ブランク182
目を開けると半年振りの自分の部屋の天井が見えた。
時差ぼけの頭はちゃんと働いてくれないが、外から聞こえる子供達の会話で漸く日本に帰ってきたことを実感する。
当麻の職業は研究員で、半年ほどイギリスにいたが、昨日の夜遅くに帰国した。
半年間の不在だ。
部屋は賃貸だし解約しようかどうしようか迷った当麻は、結局僅かばかりとは言え荷物を実家へ送るのが面倒でそのままにする事を選び、
その間、好きに使っていいと幼馴染の男に部屋の鍵を渡していたが、 どうやら彼に任せたのは正解だったようだ。
部屋はとても綺麗に片付けられていたし専門書ばかりの当麻の本棚も、整理下手な自分よりもずっと上手く片付けられていた。
ただ唯一の不満があるとすれば、お菓子の類の買い置きが一切ないことくらいだ。
「……腹減ったかな…」
昨夜は遅かったし睡魔も押し寄せていたため、帰るなり着替えもせずにベッドに倒れこんだ。
意識が途切れる直前の記憶は、清潔な匂いと暖かな日で干されたシーツの有り難味を噛み締める感情だけだ。
部屋の入り口にはスーツケースが転がっている。
玄関先で脱いだと思っていた靴は、何故か廊下に転がっていた。
「…見つかったら怒られるかも」
没頭すると周囲が見えず、普段の生活態度がとことんだらしない自分と違い、幼馴染の男は律儀で、きっちりしていて、それでいて綺麗好きだ。
そのまま眠ったが為に皺だらけになってしまったシャツを見ただけでも顔を顰められるかもしれない。
どうして自分との付き合いが未だに続いているのかずっと不思議に思っていた。
半年前にその答えをくれた男の、大層お綺麗な顔を思い浮かべて当麻は笑ってしまった。
一先ず、何か食べねば。
そう思い冷蔵庫を開ければレンジで温めれば食べられるようにと、既に食事が用意されていた。
帰国の日時は彼に伝えていたが、そこまでの世話は頼んでいない。
昔から彼はこうなのだ。
好きなこと以外には全く気を回せない自分の代わりに、彼は何から何まで世話を焼いてくれる。
彼が女性だったなら間違いなくお嫁さんにしたい候補No.1だと当麻は常に思っていた。
少々口煩いのが玉に瑕ではあるけれど…
兎に角、ではコレを食べようか…と早速手に取ったが、どうも胃がおかしい。
いや、体調が悪いという意味ではなく、胃が今欲しているのはケーキやスナック菓子の、到底”ご飯”とは呼ばない物のようだ。
「……………8時半…」
時計を見て呟く。
ベランダからは半年前には未だ完成していなかったマンションが完璧な姿でそこに見えたが、流石に近所のコンビニは無くなってはいないだろう。
半年前まではしょっちゅう幼馴染と酒のツマミを買いに行っていたその店を思い出して、心が何だか温かくなる。
帰国してそのままになっていた身体をまずはシャワーで綺麗にして、それからコンビニへお菓子を買いに行こうと決めた当麻は、
綺麗に整頓された部屋のその辺に服を脱ぎ散らかして風呂場へと入っていった。
半年振りの自室のシャワー。
ボディソープもシャンプー類もちゃんと新品が揃っている。
半年前の物と同じ筈だがボトルのデザインが少しばかり変わっていることから、例の男が自分の帰国にあわせて買い換えてくれたのだろう。
その律儀さにまた笑みが零れる。
半年前。
イギリスへ行く事、そしてその間部屋を好きに使っていいという事を伝えるために出発の前日に幼馴染を呼び出せば、
会うなり彼から告げられたのは思いもよらぬ告白だ。
ずっと好きだった、と。
真っ直ぐな目で見つめられ、どうしていいのかあの時は判らなかった。
彼の事は勿論、好きだ。
だが自分の思う”好き”と彼の思う”好き”が同じなのか、それとも違うのか全く判らない。
彼の言う”好き”は恐らくそういう事なのだろうというのは相手の真剣な態度で判った。
だが、自分の”好き”はどうなのだろうか。
彼といるのは好きだったし、気が楽だ。
