時に野を往く
裏口から入り、勝手口を開け、礼儀として室内に声をかけたが返事はなかった。
だが人のいる気配はする。
それを頼りに征士はもう一度、失礼する、と声をかけて家へと入っていった。
しんと静まり返った1階は広く、そして誰の気配もない。
気配は2階からだ。恐らく当麻がそこにいるのだろう。
何も空き巣ではないし2度も声をかけたのだから堂々と上がればいいのに、征士は何故か足音を忍ばせて2階へと進んだ。
2階に上がればすぐ正面に扉が1つ。
首を右に振ればそこにも1つ。更に奥にも1つ。
左手にも扉はあるが、恐らくアレは手洗いだろうと判断した。
では3つあるうちのどれか1つに当麻が要るはずだ。
征士は息を潜めて、少年の気配を伺う。
「……奥、か…?」
思った扉の前に立ち、遠慮がちにノックをした。
返事はないが中で何かがビクリと動いたのが空気越しに伝わってきて、正解だったと知る。
「…当麻、」
扉を開けずにそのまま話しかけた。
「当麻、私だ。……開けても、いいか?」
拒まれるかと思ったが、少しの間を置いて扉がゆっくりと開けられた。
招き入れられた部屋は、机とベッド、そして大量の本が詰められた本棚。
床にはゲーム機が置かれていてテレビに繋がってはいるが電源は入っていないようだった。
「当麻、その……急に来てすまない」
迎え入れはしたものの何も話そうともしないし、目も合わせようともしない当麻に焦れて征士から話しかける。
すると当麻は少しだけ征士の方を、いや、方、と言っても足元だけを見て、すぐにまた視線を逸らし、
明らかに覇気のない声で、その辺に座ってて、とだけ言い残して部屋を出て行った。
暫くの後にお茶を載せたトレイを持って当麻が戻ってきたのに征士は安堵する。
まさかと思うが、あのまま毛利の家に逃げ込まれたかと不安で堪らなかった。
「当麻、…今日は学校を休んだのだな」
サボりだと伸からは聞いたが、征士はその言葉を避けた。
一応、目の前の当麻はパジャマだし、会いたくないと言ったのだからソコを責めても仕方がない。
「……うん」
一応でも返事があった事にまた安堵する。
完全に嫌われたというワケではないと解ると、征士は硬かった態度を軟化させた。
「当麻、」
「………なに」
「当麻、会いたかった。迷惑だったか…?」
此処に来た理由を正直に話せば、当麻からも漸く曖昧ではあるが笑みを引き出せた。
「迷惑じゃないよ、俺も……会いたかった」
「…触れても?」
その笑みに引き込まれるように彼に向けて伸ばされた腕は、だがさり気ない仕草で避けられてしまう。
不審に思った征士が眉根を寄せて当麻を見ると、また笑みは消え、それは泣き出しそうな表情に代わっていた。
「………とう、ま…?」
「駄目だよ、征士……俺、駄目だ」
ゆったりとしたパジャマは当麻の細い肢体を強調し、いつも以上に扇情的だ。
細い首も、華奢な手足も、未完成な筈の身体が彼にとっての完成形だとつい先ほど教えられた事実だが、それが今、目の前で
とても危うい色香を持って存在しているというのに触れる事が叶わないことに、征士の中で焦れた感情が燻る。
「どうして?」
早く抱き締めたくていつもより口早に問うた口調を、当麻は気付かなかったのだろうか。
弱々しく首を振ると青い髪がさらさらと揺れた。
「当麻、私が何かしたのだろうか…?お前を、傷つけたか?」
細い手で顔を覆ってしまった当麻の返事を求めて征士が何度か呼びかけたが、それさえ拒むように当麻は俯いてしまう。
「とうま」
それでも諦めず、何度目か解らない、名を呼んだ時に漸く当麻の顔が持ち上げられた。
青い目が濡れ、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「とう…」
「だって俺、汚いんだ」
かすれた声で告げられたその言葉に征士は声を発せなかった。
汚い。
どういう意味だろうか。こんなにも綺麗な存在のに、汚い、とは。
今度は視線だけで問うと、当麻は弱々しくベッドに座り込み、そしてまた俯いて小さな、聞き逃してしまいそうな小さな声で、耳まで赤くして、
