時に野を往く



風呂上りに何気なく洗面台の前に取り付けられた大きな鏡を見ると、そこは相変わらず男らしさに欠ける、何とも悲しい姿を見つけて
当麻はしょんぼりと項垂れる。

体育の時間に突き指をした伸が湿布を替えてもらいに保健室へ行くというので付き添い、そこで見つけた身長計で自分の成長を確かめてみれば、
何とも悲しいかな、僅か3ミリという、それは成長ではなくただの誤差としか思えないような変化しかなかったではないか。
よくよく思い出してみれば下足室へ向かう時に見上げた伸は、前よりも急な角度で首を反らされた気がしなくもない。
春に彼の測定票を奪って見た時の数字は172cmだったはずだ。だが今日の感じではまた少し伸びているのではなかろうか。
そりゃ学年で言えば元々は1年上だが、それでも誕生月で考えればたったの7ヶ月しか差が無いというのに、この差は一体何なのか。


「…俺の成長期っていつ来るんだろう……」


人それぞれと言うし、顕著に出る人もいればジワジワとしか出ない人もいる。らしい。
自分はどちらかは知らないが、どっちにしたってまだ来てないのは確かだ。
腕を見ても脚を見ても、筋肉だって薄い。残念な事に。

ふと自分を抱き締めてくれる征士の腕を思い出して頬に血が上るのを感じた。

直接見た事はないが、腕も胸も、感触だけで言えば彼のものは全て綺麗に筋肉がついている。
腕の太さを思い出し、そして自分のものと比較をしてまた当麻は落ち込んだ。


「…………親父も大概、細身だよナァ…」


研究者の父親を思い出せば、自分ほどではないが彼もあまり筋肉質とは言い難い。
ならば貧弱な体型は親譲りだと思う事にした。
だが身長に関しては違う。
父親は長身に部類される方だろう。猫背だがそれでも充分に高い。
では母はどうだろうか。
こちらもしなやかで細い身体に、そしてそこそこの身長。


「……俺、伸びる要素あるはずなんだけどナァ…」


成長にはカルシウムというから牛乳だってちゃんと飲んでいるし、ビタミンDも必要だというから椎茸を食べて日光にもなるべく当たっている。
と言っても元来モノグサな当麻は運動をするよりも日向でぐーぐー寝ている事が多いわけだが。
まあそれも当麻に言わせると、寝る子は育つ、という事で合理的な事なのだと言い張っているのに、実は伸は頭を痛めているがそれはそれ。


「婆ちゃんが小っちゃかったから、…隔世遺伝……?」


ブツブツと言いながら台所に向かい、大きなマグになみなみと牛乳を注いでそれを一気に飲み干した。

小顔の当麻は、単体で、それも遠巻きに見られるとそこまで背が低く見えない。
だが比較対照となる物や人物が居たり、その存在をよく見ようと近くまで来られるとその小ささに大概驚かれる。
あっ思ったより小さい。と言われるのが実は一番傷付くし、密かに勝気な性格なので地味にムカつくのだ。
そんな当麻は、いつか伸より大きくなってやる、というのがささやかな野望だったりする。

だが最近は自分のこの小さな体も悪くないと思うようにはなってきた。
何せ小柄だったからこそ小夜子の身代わりになる事が出来たし、そのお陰で征士と知り合うことも出来た。
まだ戸惑うことも多いし、随分と大人の余裕を見せる彼の気持ちが自分にはよく解らず悩むこともあるけれど、
それでもカッコ良くて大好きな彼に気に入られているというのなら、この身体もそこまで悪い気はしない。


「まーそうは言っても、もちょっと身長は欲しいけどネ」


制服を採寸した時の、係りの人の、細っ!という小さな叫びを当麻は忘れていない。
今に見てろ、俺だって筋肉で腹周りゴテゴテにしてやる…!とか誓ったのも。
因みにソレも未だに果たせていない。残念な事に。






