azul -39-



突然昼間に電話をかけてきた秀の用件は、迦遊羅が入院する原因になった件のことだった。
あの時点では不運な偶然が重なったとしか処理できなかったが、その後に続きがあったという。

事の発端は、今回の入院より前に行われた検査だった。
その日は迦遊羅の主治医が他の病院に出向していたらしく、彼女の検査もその出先の病院になった。
その時に偶然彼女を見かけた看護士が彼女に一目惚れをしたらしい。
彼女が入院すれば毎日会えると考えたのだろう。
普段、迦遊羅が通っている病院を知らなかった彼は、彼女を入院させようと彼女の弱い心臓に負荷をかける行為に出た。
結果として彼の目的どおり彼女は倒れ、救急車で運ばれたがそれは己の勤務先の病院ではなかった。
だがしかし、そこで彼は気付かなかったらしい。
最近彼女をいつもの通学路で見かけないのは道を変えた程度にしか考えが及ばず、入院にはもっと負荷が必要だと思ったのだろう。
彼にとっては運良く、彼女にとっては運悪く、退院してきた迦遊羅はまた彼に見つかり、同じ目に遭いあけた。
”遭いかけた”で済んだのは、彼が行動に出た時、運悪く彼女の叔父である狛が傍にいたからだ。
その場で彼に取り押さえられ追及され、最後には警察を呼ばれ、そして。


「付き纏い行為で厳重注意」


そう秀は締めくくった。
冷静に考えればもう少しまともにアプローチをした方が彼女への心象も随分変わっただろうに、恋は盲目と言うやつだろうか。
まだ純粋な部分の多い秀からすればそれはあまりに情けなく、そして冷静に先を読む当麻からすればあまりに愚かしいが、
彼が本当に彼女の事を思っているのなら、今後こんな真似はしないで欲しいと願わずにいられない。

その結末を当麻に聞かせた秀は、おどけた口調で、


「まぁ迦遊羅の叔父さんってのが合気道をやってる人で良かったけどな。下手に刺激して怪我でもされてちゃ、何か俺もヘコんじまう」


と続けた。
それに当麻が何となくつられて笑っていると、彼は突然黙り、そして少しだけ間を置いて妙に神妙に切り出した。


「あのさ…、話、変わんだけど………最近伊達さん、おかしいと思わねぇ?」

「…おかしいって?」


対してきょとんとした当麻の声に、秀が、わかってないのかよー、と大袈裟に溜息を吐き、そして慌てて小声になる。
電話は署内からで、誰かが近くにいるようだ。
理由が何となく思い当たる当麻は実はすっとぼけてやったのだが、秀にはバレなかったらしい。
その事に安心して話しの続きを促す。


「悪かったな。で、どうオカシいんだよ」




最近、征士がおかしい。

上の空だったり、妙に浮かれていたり、突然意識が全部どこかへ行っていたり。
朝しか会わない秀でも、それでもアレなんかオカシいな、とは薄々思っていたという。


「あのさ、毛利先生が外国行ってから伊達さん、毎日俺より早いだろ?お前、何か知らない?」

「………うーん…」

「それかお前、朝起きねーから伊達さんにスゲー迷惑かけてるとか」


俺的にはコレが一番有り得ると思ってるんだけど。
そう続ける秀に、失礼な、とは返すがそれ以上は当麻も何とも言えない。


「だってお前、想像してみ?押して開けるガラス扉を自動ドアと勘違いしたんだか何だか知らないけど、開けずににそのまま激突する伊達さんとか。
っもー、署内に居た俺ら全員、笑っていいのか気付かなかったフリしたらいいのか解らなくて、すげー気まずかったんだぞ」


涼しい顔をして颯爽と歩いて、そして激突する征士を想像すると、当麻は何の遠慮もなく噴出してしまった。
ちょっとソレは面白い光景だったかもしれない。
しかしそれを目の当たりにした秀たちは笑い事ではなかったようだ。
管轄が違うとは言えそんな失態を犯すような人物ではない事は知っているし、どこか近寄り難い雰囲気もある征士のそんなザマに、
殆ど全員、どう対処していいのか気が気でなかったという。


「まぁ唯一黒田さんだけ爆笑してたけどさ…」

「……?黒田さん?」

「ホラ、例の事件でさ、お前、現場に来た初日に確か居たハズなんだけど……あの癖ッ毛で、若いのに髪が白い…」

「ああ、眼帯してた人か」

「そ。…ってアレ?お前が来た時もしてた?」

「してた。目、どうかしたのかなって思ったから覚えてる」

「あの人、何か2ヶ月に1回くらいのペースで目ぇ腫らしてんだよな…去年くらいから」

「へぇ…検査してんのか?」

「病院は合間見て行ってるみたいだけど………ってそうじゃねぇや、伊達さんだよ、伊達さん」

「そーだった。…で、何。征士はその後どうしたんだよ」

「暫くガラスをじっと見た後で、無言で入ってきた。で、用事済ませて帰ってったけどさ」


それがついさっきの事らしい。
そしてその常にない様子に、新宿署内では恐らく一番彼を知っているであろう秀が質問攻めにあった。
しかし秀だって勿論、知っているわけがない。
だからもっと知っているであろう当麻に電話して、今こうして聞いている。