囁くように答えが返された。
「だって俺………征士で、……1人でシてんだ…」
沈黙。
当麻の細い肩が震えている。
膝の上で組まれた手は、関節が白くなるほどに強く握り締められ、裸足のままの足の指はキュっと地面を掴むように力が入っている。
1人で、シた。
その言葉を征士は己の中で反芻させ、そしてもう一度口の中でも呟いた。
1人で、シた。
それは、つまり。
「その………自慰行為を、…か?」
征士のその言葉に、当麻が更に項垂れてしまった。
自分でも汚いと解っていたが、それでもやはり清廉な人物からハッキリと言われると居た堪れない気持ちになる。
真っ直ぐな瞳が今自分を見据えていると思うと顔さえ上げれない。
「私で?」
彼の声にどんな感情が混じっているかなんて考えられないほどに、今、消えてしまいたかった。
きっと軽蔑されているのだろう。
なんて子供なんだろうと嫌われてしまうかもしれない。
スキンシップでしかない行為を、そういった事に直結させて考える、浅ましい子供だと。
隠すことも苦しくて素直に自白をしたが、残るのは後悔ばかりだ。
視界がぼやけてきて、当麻は此処最近は泣く事が増えたなんて他人事のように思ってしまう。
頭が心を切り離し始めているのだろうか。
そんな事を考えて、やはり他人事のようだと自重気味に笑みが漏れる。
自分の事ばかり考えていると、不意にベッドが傾いだ。
それに驚く間さえなく、身体を強く抱き締められる。
「……………ぇ、…?」
「当麻……嬉しい」
言われた言葉に頭が追いつかず反応が遅れると、抱き締めてくれている征士の腕が当麻の身体のラインを確かめるように布越しに滑った。
「当麻、私を想って、してくれたのだろう?」
すぐ耳元で聞こえる征士の声。
低くて優しい、いつもの。
「私も……いつもお前を想ってシている」
その心も思考もとろかすような声で、当麻の頭が爆発しそうな事を征士は言った。
「え、ちょ、ちょっと…待って」
「何だ?」
「え、だって、征士……今、」
慌てて彼の腕から逃れ、その表情を見ると相変わらず美しい笑みを浮かべた彼がいた。
綺麗で、清廉で、穢れなどないような真摯さの、彼が。
「いつもって…」
唇が戦慄いた。
それに征士は当麻が見惚れるような笑みのまま頷き、そしてもう一度言った。
「私も、当麻を想って……お前と別れた後、いつもシている」
だなんて。
抱き締めた身体のラインを思い出し、触れた肌の感触を思い出し、唇を寄せた皮膚の味を思い出し、
そして時折漏れる声の艶を思い出し熱を孕んだ瞳を思い出し、夜になると1人で己の内で主張する熱を諌めるのだ、と。
綺麗なままの征士は、まるで美しい詩を詠むかのようにそう当麻に告げた。
何の迷いもなく、何の恥じらいもなく、昨夜の電話の後もそうだったのだと。
言われて当麻の顔が顰められる。
それじゃあ、自分は一体何を悩んでいたというのか。
馬鹿馬鹿しくなってきて彼のその厚い胸に額を押し付け、硬い腹筋で覆われた腹を殴る。
「なんだ、どうした…?」
「んだよ、クッソ…………」
悪態を吐けばまた身体を抱き寄せられる。
征士の腕の中はいつだって温かくて心地がいい。
それにうっとりと頬を緩めた当麻は、その表情とは違い拗ねた声で彼に話しかけた。
「じゃあさ、…昨日の夜、会えば良かったじゃん、やっぱ」
互いに互いを想って1人で己を慰めていたのならば、会えば、会って、そう、抱き合えばよかったのではないか。
そう思って告げた言葉だが、腕の強さはそのままに征士が笑ったのが、触れた腹筋の動きで解った。
「それは駄目だ」
だが返された返事はつれない。
「何で。俺が未成年だから?」
「それもあるが…」
少しだけ逡巡して、征士は一層笑みを深くして腕の中の当麻を覗き込んだ。
「夜に会ってしまうと、帰したくなくなってしまう。そうなったら私だって我慢できるかどうか解らんからな」
我慢、と言われて先程の互いの告白を思い出す。