風呂上りの日課となっている”自分の体型を嘆く時間”を終えると、家中の戸締りを確認してから自室に入った。

見るとベッドの上に放り出していた携帯のランプが光っており、着信があった事を知らせている。
緑に光っている時は征士からの電話があった時だ。
金の髪に紫の目だが、彼を見てイメージできたのが緑だったから当麻はそうしている。
征士は当麻からの着信を全て青にしていたが、それを見た当麻は、安直だな…と実は思っていた。



携帯を手に取り、着信履歴からリダイヤルをする。


「もしもし」


3コール目で繋がった電話から、低い声が聞こえてくる。


「もしもし、俺」

「ああ、解っている。…風呂だったか?」

「うん。征士は今帰ったとこ?」

「そうだ」

「お疲れさん。随分かかったんだな」

「ああ……何事かと思えば少しの話と、ついでのように蔵の掃除を言いつけられてな…」

「蔵かぁ…征士の家、知らないけど何か凄い量の整理させられたイメージがある」

「アタリだな。蔵の掃除がメインだったんじゃないかと思う量だった」


苦笑交じりの相手の声に当麻は素直に笑って、ご愁傷様、と伝えた。


「当麻」

「んー?」

「明日は会えるか?」

「んー…大丈夫、と思う」

「何だ、曖昧だな」

「だって会えるって言って万が一無理になったら期待させた分、悪いし」


今まで自分がそうだったからだろう。
当麻は無意識の内に、期待をすることも期待させることも避ける癖があった。
それを征士はいじらしいと思うと同時に寂しくも思う。
そういう風にしか過ごせなかった子供が悲しい。

今は少しだけ間を置いて、その間に気持ちを切り替えた。


「では明日、また連絡する」

「うん。……って、え、用事それだけ?」

「声が聞きたかったからな」

「だからってそれだけかよ…」

「これ以上話すと会いたくなる。今日は疲れたから余計に、だな」

「ふーん…じゃあ明日なんて言わずに今日来いって言えばいいのに」

「当麻」

「……なに」

「そういう事は言うもんじゃない。大体今何時だと思っているんだ」

「夜10時?」

「10時42分だ」

「…細けぇ…」

「当麻が大雑把過ぎる。そんな時間に呼び出しなどするワケにいかんだろう」

「そうかなぁ…」

「未成年の深夜の外出は感心しない」

「そうは言うけど、」

「当麻、寝る子は育つというだろう。大きくなりたいんじゃなかったのか?」

「………っちぇ、解ったよ」


”寝る子は育つ”は確かに自分でも思っていることなので、それを言われると返しようがない。
普段自分がそう言っている事を征士にはバレているのは知っているので、ここは素直に従うしかないようだ。
今日は声だけ、それも短時間だけの会話だがそれでも征士と話せたのだからヨシとしようか、と思い直す。


「当麻、…」

「んー、なに?」

「とうま、………会いたいな」


なのに折角気持ちを切り替えた途端、これだ。
低くて艶のある、そして真摯で清廉な声で彼は言うのだ。
言われた方がどれだけ心を乱されているかも知らずに、甘えるように。

残酷だ、と思いはしても言うのが何だか悔しいので絶対に当麻は口にはしない。


「そーだな。……おやすみ」


だからなるべく素っ気無く言ってやる。
我乍ら天邪鬼だ、とこういう時には思うが反省などしてやらない当麻に、征士が笑ったのが解った。

くそぅ…大人の余裕だ…

電話の相手には顔が見えないだろうから思いっきり顰めてやった。


「じゃあ当麻、おやすみ」


優しい声を残して短い通話が終わった。




いつまでも耳の残っている声。
低くて艶のある声はとても優しいのに、疲れたからと癒しを求めて自分に抱きついてくる時の声は何かもっと違う感情を含んでいるような響きで、
いつもそれに落ち着かない思いを抱いているのを彼は知っているのだろうか。

例えばそれだけで先ほどまでは緩やかな眠りに引き込まれかけていた意識が、今はすっかり別のものに捕らわれてしまっているのを、知っているのだろうか。


ベッドに腰掛けて当麻は少し眉根を寄せて苦しそうにした。
征士の声に、腰から這い上がる疼きを感じる。
彼に抱き締められた感触や、肌をなぞる手、肌の上を滑る唇の感触を思い出し、身体が熱くなってくる。

