azul -42-



仕事中もつい悩んでしまい、時折上の空になりかけたがどうにかそれは堪えた。
が、夕方にもなると気が緩んでしまったのだろうか、背後に佐々木がいる事に気付かなかった征士は、
突然かけられた声に必要以上に驚いてしまった。


「………何ですか…」


極力抑えたつもりだが不機嫌な声が出てしまう。
それに佐々木はニヤリと意地の悪い笑みを返した。


「何、伊達、お前何か悩んでんの?」


ニヤニヤとした佐々木は征士の肩に手を置いて逃がすまいとしているようだ。


「……いえ、特には」

「そう?いやー何かお前が珍しいドジ踏んだって聞いてさぁ」


言われて、それが昨日のガラス扉にぶつかったことだとスグに気付き顔を歪めてしまった。
それを逃す佐々木ではない。


「どうしたのかなぁって。いや、ホラ、上司だろ?部下だろ?やっぱり心配でさぁ」


嘘を吐け。面白半分の癖に。

声に出さないが、どこからの情報かなんて征士にはとっくに解っていた。
どうせ新宿署の黒田警部に決まっている。
あの2人は仲良しというワケではないが、こういった手合いのこととなるとトコトン気が合うらしく、しょっちゅう遣り取りをしている。
その大半が、交通課の誰某が征士の事が好きらしいとかそういった事ばかりなのも、征士の機嫌を悪くする。


「いえ、ご心配なく」


兎に角今はこの上司から逃げるべきだと判断してさっさとその場を離れる。
そうでなくても只でさえ困っているのだ。
これ以上厄介ごとになど巻き込まれたくない。

その背に佐々木が思い出したように声をかけてくる。


「あ、そーだ、伊達。お前、今日遅くなるのと明日遅くなるの、どっちがいい?」

「今日の方がいいです」


一刻も早く当麻に会いたい気もするが、今日は冷静になった方がいいだろう。
そう思って即答するとまた佐々木がニヤリと笑った。


「…………明日にするつもりですね」


意地の悪い性格なのだ、彼は。
正しくは、征士に対して性格が悪い。
この堅物をからかうのが楽しくて堪らないのだろう。

今日ではなく明日が残業か、と諦めるしかなかった。
が。


「いや、明日はさっさと帰らせてやるよ。明後日休みだもんなぁ、お前」

「………はぁ」

「そりゃあ、ゆぅっくり過ごしたいよな」

「………は?」

「恋人んトコ泊まって、…なぁ?」

「……………………………………………………。………は?」


今、何と言った。
いや間違いではない、恋人のところには行く。
間違いではないし実は今日も行くつもりだが、いやしかし、何と言った。


「今、なん…」

「アレ?違ったか?おっかしーなぁ……黒田の野郎、絶対そうだっつったのにな。…クソ、アイツ、俺の事騙しやがったな」


途中から彼の意識はあの若白髪の男へ向いたのだろう、あの時もそうだったこの時もそうだったと彼への文句を連ね始め、
しまいには征士の事など放っておいてさっさとその場から去って行った。
それに安心した征士だが、別の不安が湧き上がる。

恋人のところに泊まって、…。

その言葉が頭の中でグルグルグルグルと、まるでカゴメカゴメのように自分を囲んで回る。

泊まって……いや、泊まるわけにはいかない。
そんな事をしてしまえばきっと自分はもう駄目だ。
今でも自制しているのに、あんなあどけない寝顔を今以上に近くで見てしまっては、きっと。


一先ず当麻に今日は遅くなることを知らせて、こっそり溜息を吐いた。






メールを送ってから1時間ほどした頃、自分の携帯が震えた。
仕事中のため音は切ってあるが電源は入れっぱなしだ。
ディスプレイを確認すると、ランプが青く光り、それが当麻からの着信だと教えてくれる。