…のだが。


「……………さぁ?マジに疲れてんのかもな」


当麻はこう答えただけで電話は終わった。





本当は当麻は知っている。
征士の様子が最近、おかしいという事を。
彼と付き合うようになってからおかしくなったと言えばそうだが、もっと具体的な原因が解らないでもない。

だって。


「……………………………溜まってる、…って状態なのかな…」


子供の頃から他人と触れ合うことの少なかった当麻は、同年代の他者と比べて少々情緒面で幼い。
だからそういう欲に対して元から淡白ではあった。
それに加えて自分の身に起きた事件のせいで尚更それは強まった。

が、征士はどうやら違うらしい。

当麻はふとした瞬間に、思いを告げられる前の彼からの強烈なアプローチを思い出し、真っ赤になる事がある。
あの頃からずっと、と思うと結構に長い時間、彼は悶々としていたのかもしれない。
それでも彼が自分のペースを待ってくれているというのも解っていた。
いつも照れてどうにも出来ない自分を笑って待ってくれているのは、とても大人な態度だと思う。

だた、それでも淡白な当麻でさえ気付くほどに、何と言うか、こう、…雄の目をしている時がある、というか…


「……………………どーしたらいいもんかな…」


いや、彼の欲求は解っているのだから、どうするべきかは解る。
この先の事ももっとしたい、と言っていたのはつまりそういう事なのだろう。
いきなりソレに応えるのは無理でも、せめてキスくらいは応えてやるべきなのかも知れない。
解ってはいる。
だが、それでも。

淡白だからとか、過去のせいで怖いとか、確かに挙げる理由ならある。
だが、それ以上に。


「………あの顔がなぁ…」


面食いと言われ、最近自覚しつつある当麻としては、征士のあの恐ろしいほどに整った顔はいっそ凶器と言っても過言ではない。
普通に見るのでも照れてしまうような、至近距離で見れば脳細胞が死滅すると思えるほどの、それ。
それが近付いてくると思うとそれだけでもう頭はパンクしそうになってしまう。
目を閉じていればいいだろうと思っても、近付いてくる気配があるとそれだけでもう駄目だ。

そもそも雄の気配を漂わせている征士から逃げないだけでも、当麻にしては上出来だ。
だが恋人の要求に応えてやりたいのも本音で。


「………………………………頑張る、しか……ないかなぁ…」


兎に角、今日、せめてキスくらいは。






夜になり、征士が部屋を訪れてきたのを玄関まで迎えれば、ここ最近ですっかり習慣になったようにまず抱き締められ、
そして額に口付けられてから、顔を覗き込むような体勢なってそして。


「……………お疲れさん」


結局また顔を背けてしまった当麻の頬に、慣れた感触。

何やってんの、俺。
いや、落ち込んでる場合じゃない。
次こそ、次こそは…っ!

そう意気込みはしたものの、そのチャンスがなかなかやってこない。
当麻を困らせたり追い詰めたりしたくない征士は、照れて応えられない彼に対しいつだって、少しずつ慣れればいいと言って優しく笑うだけで、
同じ日や短い時間の中でそれ以上迫ったりはしない。
それは当麻だって解っていたが、それでもやはりチャンスを待ってしまう。

だって今、一緒に並んでテレビを観ている征士から、何だか物凄く自制しているような気配が感じられるのだから。



テレビを観ながら何となくの会話を続けて3時間。
その間、互いの顔を見なかったわけではない。
そして征士が自制している気配も継続的ではないにしろ、何度か感じられた。

だがやはり、彼は自制するばかりでそれ以上は何もない。
そんな征士に、当麻の中で焦りが生まれ始める。

今日、せめて、と決めた以上、これが明日になるときっとこの決心は揺らいでしまうだろう事は、己のことだ、よく解っていた。
一晩寝ればすっかり忘れるというワケではないが、時間を置くと面倒になったりどうでも良くなったりする事が多い当麻としては、
何が何でも、是非に今日、せめてキスはしておきたい。
自分達は恋人なのだ。
相手に我慢を強いることばかりでどうする。
しかしそう思えば思うほど当麻も妙に硬くなってしまい、不自然になってしまう。


「……どうした?当麻」


当麻が何を考えているかは知らずともその様子がどうもおかしい事は解る征士が、不意に彼に声をかけた。
突然声を掛けられた当麻は目に見えて驚き、ギクシャクとしながら隣の美丈夫を見る。