こんな自分を、彼は知っているのだろうか。


強く目を閉じて熱をやり過ごそうと思ったが無理だった。
ゆっくりと自分の手で下肢に触れると、そこはゆるりと形を変え始めているのが解る。

彼の声だけで、こんな風に追い詰められてしまう身体。


当麻はなるべくソコを目に入れないようにしながら、それでもゆっくりと自分の手で熱を高め始めた。
ソコに征士が触れた事はない。だがそれでも肌に触れる彼の手なら知っている。
その彼の、大きな手を思い出しながら、自分の細い指でそれを追った。


「……征士…」


愛しくて名を呼んでみても返事はない。
既に切れている電話に目をやったが、それもすぐに逸らした。

大人で、潔白な彼はこんな事をしないのだろうか。
自分のように熱を持て余し、焦がれて募った想いに息苦しくなることはないのだろうか。
いつだってくれる温かな腕はどこまでも優しくて、こんな穢れた行為になど無縁のままなのだろうか。

きつく閉じた瞼の裏には、普段の優しい彼の姿があった。

ただ癒しを求め、純粋に愛してくれているはずの彼に、もっと触れて欲しいと肉欲を伴った感情を持ち始めている自分が酷く汚く感じる。
それでも想いは止める事が出来ないし、その手を求めることもやめる事など出来ない。


「せぇじ……」


彼の手が自分の胸に触れた感触を思い出して、それをなぞる様に空いた方の手を肌に這わせた。
節の張った指とは違い華奢な自分のそれだったが彼の指の動きや癖は覚えている。
首筋や肩に触れる唇の濡れた感触もすぐに思い出せるほどに覚えている。
それを記憶の中で必死に辿りながら、彼に触れられる事を望みながら、自分の中の熱を追い立てていく。


征士と会うまで、征士に触れられるまで、当麻は自慰なんてした事がない。
単純に興味がなかった。
中学の時の修学旅行でそういう話になったが当麻は、ふーん、という程度に聞き、自分はロクに参加しなかった。
興味が沸かない理由を、当時は自分の身体の成長の遅さが原因だと思っていたが、それは人の肌の温もりを知らなかったからに過ぎないと、
最近思い知らされた。
現に征士が癒しを求めて自分を抱き締めてくるようになってから、当麻は時折この行為に耽る事があった。
それは常に征士を思ってしかした事がない。クラスメイトに見せられた本の、柔らかな肢体の女性を目にしても
彼以外の何者にも気持ちが動くことはなかった。

だが彼を思っての行為でも終わったあとに、いつも辛い感情しか残らない。
ただの処理としての行為ならもっと気も楽だったのだろう。現実ではいつだって大人の余裕を見せる彼相手には、
自分の欲求が叶う筈などないと思っているから余計に虚しさしか残らないのだ。


彼も、こんな風に自分を望んでくれているのだろうか。


純粋に熱の解放を求めている途中で、頭を過ぎる悲しい期待。
あるはずがないと思ってその考えはすぐに頭から追い出すが、それでもいつでも付き纏う悲しくて、汚い期待。




「………んん……っ」


甘い痺れと眩暈を伴って熱が解放されると、手にはべったりと濡れた感触だけが残る。
射精後の気だるさを無理矢理に無視してティッシュを取ると、当麻はソレを乱暴に拭った。

会いたいな。

電話を切る前に言われた言葉を思い出す。
会いたい。会いたいに決まっている。
けれど彼のそれは心を求めての言葉だろう。
だが自分はそこに肉欲が混じっている。

会いたい。

言いたくても言えない。
自分はまだ子供で、しかも身体もこんなにも幼い。
こんな時間だといって会うことを咎める彼は自分を気遣ってくれているからこその拒否なのだろうが、それでも気持ちを超えてくれない
彼の理性がいっそ恨めしい。


「………会いたいよ、……せいじ…」




幾ら拭っても手の汚れが落ちない気がして、皮膚が赤くなっても擦ることを辞めなない当麻の目から、涙が零れ落ちた。




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好きだからこそ焦りだって生まれます。