プライマリー
祖父の用事に付き合わされて連れてこられたのは、地元から遠く離れた大阪の地だった。
飛行機の方が早かったのだが、まだ4歳になったばかりの征士の為を思ったのだろう、祖父は新幹線での移動を選んだ。
征士は伊達家に生まれた長男だった。
古くからある名家で、その上本家筋ともなれば常に注目されるわけだが、その子供が周囲の目を集めるのは何も家柄だけではない。
異国の血など混じっていない筈なのに彼の髪は豪奢なまでの金色で、瞳は美しい紫だった。
そしてそれに見合うだけの整った顔立ちをしていれば同い年の子供だけでなく、周囲の大人の目をも引く。
だがその視線は必ずしも好意的なものだけではない。
両親や、先に生まれていた姉とも似ないその髪や目の色は、下衆な話題で人の口にのぼる事もあった。
拾われ子だというのはまだマシなほうだ。
中には本気で鬼の子だと言う大人までいた。
征士自身がそれらの言葉を直接聞く事もあるし、聞こえなくともその態度で感じ取る事もあった。
その度に家族はそんな事はないと幼い息子を慰め、悪く言う人の事など信用しなくていいと励ましてくれた。
だがそれでも傷付く事に変わりはない。
そんな征士を、気分転換を兼ねて祖父は遠方の地への供に選んでくれた。
祖父の知人という人物の家を訪れたが子供の征士はすぐに飽きてしまったのだろう、最初は行儀よく座っていた彼が、
そわそわし始めたのに気付いた家の主が、少し近所を散歩してくるかと尋ねてくれた。
いつもの征士なら遠慮しただろう。
だが耳慣れない言葉と、地元と違い湿気を帯びた熱が少し征士を開放的にさせた。
こくりと頷くと、あまり遠くへ行かないようにと言う祖父の言葉を背に受け、いつもより足早に玄関へ向かい靴を履いて門をくぐった。
田んぼの多い自分の家の周囲と違い、家が沢山立ち並んでいるだけでも征士には面白かった。
目の前にある公園は近所のものより狭いがその分、遊具が沢山ある。
それだけで征士の目はキラキラと輝いたが、そんな彼を他の子供達が目聡く見つけた。
「…ガイジン?」
「えー、知らん。でも見たことないヤツやな」
「………タカオニ、やるかな?」
「知らん。お前、声かけてみろや」
彼らはただ、普段見ない顔の子供を自分たちの遊びに誘おうかという相談をしていただけだが、少しばかり粗雑に聞こえる言葉と、
伺うように向けられる視線に征士は怯え、途端に表情をなくしてその場から逃げるように走り去ってしまった。
「………っはぁ、…はぁ………っはぁ……………」
小さな身体で夢中に走り続けたが、体力が尽きたところで征士は漸く足を止めた。
逃げなくても良かったのかもしれない。
そうは思ったが、不躾な周囲の視線に晒され続けてきた征士は少しばかり臆病だった。
「………………タカオニって…なんだ…」
そんな名前の遊びは、自分の通っている幼稚園では聞かない。
”オニ”と付くくらいだから鬼ごっこの一種なのだろうと見当はつけるが、結局わからない。
もう一度公園に戻れば彼らは一緒に遊んでくれるのだろうか。
そう考えた征士はある事に気付く。
「…ここ………どこ…」
夢中で走ってきたせいで何処をどう進んだのか全くわからない。
地元のように田んぼが多ければ見通しもいいのだが、生憎ここは住宅街だ。
同じような家が立ち並び、向こうの通りさえ見えない。
どうしよう、お爺様に遠くへ行くなと言われたのに。
言いつけを守れなかった事が、見知らぬ土地で迷ってしまった事への不安を更に煽る。
蝉の鳴き声は聞こえるが人の気配さえない道では、道を人に聞くことさえ出来ない。
いや、そもそも人に出会ってもどう聞けばいいのかさえ判らないのだ。
知人の名前など、征士は覚えてさえいないのだから。
「……どうしよう…」
泣きそうになってくる。
いつも祖父にも、両親にも姉にも、男がすぐに泣くものではないと厳しく言われているが不安なものは仕方がない。