「…………え、どーもしないけど…」


どう見てもどうもしないという風には見えない動きと声。
その明らかに不自然な様子に征士が心配そうに眉を顰める。


「さっきから様子がおかしい。大丈夫か?熱でもあるんじゃないのか?」


そう言って手を伸ばし、当麻の額と首筋に手を当てる。
手の平、手の甲とひっくり返してまでじっくりと様子を伺う征士に、当麻は、

あ、チャンスかも…

と思い切って目を閉じてみる。
腹は括りました。さぁやって下さい。
そのつもりでじっと待ってみる。

が、待てど暮らせど手がそのままにあるだけで、一向に彼の顔が近付く気配はない。

そろりと右目だけ開けてみると、まだ真剣に心配をしているらしい顔の征士がいた。
心配そうにしていても美形は美形で、またその顔に当麻の心臓は鷲掴みにされてしまう。
だが征士にはそんな事は伝わるはずもなく。


「熱はそう高くないようだが…身体に熱が篭っているかも知れんな。私の手の温度が自分より低くて気持ちよかったのではないか?」

「へ、」


目を閉じた理由を、心地よさと捉えられたらしい事に当麻は慌てる。
確かに気持ちよかった。
征士の手の感触は大好きなのだ、気持ちよくないわけがない。
だが今のは違う、そうではない。


「や、ちょ、違う、…いや、違わないけど、違う…っ」


急いで弁明を試みようとして、何と言えばいいのか迷って言葉を区切った。
キスをしてもらおうと思って、などと言えるか。言えない。
その通りなのだが、そんな事が言えたら最初から言っている。
言えないから今、こうして無言で必死のアピールをしてみたのだが、それをどう言えばいいのか。


「わかった。眠いのだな?」


なのに征士は、仕方のないヤツだと言わんばかりに笑って頭を撫でてくる。
その感触でさえ心地よいのだから余計に困ってしまう。

そんなんされたらマジに眠くなるだろーが…!

頭の中では必死に叫んでいるものの、その手の感触と優しい声に睡魔は簡単に呼び寄せられてしまう。
そんなつもりはないのに欠伸まで出てしまった。


「もう今日は休んだ方がいい」


それを見た征士は遅くまですまなかったと詫び、そしてソファから立ち上がって当麻の手を引く。


「え、や、やだって、俺、まだ起きてるって」


それに当麻が慌てて抵抗をする。


「駄目だ当麻。眠い時に寝るのが人間、一番身体にいいのだぞ」

「だって眠くない」

「欠伸をしただろう?」

「したけど、でも」

「当麻」


必死に言い募ろうとしたところで名を呼ばれ、じっと見つめられる。
見る間に当麻の顔は赤くなって、そして俯いてしまった。

反則だチクショウ。

額に口付けられると大人しくなってしまうのは前からだが、じっと見つめられるのにも当麻は弱い。
そうされると何も言えなくなるのだ。
征士もそれを解っているから、彼が聞き分けない時はそうするようになっていた。





「ちゃんと眠るまでいるから」


結局、当麻はベッドに連れてこられてしまった。
横になると本格的に睡魔がやってくる。

絶対今日と決めていたのに、このままではヤバい。
しかしこうなっては征士ももう何もしてこないのは知っている。
だがどうにかしなければ。
そんな事ばかり当麻は必死に考えているが、征士は征士で当麻を休ませてやりたいらしく、頭を撫でるのをやめてくれない。
その手によって睡魔は更に足を速めてくる。

寝てしまう。
寝てしまったら駄目だ。
寝たら負けだ。
寝たりしたら死んでしまう。

睡魔と闘いつつ目標を達成しようと必死の当麻の頭に、1つの案が浮いた。
そして行動に移すべく、勢いよく上体を起こすと征士のほうを見る。


「………とう、ま?」


突然の事に驚いた征士が居た。
チャンスは今しかない。
なるべく不自然にならないように、当麻は征士の額に手を伸ばした。


「今日、ガラス戸にぶつかったんだって?」


その質問は征士にとって聞かれたくないことだったのだろう、先程の驚いた顔は渋面に変わっていた。


「………秀から聞いたのか」

「まぁね。てか、打ったの?痛かったろ?」

「ああ……ぼーっとしていた。先の事件が片付いて気が緩んでいたのかも知れん」


言いながら自分の額のあたりを探ろうとしている当麻の手を取り、再び彼を横にしようと征士が身を乗り出す。
征士が近付く、その一瞬。


チュ。


相手からこないのなら、自分からいけばいい。
そう思い至った当麻は、その一瞬を狙って自分からキスをした。


ただ口を合わせるだけのソレだったが、やってから激しい羞恥が襲ってきたのだろう。
当麻は征士の手から自分の手を奪い返すと、上掛けを頭の上まで引っ張って布団の中に逃げ込んだ。
だから彼は見ていない。
固まったままの征士が彼にしては珍しく目を見開いたまま、まるで10代の少女のように顔を赤らめていたのを。




*****
やっちゃった。