羽柴歯科へようこそ



最悪だ。
征士はハンドルを握りながら心の中で何度も悪態を吐いていた。

定時に上がれないのはもう常となっているためさして気にしてはいない。
ただ、この曜日は他の日よりも比較的に早く上がれる筈だった。
なのに、何故、偶々来社した取引先の人間が重役を伴って来たのか、しかもその人物の話が異常に長いのか、
そして何故、自分を食事に連れ出そうとしてくれるのか。
本当に、最悪だった。

少し付き合うだけでいいと煩く言われ、上司からも得意先だぞと何度も言われ仕方なく付き合った。
店につく前に医院に電話をしようと思っていたが、その隙さえ与えてもらえなかった。
どうにか途中で退席して電話をかければ、聞こえてきたのは当麻の声ではなく女性のものだった。
その女性の名前は知らないが、それでも誰かはすぐに解った。
帰る彼女と擦れ違った事は何度かある。こざっぱりした印象の、セミロングの女性だ。
普段あの医院は7時半くらいにもなれば最後のスタッフも帰る為に、本来なら当麻しか居ないはずだ。
なのに、何故いるのだろうか。
思わず邪推をしてしまうのを振り切って、時間が遅くなるという事を伝えた。
本来ならキャンセルと伝えるべきだったのだろう。
だがそれでも征士は、遅くなる、と伝えた。

どうしても今日、当麻に会いたかったからだ。
会って、伝えたい事があるからだ。


当麻に惹かれたのは、会社で行われた歯科検診のときだ。
ただその時は彼の言うとおり珍しい髪の色と、口内炎が酷いなと笑った時の目元が印象に残っているに過ぎなかった。

歯医者は元々怖いイメージがあったために極力避けていた。
それでもあまりにも口内炎が酷くなってきた時に、彼が歯医者で診れると言っていたのを思い出した。
同じ行くなら会社の近くのものの方が便利だとは解っていたが、それでも何となく彼にまた会いたくなった。
だから征士は総務課へ出向き、あの時の歯科医院の名を尋ねた。
時間に無理をいう事になってしまったが、それでも電話の向こうで聞こえた彼の声にまたあの笑顔が頭を過ぎり、申し訳なさよりも
妙な高揚感が勝っていた。

医院で会った彼はあの時と何ら変わらず、そしてどこか掴み所のない人間だった。
純粋に、面白いと思った。

最初は本当に、ただそれだけだった。はずだった。

気が付けば彼に対して他と明らかに違う感情を持っている自分に気付いた。
街中で偶然会った時には、それだけで胸が高鳴った。
クリスマスイブに食事に誘った時には実は手が震えたし、一緒に遊びに行こうという事になった時など、学生時代の初めてのデートよりも
ドキドキして、前日はろくに眠れなかった。
バレンタインに会って欲しいと言われた時は誰かの罠かと疑ってしまうほどだったし、抱き締めて眠ることを拒まれなかった時は、
そのまま襲ってしまいそうになる自分を何度も自制した。

だが、現実はそう喜んでばかりもいられない。

彼とはあくまで院内で知り合った医者と患者だし、何より同性だ。
だから今の関係を少しずつ進展させて、いつかは一番気を許せる人間になれればいいと思っていた。
いつか彼が恋人を持ち伴侶を得たとしても、誰よりも彼を理解し、誰よりも気を許してもらえる人間になりたかった。

だが、彼は先週言った。
治療はおしまい、と。
つまり3ヶ月間、会えない。
いや、3ヶ月間会わなくてもいい人間になる。
2人きりで診察室にいる事が多かったから、思い違いを起こしてしまっていた自分に気付かされた瞬間だった。
徐々に関係を詰めればいい。
そう思っていた征士はその言葉に少なからずショックを受けた。

そこに、あの電話だ。

7時50分という、どう考えても最終としか言いようのない時間に申し込んだ患者は、自分と同じく多忙なのだろう。
そう思いはしてもどうしても征士にはそれが許せなかった。
相手が男か女かは知らない。
それでも誰かが当麻と2人きりでこの部屋にいるところを想像すると、それだけで腹が立った。

気付くと彼の腕を掴んでいた。

相手は酷く困惑していた。
当然だろう。子供でもあるまいに、仕事の邪魔をしているのだから。
それは征士自身も解っていたことだが、もう後には引けなかった。
だから、断れ、と。そう彼に詰め寄った。
苦しい言い訳を続けた末に彼は自分の要求を呑んでくれた。
少しばかり釘を刺されはしたけれど、そういう所がきっと自分より年上だという部分なのだろうと征士は悔しく思った。