征士は紫色の目に涙を浮かべ始めた。
「Are you a stray child?」
不安な気持ちを隠しもせずに立ち尽くしていると、背後から急に声をかけられた。
一瞬ビクリと肩を震わせ、それでも誰かがいるという事に安堵した征士は恐る恐るではあるが振り返る。
「……あ…」
そこに居たのは青みがかった短い髪の、自分と同い年くらいの少女だった。
「あの…」
「…何や、日本語喋れるんや」
さっき公園で見た子供達と同じ言葉で喋るその子をマジマジと見つめると、その子は少し居心地の悪い顔をして見せた。
「……お前、迷子?」
「あ………………はい」
相手の綺麗な青い目に見惚れていたせいで、言われた言葉の意味を理解するのに少しばかり時間が掛かってしまった。
「ふうん。何処からきたん?」
「えっと…あの、遠くから…」
「そういう意味ちゃうよ。えぇっと………何処に帰りたいん?」
「えっと………その…」
帰りたいのは、祖父の知人の家だ。
だがその人の名前を知らないし、その人の名前を言ったところで自分と歳の変わらない子供がわかるとも思えず征士は口篭ってしまった。
それをどう受け取ったのか、相手は何だか大人のような仕草で溜息を吐いた。
「泣くなよ。お前、男やろ?」
そう大きな瞳でじっと見られると何だか恥ずかしくなってきて征士は顔を逸らしてしまう。
「…泣いてない」
「嘘やん。お前、泣きそうやで」
「泣いてない…!」
「………まぁ、ええけど。で、どこに帰りたいん。お前、この辺の子とちゃうやろ?」
「……そうだ」
「うん。せやったら、えーっと…どんな感じの場所に帰ればいいんや?」
名前は知らないが、家の雰囲気なら覚えている。
歳は変わらない筈なのに思わぬ賢さを見せるその子供を、征士はただ驚いて見つめた。
「ほら、どんな感じの、家や。言えよ」
「え、あ…………あの、……大きな家で、古くて、大きな門があって…」
「この辺で大きくて古い家っちゅーたら………あぁ、高島のじーちゃん家かな?」
たかしま。
ああ、そうだ、そう言えば出発前に確かそう聞いたと征士は思い出し、勢いよく頷いた。
「ん。それやったら判るわ。…でも結構遠いトコやなー。お前、そら迷子なるで」
ケタケタと笑ったその子の笑顔から目が離せない。
胸がドキドキとしてくる。頬は何だか熱い。
言いようのない感覚に、征士はくらくらとしてくる。
いつまでも動こうとしない征士の目の前にスっとその子の手が伸ばされた。
「………えっ…と………」
「ほら、行くで。手ぇ。お前、迷子やろ?はぐれても知らんで」
そう言ってぎゅっと手を握られる。
繋がる自分の右手と、相手の左手。
自分のものより細い指の感触にまた征士の胸はドキドキとし始める。
少し前を行く後姿。
短く、癖のない髪は歩くたびにサラサラと揺れ、そこから繋がるのは細い首。
セーラーカラーの服の袖から伸びる華奢な腕と同じで、膝丈のズボンから伸びる脚も細かった。
暑い暑い夏の日の、小さな思い出。
「……キミ、いい加減のところでヤメなよ」
大学の敷地内にあるカフェで向かいに腰を下ろしている伸は、たった今、目の前で女性からの告白を断った征士に溜息を吐いた。
「いい加減とは…?」
「だから、いい加減、初恋の人を追うのをヤメなって言ってるんだよ、僕は」
今年で20歳になった征士は恐ろしいまでに整った顔立ちに逞しいが見苦しくない程度に鍛えられた体躯、そして実直な人柄で
その上お家柄も立派と来れば多くの女性を惹き付けてやまなかった。
だが当の本人はそんな彼女らを歯牙にもかけないのだ。
「大体、幾つの時の話しなんだよ、その初恋も!」
「失礼な。私は何も初恋の女性を探しているのではないのだぞ」
そう、征士だってそのつもりはない。
初恋は叶わないと知っている。……昔にこっそりと読んだ、姉の少女漫画で。
