azul -40-
当麻の突然の行動に征士は狼狽しまくった。
まさか彼の方からされるだなんて夢にも思っていなかったし、まさかあんなタイミングだとも思っていなかった。
それに、あんなに、何と言うか、彼の唇が可愛らしい感触だなんて、本当に、思いもしなかった。
征士だって容姿の割りに少ないかもしれないが、それなりに恋人と言うのがいた事はあったし、まぁ流れでキスくらいした事もあった。
けれどそのドキドキする感じや、嬉しさや、混乱は今までの比ではない。
本当にただ触れるだけのものだったにも関わらず、あんなに幸せな気持ちになったのは初めてだった。
いや、そもそもこれほどまでに誰かを欲したこと自体が初めてだ。
今更だしいい歳なのだが、いっそ、初恋、と言ってもいいくらいだ。
その癖色々と知ってしまった大人は、それだけで満足できず更に先を求めそうになる。
だからそれを抑えこむのにどれ程の理性が必要だったことか。
なのにそれだけでは済まない。
必死にかき集めた理性の助けを借りて我に返れば、恥ずかしさのあまり頭まで上掛けに埋まっている当麻がいた。
足元を見ればかなり力強く引っ張ってしまったからなのだろう、指先が僅かばかり出ている。
細く長い、綺麗に並んだ指が却って妙な色気を見せるものだから、征士としては堪ったものではない。
それでもぐっと気持ちを抑えて彼に声をかけるが、返事はない。
まさかと思って上掛けをゆっくりと捲ってみれば、既に彼は穏やかな寝息を立てて夢の中だった。
口元には微かに幸せそうな笑みが浮かんでいる。
だから征士はその行動の意味も、意図も何も確かめられないままに自宅へ帰っていった。
明日、どんな顔で彼に会えばいいのか悩みながら。
翌朝それでも相変わらず随分と早い時間に彼のマンションへ向かうと、久し振りに秀とエントランスで鉢合わせた。
「おはようございます、伊達さん」
「ああ、おはよう。今日は随分と早いな」
予定時間より早く着いて当麻の寝顔を見るのがここ数日の日課になっていた征士は、きっと昨日までなら
此処に居る秀を邪魔だと思ったかもしれない。
とても身勝手な話ではあるが。
だが今は違う。
夕べの当麻からのキスで、必死に抑えている衝動がまた強く揺さぶられたばかりだ。
今朝、彼の寝顔を見て我慢が出来るかどうか少々不安ではあった。
だから秀の存在は今はとても有難い。
当たり障りのない話を秀に振ろうかと征士が口を開きかけるより早く、秀が勢い良く頭を下げた。
「その、伊達さん、スイマセンでした!」
だが征士には理由が思い当たらない。
いや、あるとすればガラス扉にぶつかるという失態を当麻に報告していた事くらいだ。
「…………ああ、あれは…」
「伊達さん1人に負担、かけすぎましたよね!?」
「……負担?」
負担、とは何だろうか。
征士はサッパリ解らず首を傾げる。
「その、だから…毛利先生が外国に行ってから、伊達さんばっか当麻のこと起こしてたでしょ?
それってやっぱ責任感っつーか年上だからっていう……ああ、責任感か。ソレだからですよね?
俺、なのに何にも気付かなくって伊達さんにばっか当麻の世話押し付けちゃって」
「…いや、」
寧ろそこは放っておいてくれると助かる。
いや、今じゃもう助からないか。
征士はどう返すべきか思案する。
「……構わん。私が勝手にしていたことだ」
そう、勝手に当麻の寝顔を見ていただけだ。
それに今となっては本当に秀の存在が有難い。
いくら恋人だからといって下手に衝動のままに行動を起こして、彼を傷付けたくなど無い。
だったらストッパーになる第三者が一緒に居てくれた方が、譬え2人きりを楽しみたいと思っても、今では何倍もマシだ。
当麻と2人きりは本当に幸せだが、彼の突飛な行動でこれ以上理性を崩壊させられては堪ったものではない。
それでなくとも時折頬を染めたりする姿に思わずツバを飲み込んでしまうような状況が続いているのだ。
だがやはりそんな事を口にできるはずもなく、取敢えず有難い勘違いをしてくれている秀に頷き、エレベーターへ乗るよう促した。
当麻の部屋へ行くと、いつものように彼はぐっすりと寝たままだ。
上掛けは昨夜帰る前に元の位置まで戻しておいた時のままだったので、彼はあれから一度も目覚めていないらしい。
その姿に秀が声をかけると当麻はもぞもぞと寝返りを打ち、彼らに背を向けて丸くなった。
いつも起こされる時間より随分早いのだ、当然と言えば当然だろう。
征士ならもう少し寝かせてやろうと思うところだが、秀はそんな当麻を許さなかった。