何かあったのだろうかと不安に思いながらメールを開くと、そこには単に夕食をどうするかという問いかけだけがあった。
それに少しだけ思案した征士は、食べてから行くと返した。
当麻と2人きりになるのは決して嫌ではないが、そうなることで彼を傷つけてしまいそうな自分が嫌だった。
だからなるべく、時間を少しでも減らそうかと思った。
会いたいし会おうと思えば幾らでも会える状況下での贅沢な悩みではあるが、逸りそうな自分を抑える必要がある以上、仕方が無い。

それ以上、彼からのメールが無い事に少しの不満と、そして安心をした征士はそのまま仕事に戻る。


それから幾らか時間が過ぎ、漸く仕事から解放される頃には夜の10時に近くなっていた。
今から当麻の家へ向かったとして一緒に過ごせる時間は大体1時間半から2時間ほど。
それくらいの時間ならば抑える事くらい可能だろうと、またメールを送る。
今から行く、という簡単な文面だけの、メールを。



夜の道は視界が悪く、道も混んでいる。
前までの自分ならば明日の事も考えてこういう場合は素直に帰宅していたが、今は僅かな時間でもやはり彼に会いたかった。
会いたい。
が、会って自制するのが辛い。
いっそあの身体を抱き締めて欲求を満たしたいと思わないでもないが、やはりそれは出来ない。
当麻への気遣いも勿論あるが、信頼してくれた兄への申し訳なさもある。
頭では解っているのに、それでも自分の中で燻る熱が、ある。

ケモノか。

そんな自分を自嘲気味に笑えば、車はまた流れが遅くなる。
彼の家へ着くのは予定よりも遅くなりそうだ。



出発初日以来、伸からの電話は無かった。
恐らく忙しすぎて電話をする暇さえないのだろう。
でなければあの心配性で弟を溺愛している男が電話をしてこないはずが無い。
幾ら預けるより他無かったとは言え、エロ河童と呼ぶ相手がその家に寄っているというのなら尚更だ。

征士は伸が帰ってきたら、すぐに当麻との事を話そうと決めていた。
きっと、いや、絶対に猛反対するだろうし散々に言われるだろう。
だが正直に話しておきたい。
もし許されるのならばこの先もずっと一緒に居たいと思っている事を、きちんと、彼を何よりも大事にしてきた兄に、面と向かって話したい。
こちらが一方的に想い続ける事に関しては許しを得ようとは思わなかったが、今はそうではない。
彼からの許しを得られれば、当麻の話を聞く限りいつ会えるかは解らないが、彼ら兄弟の両親にも話すつもりだし、
当然、自分の実家にも連絡を入れるつもりだ。
ただ同じく当麻の話を聞く限り、やはり一番の難関は兄である伸であろう事も予測はついていた。
何といって切り出すべきか。
恐らく当麻が言えば彼も渋々ではあるがきっと許してくれるだろう。
だがそうではなく、征士としては自分の言葉で彼の許しを得たい。

今、征士を悩ませるものは何も当麻と自分という狭い範囲のことだけではなかった。

因みに自分の実家の事は悩みにはない。
跡継ぎ云々について以前、伸からご尤もな指摘を受けたが、実はアレだって姉が入り婿を迎えているために既に解決済みだ。
学生時代にはそれなりに、それでもごくごく偶に恋人はいたが長続きせず、そして社会に出てから一切そういった事に興味を示さなくなった息子に、
既に実家では諦めムードが漂っている。
それどころか親戚まで口を揃えて、同性でもいいから誰か好きな人は居ないのかとまで言っているような状態だ。
それを今まで煩わしいと思って避けていたが、まさか本当に同性の恋人を持つ事になろうとは、きっと彼らも思っていなかっただろう。
だが自分の一族の事は自分が一番よく解っている。
彼らが諦めやナゲヤリにそう言ったのではなく、誰も愛せない自分を心の底から心配してそう言ってくれていたのは知っていたし、
実際に当麻を連れて行けばそれこそ諸手を上げて喜んでくれるであろう事も解っていた。
だから実家の事は、いい。