だから初恋の、あの青い髪の愛らしい少女の事を探しているのではないのだと言い張るのだ毎回。
だが伸にはそうは見えない。
何故なら征士は告白されると、必ず相手の左手を握りたがる。
そしてその感触を確かめた後でいつも首を横に振るのだ。
どう考えたって、幼い頃の記憶を手繰り寄せているとしか思えない。
「あのさぁ、キミ、シンデレラのガラスの靴じゃないんだよ。手を握って、その感触がしっくりくる人を探すだなんてのは」
「だから違うといっているだろう」
「…何が違うってのさ」
「私はただ、あの時の気持ちを上回る相手でなければ嫌なのだ。彼女を忘れられないのは認めよう。だが、だからこそ、なのだ」
大真面目に言われた言葉に伸は思わず天を仰ぐ。
だからそれが引き摺ってるって言うんだ……
大体征士と言うのは真面目だの一本筋が通っているだの色々と男らしい評価を得ているのだが、実はそうではない。
いや、実際そうなのだが、それだけではない。
彼は結構ロマンチストなのだ。
だから幼い頃のあの記憶を未だに大事に心にしまってあるし、その時の胸の高鳴りを覚えている。
そもそも彼がこの日本で最も頭のヨイ大学に通っているのだって少女があの歳で英語が堪能だったという事から、
恐らく他の大学よりも(僅かばかりでもあるとしても)出会える確率があると踏んで進学したというのだから相当なものだ。
因みにその事に気付いたのは小学校の3年の時というから、彼は随分気の長い性質でもあるらしい。
「…………キミ、ホントいい加減、現実見なよ…」
アイスティーを啜って伸は呆れたように呟いた。
モテる癖に誰も相手にしないまま20歳の誕生日を迎えた友が何だか奇特に見えてならない。
いつまで幼い頃の、恐らく美化されているであろう記憶に浸っているというのだろうか。
少女の、陽の光に晒された青くて美しい髪の事を語るだけで1日はかかりそうな雰囲気のある征士を見やり、伸はまた溜息を吐いた。
「……さてと。そろそろ次の講義に行きましょうかね」
「もうそんな時間か?」
「いや、まだ少し時間はあるけどさ、今日からじゃない」
「何が」
「新しい先生来るの」
「………そう、…だったか」
「そうだよ。ホラ、何でも渡米して飛び級使ったとかでさ、僕らと同い年なのにもう先生やっちゃって、しかも博士号も持ってるっていう…」
そこまで言われても征士はどうやら思い出せないらしい。首を捻ったままだ。
興味の薄いことはどうやら右から左なのかもしれない。
確かに自分に告白してきた女性の顔を次の日には忘れてしまうような男だ、仕方ないのだろう。
「大学側が必死に口説いて口説いて口説き捲くって、それでやっと来て貰える事になった…!」
「……ああ、……そう言えばそんな事を言っていたような…」
「まぁ興味あるじゃない?だからさ、早い目に部屋に行って真ん中よりちょっと前のほうのイイ席取ろうかなって」
「…なるほど。そういう事か。…では行こうか」
そう言って彼らは連れ立って席を立った。
外の暑さが嘘のように建物内は涼しかった。
まだ人気の少ない廊下は静まり返っており、伸と征士の靴音だけが響いていた。
「どんな人かなー」
「さあ。まあ天才には違いないのだろうな」
「僕らと同い年だろ?お近づきになれるといいな」
何故か浮かれているように見える親友を胡散臭げに征士は見つめた。
「………何故?」
「だって話しの種になるから、色々便利でしょ。合コンとか」
「……………………お前はまた…」
別にノリの軽い人間ではないが伸は割と合コンが好きだ。
何もオンナノコが好きなわけではないし、酒が好きなわけでもない。
ただソコに集まる人間を観察するのが好きなのだという。
だから色々な人間を集めるために彼は様々なネタを用意している。らしい。
「駄目かなー…でも面白いと思うんだよね、若くて天才で顔は……まぁ整ってれば尚ヨシってトコだねって、うわあ!」
「わっ!!!」