今日、予約を入れた。
それはいつも予約を入れている日で、時間で、何も変わらないことだったが、それでも征士には大きな意味があった。

彼に自分の思いを告げよう。
そう決めていた。
今日を逃してしまえば、何となく決意が揺らぐような気がした。
だから、迷惑なのは百も承知だったがそれでもキャンセルするという言葉は選べなかった。

電話が保留になっている間中、ずっと緊張していた。
だったら来週にしてください。
そう言われたらどうしようか、告げたのが電話に出た彼女の声ではなく当麻のものだったらどうしようか。
そんな事ばかり考えていたから電話口から返って来た、
「待っているそうですので、必ずいらして下さい」
という言葉に、心底安心したものだ。




信号に引っ掛かるたびに、舌打ちしてしまう。
デジタル表示の時計を見れば、既に時間は9時半だ。
あともう少しで着くが、恐らく10時前になるだろう。
少し付き合えばいいと言った筈の相手はやはり自分を中々解放してくれず、結局2軒目にまで引っ張られそうになるのを
半ば強引に断って逃げてきた為に、電話を入れる事さえ忘れていた。

それでも待っていてくれているのだろうか。

不安な気持ちを抱えたままどうにか駐車場に辿り着く。
医院の看板はまだ電気がついていた。
その事に安堵して車から降り、建物に近付けば玄関にも電気がついているし、ドアを押せば難なく開く。
宣言どおり待ってくれているらしい相手に思わず笑みが零れた。

入り口で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え待合室に続くドアを開ければ中から光が漏れてくる。


「当麻、遅くなってすま」


言葉を止めてしまった。

待合室に居たのは、当麻だった。
だが彼はソファに座ったまま眠っている。
連絡をして2時間過ぎている。何時になるか判らない相手に待ちくたびれたのかもしれない。
手元には空になった紙コップがあり、ソファの上や足元には恐らく中身が菓子類だったと思われる空袋が幾つも落ちていた。
近くにある籠は既に中身が空で一体何が入っていたのかは解らないが、恐らくそれは周りにあるゴミ屑が答えだろう。

起こさないようにそれらを拾い上げ、ゴミ箱へ放り込むと、征士は当麻の近くにしゃがみ込んだ。

癖のない髪は彼の呼吸に合わせてサラサラと揺れ、長い睫毛の陰が頬に出来ている。
薄く開いた唇に吸い寄せられそうになるが、それは駄目だと思いとどまった。

思いは、告げる。
だが、断られるだろう。
いや同性にそんな思いを抱かれるなどと嫌悪の対象ともなりかねない。
だからせめて、診察が終わるまではいつも通りの関係でいたかった。


「…当麻、当麻」


肩を揺すってみれば、眉間に皺を寄せ身じろぐ彼から呻き声が聞こえる。


「当麻、遅くなってすまない。起きてくれ」


何度か根気強く声をかけていると、漸く彼が覚醒した。
瞬きを繰り返した後で、驚いたように立ち上がる。


「お、俺、寝てた!?」

「ぐっすりとな」


何処か子供っぽい動作に笑みをかみ殺して答えてやると、当麻はギャーっと言いながら顔を覆う。


「え、お、ちょ…流石にスタッフには黙ってて…!」

「此方の我侭を聞いてもらったのだから、コレに関しては黙っておこう」

「サンキュー、……って、アレ?ゴミがない…」

「捨てておいた」

「えぇ!?マジで!?……ありがとう」

「どういたしまして」

「で、…あの…」

「その事はどうだろうな。私が黙っておくのは寝ていた事だけだ」

「こ、こっちもその…」

「だがこの籠はどう見てもプライベート用だ。スタッフ達のものではないのか?」

「…そうです」

「それが全て空になっているのだから、どちらにせよ言われるだろうな」

「ううう……明日めっちゃ怒られる…午後からどっかに買いにいかねーと…」

「食べ物の怨みは恐ろしいからな」

「しかも女の子ばっかだしなぁ…」

「嘆くのは後でいい。遅くなってすまないが…」

「あ、検診ね。じゃあ2階、行こうか」

「ああ」




*****
最後の診察です。