ハンドルを切ってマンションの来客用の駐車スペースに車を入れる。
今一番大きな悩みでもある彼の待つ部屋へ向かう足取りは、軽いのか重いのか、征士にはもう自分でもさえも解らなかった。






鍵を開け、ドアを開け、目に飛び込んできたものに征士は固まる。


「お疲れさん」


そう言って玄関で迎えてくれたのは、勿論、当麻だ。
だがいつもの当麻ではない。


「………当麻、お前…」

「ん?あぁ、お風呂、済ませたんだよ。…あ、ゴメン、髪乾かすの下手なんだよな。気にしないでいいから」


そう言って指先で摘ままれた彼の髪からは雫がポタポタと垂れている。
歩いてきた道筋を示すように所々にも、それは落ちていた。
だが征士が言いたいのはそういう事ではない。

風呂上りのその清潔そうな香りだとか、上気した肌だとか、いつもより赤く色づいた唇だとか、濡れて首筋や頬に張り付く髪だとか、


「…………………………拷問だ…」


その、普段と違いすぎるその艶っぽさに思わず口にしてしまった言葉は、幸いかな、当麻には届かなかったらしい。
タオルを持ち直して必死に髪を乱暴に拭っている。


「これで大丈夫?」


当麻はある程度拭くと首にタオルを掛け直し、今度は顔を近づけてきた。
それがキスをするためだと気付いた征士は慌ててその首にあるタオルに手を伸ばし、彼の髪ごとぐるりと視界を覆う。


「…わっ!」

「水分をきちんと吸わせていないからいつまでも髪が濡れているのだろう?ちゃんとしないか」


今まで自分がしかけていた時は何も考えていなかったが、実際にやってみるとそれが充分不味い事に気付いた征士は、
髪を拭くという名目でそれを遮った。
昨日の状態でも充分危なかったというのに、今目の前のこの妙に色気のある彼にそんな事をされてしまっては
ここが玄関先だという事さえ忘れてしまいそうだ。

リビングに場所を移しても髪を乾かす事に終始された事に些か当麻は不満があるらしく、若干口を尖らせている。
それは解っているが、征士としてはどうする事も出来ない。
いつもなら帰ってきたら真っ先に彼に口付けていたのは征士のほうだ。
それがなかった事が不満なのだろうと征士はあたりをつけて、彼の手を取り指先に唇を寄せた。


「……………………征士、疲れてる……?」


今はコレで機嫌を直して欲しいと思って行動すれば、今度は心配そうな声をかけられ驚く。


「……何故そう思う?」


いつもと違うキスをしたからだろうか。
確かに疲れてはいるが、なるべく当麻の前でそういう姿は見せないようにしていた征士は、まず相手の出方を伺ってみる。


「…何となく」


だが当麻からは曖昧な言葉しか返って来ない。
思い当たる理由があるのか、それとも単に本当に、何となく、なのだろうか。


「私は疲れてはいないぞ。…そりゃ仕事帰りだから多少、そういった疲れはあるが寝れば治る程度のものだ」

「本当に?」

「本当に」


寝て、いっそ性欲もリセットがかかってくれればいいのだが。
心の中でだけそう続け、彼を安心させるために笑ってみせる。


「じゃあ、大丈夫なんだな?」


それが成功したのか当麻も笑った事に、征士も安心した。
彼には下手な心配も、恐怖も与えたくはない。
それだけは常に考えていることだ。
彼が幸せそうに笑ってくれている事が一番だった。
だから今、笑ってくれた事に安心し、肩の力を抜いた。


「……っ!?と、当麻!?」


そんな征士に、当麻が突然、しがみ付いてきて、また驚かされる。
それは抱きつくという表現よりも、本当に、しがみ付く、という方が似合うような、稚拙な動作だったが、
征士を狼狽えさせるには充分すぎた。