急にくるりと方向を変えた伸の横から高く詰まれた箱の塔が見えたかと思うと、それはそのまま伸にぶつかり第三者の悲鳴を響かせた。
途端、ドサドサと音を立てて箱が落ち、中から何枚もの紙が落ちてくる。
「ああ、すいません…!こちらの前方不注意で…」
「いえ、こちらも不注意でした。怪我はありませんか?」
慌てて書類を拾いながら、塔を抱えていた人物が謝罪の言葉を述べた。
それに伸も詫びを入れ、落ちて広がった紙を集めるのを手伝う。
「………征士?何してんのさ、手伝ってくれてもいいんじゃない?」
ぼーっと突っ立ったままの彼に声をかける。
だが征士の耳に声は届いていないらしい。
「………?」
不思議に思いその顔をよく観察すると、完全に思考停止している。
はて何が、と思い今度は、先ほどはぶつかってすぐに床に視線を落としたためにきちんと見ていなかった塔の持ち主の方へと、視線を流す。
「……あ」
青い髪だ。それも綺麗な。
窓からの光が当たったそれはとても鮮やかな色を見せている。
それに目も見事なまでに青い。
ほっそりした指が必死に床に散らばった紙を集めているのを見て、伸は息を飲んだ。
征士の、初恋の人だ。
だが、いや、これはどう見ても。
「………………………」
思わず征士のほうをまた見てしまった。
彼もショックを受けているのだろう。
いや、わかる。判りすぎる。
だって、どう見たって目の前のその人は、
男だ。
確かに細いし整った顔立ちをしているが、さっきの声だって、それに首を盗み見れば喉仏がある。
男だ。どう見ても、男だ。
「…………………せいじ…」
ご愁傷様。
言って良いものか悪いものか悩んで、結局伸は声には出さなかった。
初恋の女性は、実は男だった。
今まで彼女との再会を心のどこかでは夢見てきたであろう親友が不憫でならない。
現実を見ろとは言ったが、まさかこんな形で現実を突きつけられる事になるだなんて。
彼への気遣いが極力伝わらないように、伸は己の視線を床の紙の上を必死に彷徨わせる事にした。
漸く征士も我に返ったのか2人の近くにしゃがみ込み、紙を拾い始める。
ガサガサと集めた紙を、伸は目の前の青年に差し出した。
「ありがとうございます」
垂れた目尻を更に下げて微笑む顔が、何だか可愛らしい印象を与えてくる。
それに少し見惚れていると、今度は征士も同じように彼に紙の束を差し出した。
「そちらの方もありがとうございます」
そして受け取ろうと伸ばしたその彼の手を、左手を、徐に征士は握ったのだ。
「………………!?」
青年は驚いた。いや、それ以上に伸が驚いた。
何をしているのだろうか、征士は。
いや、わかる。初恋の人か確かめたいのだろう。
確かに青い髪の人間なんてそうは居ない。恐らく、残念な事に彼がその人なのだろう。
それでもまだ何処か受け入れたくない現実があるのだろうか、いや、そうだろう、受け入れたくないだろう。
どうか違って欲しい。そう思っているのだろう。
と、伸は思ったのだが。
「…………見つけた」
低く、時折色気があるとさえ言われるその声に、あからさまな喜色を滲ませて征士が呟いた。
ぎょっとしてその顔をマジマジ見る。
頬が、薔薇色だ。
殆どの場合、無愛想と言われる事が多いはずの征士が、薄っすらと微笑んでいる。
気付けば彼の左手を、両手でしっかりと優しく包み込んでいるではないか。
「え、え、……?え、何が、ですか?」
対して相手は困っている。そりゃそうだ。
流石にこれ以上は不味いと伸が割って入ろうとしたが、遅かった。
「ずっとあなたを想っていました。……付き合ってください」
ロマンチストで、そして奇特で奇天烈な親友は、驚いた事にその日、同性に告白をし、
伸は絶句という言葉の意味を身を持って知ったのだった。
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講師の当麻と大学生征士。