人に世話をかけておいて素直に起きないとはどういう事か、と言いたいらしい。
あっという間に当麻から上掛けを剥ぎ、自身もベッドに乗り上げると、征士が止める間もなく。
「……………っ…!?…ぇ、ぇ、な、え、なに…っ…ちょ、ぁっ…ん」
当麻の腰を擽り始めた。
突然の事に驚いた当麻は必死に抵抗をするが、寝起きの身体は思うように動かない。
「起きろ、コラ!おーきーろー!!!」
「や、っちょ、…ん、お、起き、る、から…ぁ!やめ、…ろって、うあ…!!」
「目ぇあけてから言え!」
「め、めぇあけるって…!や、やだって、わき、腋はマジ、…やぁ…め…っ!!」
当麻が擽ったがりだというのを秀が知ったのは小学生の頃だ。
それを昨日思い出し、これならばすぐに起きるだろうと踏んだ彼は実行に移した。
暫しベッドの上でバタバタと暴れまわる2人。と、それを絶句したまま見守る征士。
「……はぁ…はぁ………はぁ………秀、てめぇ……覚えてろよ…」
「お前がとっとと起きりゃ問題ねーんだろーがよ。ね、伊達さん、コイツ起きなきゃこーやってやりゃ、すぐ起きますから」
なんて笑顔で言われても征士は困るばかりだ。
だって擽られて嫌がる当麻の声に、時折酷く艶っぽい響きが混じっていたというのに、それをやれと言うのか。
ただでさえ自制しなければならない状況にあるというのに、そんな真似できるはずがない。
「……………………………征士、すんなよ…」
苦しかったのか目を潤ませて言われるのだって困る。
乱れた髪や服や、上気した肌がそれを手伝って更に艶っぽい。
「…やらん」
「え、伊達さん、遠慮せずにやってやった方がいいっすよ。コイツ、調子乗っちまう」
「いや、私は、いい」
出来るか。
そう言いたいが、言葉を飲み込んで断る。
「ホラみろ、征士はお前みたいにアホじゃないから、やんないってよ」
擽られる危機が去った当麻は誇らしげに秀に向けて薄い胸を張る。
その姿が妙に微笑ましいのは、頭頂部にピコンと立った寝癖がついているからだろうか。
「ホラ、調子乗った!伊達さん、毎日じゃなくても最後の手段くらいには覚えといた方がいいっすからね!」
ぶーぶーと文句を言い合う2人に、征士は思わず苦笑いを漏らした。
それは決して彼らの稚拙さを笑うものではなく、寧ろ、ただのじゃれ合いにさえ何かを含んでしまう、己のいやらしさに対してだった。
だがそれを悟られたくない彼は口元に笑みを残したまま、
「まぁ………いざとなれば使わせてもらおう」
と、平静を取り戻しつつ言った。
今朝は秀のせいでトンデモナイものを見せられたが、だがやはり秀のお陰でどうにか自制する事にも成功した。
やはり第三者というのは必要だと痛感する。
明日からは兎に角、恋人の寝顔を見るのは我慢して以前と同じ時間帯に来るようにし、何なら秀が来るのを待とうと
決めた征士だったが、その計画はアッサリと崩れる。
「今日、だったか…?」
ハッキリと驚きを顕にした征士は思わず壁にあるカレンダーを確認してしまう。
確かにそこには、秀:出発日、という文字が書き込まれていた。
「そうっすよ。今日の昼から。だから今日は休みで、昼前までココに俺、居ますんで」
そう言って秀はニッコリと笑い、だから昼までの事は心配しないで下さい、と続けた。
それに征士は、ああ、と生返事を返す。
既に亡くなっている秀の祖父の家は九州にあり、法事のために秀は今日から3日間、そこへ泊まりで行く。
大家族の秀だが、そういう家系なのだろうか親戚の殆ども大家族で、こういった集まりの時には準備だけで随分とかかってしまう。
だからある程度の年齢になれば大人と一緒に準備に借り出されるのだ。
特に秀は力持ちで働き者のため、親戚中から頼りにされている。
「お土産、買ってきますし」
どこか上の空になる征士に気を遣って秀は明るく声をかけた。
それにまた、征士は、ああ、と生返事を返した。
自分を一番警戒している彼の兄がいない。
救いだと思った彼の友人も今日から不在だ。
ああ、どうしたらいいんだ。
昨夜あんなに可愛い姿を見せられて、今朝あんなに艶っぽい姿を見せられて、どう、抑えればいいんだ。
チャンスだなんて思った過去の自分が憎い。
これではまるで。
拷問だ。
誰の目にも明らかに呆然としてしまった征士は、秀が、
伊達さん、超疲れてる………
なんて哀れに思い見守っているのにさえ気付かないほどに、頭が真っ白になっていた。
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試練です。