「当麻、どうした…っ」

「じゃあ、俺もさー、寝る」


しがみ付いたままのために表情は見えないが、声や伝わってくる筋肉の感じからして笑っている事は解った。


「寝るというなら何だ、この体勢は」

「や、だから寝るんだって」

「ならベッドへ行け。人をからかって遊ぶんじゃない」


彼にとっては遊びでも、自分にはその常より高い体温が既にヤバイのだと征士は必死になって当麻を引き剥がそうとする。


「だって征士、疲れてないんだろう?」

「……多少は疲れている」

「でも大丈夫なんだろ?」

「……………まぁ…」


さっきの自分の回答を取り消したいが、今更だ。
当麻に聞こえるように溜息を吐き、今度こそ彼の身体を引き剥がす事に成功した征士は、その顔を覗き込んだ。
……悪戯をしかけている顔をしている。


「………当麻、何が言いたいんだ」


こっちの気も知らずに。


「うん、だからさ。俺、ベッドまで行くの、面倒だから」

「”だから”?」

「征士、運んで」


そう言ってまたしがみ付く。
ベッドまで行くのが面倒だから、というだけで自分に抱きついてくる当麻に、征士は本当に狼狽えてしまう。
彼は単に、本当に思い付きで言っているだけだろうけれど、征士からすれば拷問の続きでしかない。


「……当麻、それくらい自分でしないか」

「だって征士、前に言ったじゃん。俺を抱えて階段を昇り降りしてくれるって」


言った。確かに言った。
だがアレは脚が悪くなった場合という話しの流れだったし、そもそも降りる時のことしか言っていない。


「……当麻…」

「いーじゃん、俺、今日そのつもりしてたから、階段昇るの、イヤだ」


どういう勝手な話だ。
もう少し余裕があれば征士もそう言えたかも知れないが、色々と追い詰められている状況ではこのままの体勢で言い合う事さえ限界だ。
だから早々に彼を寝かせて、とっとと自宅へ引き篭もろうとギブアップを示す。


「解った。……じゃあ」


そう言って荷物のように肩に当麻を担ぎ上げると、背中の方から楽しそうな声が上がった。


「スッゲー!アッハハハ、何だコレ!」

「暴れるな、落としてしまうだろう」


何故こうなったと思いながらも彼を寝室へ運び、ベッドへと降ろす。
疲れた征士とは違い、当麻はまだ楽しげに笑いながら何の遠慮も無く、あー面白かった、と言っている。
それを見て腹が立つより可愛いと思ってしまった時点で征士は負けているのだろう。

取敢えず仕事は終ったと言わんばかりに立ち上がろうとした征士の袖が引っ張られる。


「………何だ」


まだ何かあるのか。
流石にこれ以上は無理だと思い、思わず征士が面倒臭そうな声を出してしまった。
しまったと思ったが当麻の表情は変わっていない。


「…どうした」

「征士、疲れてるだろ」

「そりゃ幾ら細いとは言っても人一人運んだのだ、疲れはする」

「じゃあさ、寝ていけば?」


征士は思わず耳を疑った。

寝て、いけば?
それはつまり、泊まっていけ、といっているのだろうか。

喉をゴクリと鳴らし言った張本人を見つめなおす。
ニッコリと笑っているのは、悪魔だろうか。
ベッドに半身を起こした状態で自分を見て微笑む姿は、やはり小悪魔などとは生ぬるい、悪魔だ。


「駄目、かな?」


追い打ちで小首まで傾げてくる。
悪魔だ、絶対、悪魔だ。




袖を引いた当麻の手が微かに震えていたのに全く気付かない征士は、


「明日も同じスーツで仕事に行くわけにはいかない」


などと尤もらしい理由をつけ、彼の頭まで上掛けをかけると、そのまま部屋を出て行ってしまった。




*****
どっちもいっぱいいっぱい。