彼がいつまでも彼女を作らないのをいい事に散々甘えまくったのも事実。
だけど、どうなのだろうか。
自分の今までの行動は彼の優しさを利用したズルイ思いだったのだろうか、それとも自分も彼の事を……そう思っていたのだろうか。
今まで考えた事もなかったが、それでもその場で必死に考え抜いた。が、結局答えは出なかった。
ただ、部屋を自由に使っていい、という、用意していた言葉しか告げられず、そして彼への返事もせずにそのまま日本を発ってしまった。
イギリスにいた半年間。
彼の事を、自分の気持ちを考えなかったわけではないが、それでも毎日忙しくてちゃんと考える余裕などなかった。
低血圧だと嘆いても朝は起こしてくれる人間などいないので自力で必死に起き、現地で買った自転車に跨り研究所へと向かう。
空腹に気付いて遅い昼食をとり、後は疲れ果てて集中が途切れたのを合図に漸く自宅へ帰り、そして倒れるように眠る毎日だった。
気紛れにつけていたラジオから日本の音楽が流れると、遠い故郷の事を思い出したがそれでも思い出に浸る時間などない。
子供の頃からの研究者になりたかったのだ。忙しくても生活に不満などなかった。
そんな当麻に言われた、契約期間の延長。
当初予定されていた研究成果は充分に出していたから、更新するもしないも自由。
だが所長をはじめスポンサーも当麻の知能をいたく気に入っており、できれば更新して欲しい、と。そう告げられた。
半年、という約束だった。
研究は、好きだ。
だけど、それでも。
幼馴染に、会いたいと思った。
彼に、無性に会いたいと思った。
思った時には既に契約書へのサインを拒み、帰国のためのチケット手配や部屋の始末を考え始めていた。
人から見れば乱雑に、当麻からすれば丁寧に洗い上げ浴室を出ると、今度はドライヤーで髪を乾かすがそれもある程度のところで投げ出した。
きっちり乾かさずに外出すると風邪を引くだの何だのとイギリスへ向かう前日に散々怒られた気がするが、面倒臭いものは仕方が無い。
不器用なのだ自分はと言い訳を心の中でだけして、手近にあったシャツを着てズボンを履いた。
「……あれ?」
サイズが合わない。シャツはブカブカだしズボンは緩い。
どう考えても大きなそれらは自分のものではないのだろう。
恐らく、いや、間違いなく幼馴染の男のものだ。
身長はどちらかと言うと当麻の方が高いのだが相手の方が筋肉質でしっかりとした身体をしている。
裾はほんの少し足らないが、ずり下がって腰骨で止まればそれはちょうど良い丈になった。
シャツもまぁだらしない印象を与えるかもしれないが不恰好というワケではない。
部屋は好きに使っていい。そう言っておいた。
当麻の部屋は幼馴染の自宅と会社のちょうど中間にあって、仕事で遅くなる時や1人になりたい時に使えばいいと。
だから彼が生活するのに必要ならば荷物を運び込んでも構わないと言っていたが、服を置いたままにしているとは思わなかった。
恐らく寝泊りしたのだろう。
それを勝手に着ていいものかどうか一瞬考えたが、何だか楽しくなってきたので着替えるのはヤメにした。
玄関に向かって廊下に転がっている靴を戻し、そしてシューズボックスを開くと下駄が目に飛び込んできた。
旅立つ数日前に当麻が買ったものだ。
自分のためにではない、幼馴染の男のために買ったものだ。
見た目は派手で日本人離れした、眩しいほどの美丈夫だが、彼の性格は見事なまでの日本男児だ。
そんな彼には絶対下駄だと爆笑しながら買って勧めたが、本人は眉を顰めただけで、どうも履いてくれていないらしい。
「んだよ、つまんねーヤツだな」
仕方が無い、俺が履こう。
そう言って下駄に足を入れる。
歩くたびにカラコロと音の鳴る足元に、おー風情だ風情だ、などと言って当麻は笑った。
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多分当麻26歳くらい。