それはつまり、求めてやまない相手の事で、それに対して我慢が出来ないと言うのなら。
「………………………俺は、……別に、いいよ…征士になら」
頬を染めてそう告げる少年の額に征士は口付けて、それでもまだ彼は頷いてはくれない。
「当麻。お前は未だ保護が必要な年齢だろう?まだ駄目だ」
「…なんで。俺、いいって思ってるのに…それにそんな事言ってると征士、俺に手ぇ出してくれんの2年も待たなきゃ駄目じゃん」
「そうなるな」
「そうって…」
自分は2年も我慢なんて出来そうもないのに、あっさりとそれを認める彼に驚きを隠せない。
やはりこれが大人と子供の差なのだろうか。
そう思うと当麻はやはりショックを受けてしまう。
「遅くとも2年。…それか、当麻の保護をする立場に私がなれれば……もう少し早まるかもな」
「…へ?」
言っている意味が解らず首を傾げると、また額に口付けられる。
その感触が気持ちよくてその先を求めそうになってしまうが、それは彼の強固な意志で拒まれた。
「当麻、拗ねないでくれ。…私と当麻が、例えば夫婦になれればそれは問題なくなるだろう?」
夫婦。つまり結婚しようというのだろうか。
それは確かに最初に聞いた。
けれど日本でソレは不可能な筈だ。
「方法は無いわけではないと言っただろう?」
胡乱な目で見上げると彼は心配はないのだと真摯な目で語り、そしてまた優しく微笑んでくれる。
その声や表情でどれだけ自分が救われているかなんて、きっと彼は知らないのだろう。
「だからもう少しだけ、待って欲しい」
また、今度は頬に口付けて。
口付けられた箇所から温かな何かが広がり、苦しかった事など心は綺麗に忘れていく。
自分でも知らぬ間に、当麻は征士の胸にうっとりと凭れ掛かっていた。
「ところで当麻、」
「んー?」
「手を、貸してもらえないか?」
「手?」
突然の申し出に不思議に思いながら、それでも手を差し出せばそれを征士は優しく受け取り、そしてそのまま自分の股間に持っていく。
「………!?ちょ、…ちょっと…!」
手に伝わる彼の、まだ柔らかな感触。
他人のモノなど当然触れた事が無い当麻は困惑するばかりだ。
だが征士は優しく微笑んで礼を言い、今度は自分の手を当麻の股間に触れさせた。
「………ん…っ……!」
さっき我慢しろといったばかりの彼は、その言葉を裏切って当麻のモノを大きな手で包み込む。
それに反応して熱が集まりそうになったが、それはその直前で手が離されてしまった。
「……なん、…なんだよ…!」
顔を真っ赤にして訴えたがやはり征士は微笑んだままだ。それも美しく。
「お前の手の感触を覚えておきたくて。そして私の手の感触を覚えていて欲しくて」
うっとりとした低い声。艶があって、それだけで何度惑わされそうになったことか。
その声で、彼は真摯な瞳で、当麻の意識をしっかりと捕まえて離さない。
「当麻、」
「…………なに」
「今夜11時くらいならまだ起きているか?」
「11時?…うん、それくらいなら当然起きてるよ」
「そうか。なら、…」
11時に、私はお前を想って今夜もする。
告げられた言葉に、暫し当麻は言葉を失った。
11時に、する。
その宣言の意味するところは?
「だからお前も、その時間に……もし嫌でなければ、私を想ってシて欲しい」
今夜11時。
未だ肌を重ねられない恋人は、同じ時間に互いを想って熱を高める。
征士のその提案に、当麻は頬を染め、俯き、最後まで恥ずかしさは抜けなかったけれど、それでも首を縦に振って秘密を共有する事に同意した。
それを見届けて征士が嬉しそうに笑う。
本物の身体を抱くのはまだ先の事になるだろうけれど、それでも想いだけは同じなのだ。
それが嬉しくて。
「当麻、では…当麻からもキスをしてくれないか?」
そう言って征士が頬を当麻に向ける。
今まで征士からする事はあっても当麻からした事は一度も無い。
だから、唇の感触は知らないのだと彼が言えば、当麻は更に顔を赤くして、けれどすぐにその頬に赤く色付いた唇を寄せたのだった。
*****
お互いを想って。