻も驚いていたが、やがて自分の失言に気付いて赤面した。
「あ、や、ち、違う、違う違う。違うって、」
「何が違うっての当麻。ちょっと、キミ、何で伊達さんのが大きいって知ってるの」
思わず肩を掴む手に力を込めすぎた伸だが詰問はやめない。
どういう事なのか。
まだそういった関係ではないと思っていたがそれは結局、何と言うか、その、つまり、平たく言って、”挿入していない”だけだったのだろうか。
「当麻、キミ、本当に何もされてないわけ!?何かさせられたりしてない!?」
頭は良いし回転も速い当麻だが、どこか抜けている面があるのは伸も良く解っている。
他の人間が常識的に知っている事を知らなかったり、言わずとも解るだろうという事が何故か理解出来ていないことがたまにあるのだ。
だからその当麻が口八丁手八丁で何かされたり、させられたりしているのではないかと伸は大いに焦る。
最初こそ征士の事を変態だと思った(今でも時折思うけれど…)伸だが、最近では確かに誠実な人間だと思うようにはなってきていた。
だからこそ少しずつ信用してきていたというのに、どういうことだ。当麻が彼のアレのサイズを知っていると言うのは、どういうことなのだ。
「し、伸、違う、違うって、ホント、何もしてないし、されてないって…!」
当麻も大慌てで首を振る。
征士のが大きいというのは確かに触れた事があるから知っているが、あれは一瞬触れただけだったし、そういう状態のモノではなかった。
だからその一瞬の感触と彼の身体の大きさから凡その見当をつけているだけの話であって、決して彼のモノを直接見たわけではない。
「じゃあ何で知ってるの、そういう事!」
だが伸の突っ込みもご尤もだ。
今後、自分たちが関係を進めるに当たってどうしても行き着くことへの不安が先に立ち、つい口をついて出てしまった当麻の言葉だったが、
それに対する伸の過剰なまでの反応に焦り、必死に弁明を試みるがそれが却って伸の不安を煽ってしまったようだ。
「ち、違う、本当、その、ほら、征士って身体、デカイじゃんか!だから…!」
決して私は存じ上げません。そう必死に訴えかける。
バレたくはない。布越しとは言え触ったことを、そして自分のモノに触れられたことを。
そもそもそれがバレれば、何となくではあるが互いを思って自慰をしている事もバレそうで、それこそ冗談じゃない。
子供の頃の、それこそ悪ふざけが過ぎて溝にはまり2人して泣いて帰った記憶を共有している相手に、そんな事を知られたくはない。絶対に。
「………本当に?」
「ほんとうに…」
だって見た事はない。嘘ではない筈だ。
「………………じゃあ、まぁ……いいけど…」
首をマッハで縦に振りまくった当麻はどうにか信じてもらえたらしい事に安心して、だがそうすると今度は先程の不安がまた沸いてくる。
「…だ、だからさ、……その、………どうしよう…」
「どうしようって…?………え、まだその話、続くの?」
これは相談だと言うのなら伸だってそれなりには真剣に答えてやれるが、どうなのだろうか。
いや、そもそも相談に乗ろうにも自分だってそんな経験はないのだから答えようがない。
ちょっとウンザリした声を出して見たが当麻には通用しなかったらしい。まだ、だって、とか歯切れ悪く続けている。
「うーん………。……当麻はさぁ、…イヤなわけ?」
「…え?」
「だから、伊達さんと今後そういう風になるの」
自分だって答えを持っているわけではないから、一緒に考えた方が良さそうだと思った伸は、まず根本を尋ねた。
当麻が望んでいるのかいないのか。それが大事だ。
確かに親友が男相手に”そういう事”になるのはちょっと想像したくはないが、本人が望んでいるのなら伸だってちゃんと考えてやりたい。
勿論、返事が肯定だった場合でも今後の態度を変えるつもりも無い。
他の人間ならどうかは解らないが、当麻との付き合いはその程度で関係が変わるようなものではない。
「征士と……は、…………その………」
聞かれた当麻は、先ほどの騒ぎで上気した頬からやっと赤みが消えたというのに、また頬を染めて俯く。
それだけの仕草なのにどうも最近は色気があってイケナイと伸は思う。が、今はおいておこう。
当麻の反応を肯定と受け止めた伸は、詰問した時のキツイ口調とも、そして話が続くと知った時のうんざりした口調とも違う優しい口調で話しかけた。
「伊達さんを信じるのが一番いいんじゃないかな」
男と知っても諦めきれずに探し出し、しかも求婚までするような男だ。
当麻の事を大事に思っていないはずがない。
だからその人を信じるのが一番、怖くはないはずだと伸は言った。
「それも………そう、か…」
「多分ね。……それにさ、当麻の覚悟がまだ出来てない時に伊達さんがそういう事しようとしたら、それこそキンタマ蹴り上げてやればいいワケだし」
血も集まってるし絶対効果覿面だ、と真顔で言う伸を、当麻は心底恐ろしく思う。
平時でも痛いというのに、それを、その状態の時に蹴れと言うのか。
「……伸、それは……ホント、…ちょっと無理じゃないかな…」
「無理とか言わないで蹴りなさい。そりゃ当麻が今ならいいっていうタイミングなら蹴らなくて良いけど、本当、無理なら蹴るんだよ?いい?」
本当に、真剣にそう言われても……
想像しただけで腰から力が抜けそうなその提案に、当麻は心持ち内股になってしまっていた。
不安を吐き出すだけ吐き出せば気が済んだのだろうか、当麻はフェンスに凭れかかって昼休みの残り時間を睡眠に充てている。
どういう生活をすれば1日にこれだけ眠れるのか伸には昔から不思議でならない。
それだけ脳を使って生きているというのだろうか…と考えて、それはないなとすぐに切り捨てる。
コイツはどうせ昔からのグータラなだけなのだ。
人を散々振り回しておいて気持ち良さそうに眠っている親友に腹が立たないでもない。
頬を抓るなり鼻を摘まむなりして安眠を妨害してやりたくなるが、気持ち良さそうに眠るその姿を見るとそんな真似はできないとも思う。
昔から彼はずっとこうで、だから毛利姉弟は眠る当麻に対して何か悪戯をけしかけた事は一度もない。
比較的暖かい日とは言え風が吹けば当然冷たく、眠ったままの当麻の眉が顰められる。
風で前髪が翻り、形のいい、広めの額が見えた。
乱れた髪を手櫛で整えてやり、その顔を覗き込む。無垢な寝顔だ。
あの男の前でもこうして無防備に眠るのだろうか。
そんな事を考えて、妙に苛立った自分を誤魔化すように伸は咳払いを一つする。
さっきまであんなに騒いでいたくせに、当麻は相変わらず静かに眠ったままだ。
「……本当に好きなんだネェ…」
普段、大人だって舌を巻くほどの冷静さと天才ぶりを見せ付けて、どんな時だって取り乱すことなんてなかった当麻が、
ここ最近ずっと調子が狂いっぱなしだ。
何も今まで一度も子供らしい面がなかったわけではないが、比較的、素の表情が出る事が増えている。
それはつまり、取り繕えないほどに、彼の事に関しては嘘など吐けないのだろう。
それは自分に対して嘘が吐けないのとはまた違う理由で。
「ちゃんと大事にしてもらいなよ…?」
せめてもの願いを込めた小さな呟きは、やはり当麻を起こすには至らなかったらしい。
それを少し残念に思い、だがそれに安堵して、伸は携帯電話の目覚ましをセットすると自分も彼の隣で少し眠る事にした。
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5時限目の授業には間に合いました。