azul -37-



2人で食事をして、その後で当麻を自宅まで送り届けて仕事に向かって。


重く長く感じた事件は、漸く終わりが見えた。
後は法で彼女を裁くための準備が始まる。
征士はその担当から外れる事になり、その事をすぐに当麻にメールで知らせた。


例の件、当麻の協力のお陰でやっと解決した。
私は今後この件から離れまた別の事件を扱う事になるだろうが、一先ず休めそうだ。
ただ今日はこの後にまだ処理が少し残っていて遅くなるかもしれない。


征士らしく一切絵文字を使わないメールを送った。
返事は思ったより早かった。

文面はいつもの当麻のメールと大差のない書き方だった。
征士のメールだって随分と簡素で愛想がないと妹に不評だったが、当麻のメールも大概似たようなものだ。
無駄に飾らず、無駄に続けず、簡潔でいっそ清々しいソレは2人の共通点でもあり、
征士は当麻のそういう面も好ましく思っていた。

だが今は何故かその文面が心に少しばかりの波を立てる。


「……………?」


何故だろうか。
いつもと同じ、筈なのに。
なのに、何かが違うように感じられる、その内容。


事件に関して言えば担当を外れてしまったためにそれを口実に当麻に会う事は出来なくなったが、
リハビリという名目はまだ生きているはずだし、それに兄から弟を頼まれている。
明日も明後日も、誰に憚ることなく彼に会う事は出来るはずなのに、何故か落ち着かない。

今日、会わなければならない気がしてならない。



そう思うと征士は今日の内に片付けなければならない仕事に、急いで手を付け始める。

メールには、おやすみ、とあったが構うものか。
彼に、今日の内に会っておかねばならないはずだ。
根拠はないがそう思えてならない。
もし本当に彼が眠っていたとしても、その寝顔を見るだけでもいい。
兎に角、彼に会いたくて仕方なかった。

そう思って急いでいるのにこんな時に限って書類の束を落としたり、パソコンがエラーを起こしたりする。
もどかしくて苛立ってしまうが、その時間さえ惜しいと考え直して黙々と仕事をこなす。
なのに更にこういう時に限って上司の佐々木が飲みに行こうとしつこく誘ってきて、断るのにまた時間をとられてしまった。




征士が仕事から解放されたのは、夜の11時を過ぎた頃だった。
急いで車に向かい、エンジンをかける。

今日の昼間、額に口付けた時はいつものように笑ってくれていた。
食事の時もいつものように美味しそうに頬張っていた。
家まで送った時も、何の変化もなかったように見えた。
けれど、今は何かが違うように感じる。

何が、とは解らない。
だが明日ではなく今、会うべきだ。
そう思った征士は急いで当麻の元へと車を走らせた。




マンションの前で下から確認すると、当麻の部屋に明かりが未だついているのが見えた。
どうやらまだ眠っては居ないらしい。
若しかしたら何かをしている途中で眠っている可能性だってあったが、その場合はベッドで寝かせるためにどうせ起こす事になる。
話くらいなら出来るだろうと、征士は持っている鍵でロックをあけエレベーターへ乗り込んだ。

玄関のドアをなるべく静かに開けて中を伺う。
物音が聞こえないので寝ているのだろうかと足音を忍ばせ、ゆっくりとリビングへ続くドアを開けて入った征士は、
そこにある光景にかけるべき言葉を失った。

当麻は起きていた。
が、こちらに背を向けているために気付いていないようだ。
それはいい。
しかし床やテーブルに散らばっているのは何だ、菓子類の袋ばかりだ。
確かに当麻は甘党で大食漢だし片付けは苦手な方だが、それでもそれらはまるで寂しさを埋めるかのように部屋の床に落とされていた。


「……当麻」


どうにか声を出したが、その声がたよりなく震えてしまった事に征士は舌打ちしたくなる。
きっと兄の不在が彼にこんな行動を取らせたのだろうと、彼は考えていた。
なのに今、訪れた自分まで情けない声を出してしまっては、彼に何の安心も与えられない、と。
兄の代わりになれなくとも、それでもせめて少しくらいはその心を満たしてやりたい、とも。

そんな征士の気持ちを知らない当麻は、突然掛けられた声にビクリと肩を震わせ、振り返り、
そしてどこか呆然としている征士に驚く。


「何で……」


何で来たんだ。
そう言おうとしたが、彼の視線が床にある事に気付いて黙る。
無意識だったがつい買い込んでしまった菓子類と、そして床にあるそれは明らかに寂しいと言っているようなものだった。
それを悟らせてはならないと当麻は少し大袈裟に肩を竦めて見せる。


「…ちゃんと片付けるからさ、その…伸には黙ってて。初日にイキナリお菓子三昧、散らかし放題じゃ帰ってきたら真っ先にこっ酷く怒られちまう」


なるべくおどけて、何て事のないように。
自分はダラシナイ人間なのです、兄がいなければこれくらいスグやっちゃうのです。
そう口調と態度で彼は告げてみせる。

それは果たして成功しただろうか。
チラリと征士を見る。

……失敗だ。

当麻を見る征士の目は、どうみても痛ましさを滲ませていた。


「当麻」


呼びかける征士の声は優しい。
それに当麻は苦い表情を浮かべ、視線を逸らした。


「当麻、何故連絡をしなかった」

「する必要、ないじゃん」

「あるだろう」

「ないよ」

「ある」

「なんで」

「…寂しかったんじゃないのか」

「……………」


言い当てられた当麻は返事をしない事で、それを肯定してしまった。
征士は溜息を吐くと、当麻に近寄りその手を取る。
だがそれは即座に振り払われた。


「当麻、」

「…んで来たんだよ、………今日、遅ぇんだろ」

「来てはならなかったか」

「俺、おやすみってメール、入れた」

「それでも会いたかったのだが…迷惑だったか」


迷惑なはずがない。
ただ折角折り合いをつけた心が、また揺らぐのが怖かっただけだ。


「……もう事件、終わったろ」

「ああ」

「担当、外れたんだろ」

「そうだ」

「だったらもう、いいじゃん」

「何が」

「俺のこと、構わなくたって…」

「何故」

「だから事件、」

「そちらは片付いたが、言っただろう?リハビリをしようと」


昼にはなかった拒絶を何故か突然みせる当麻に、征士は此処に来る表向きの理由を告げる。
本当の事を言うべきだったかも知れないが、当麻が拒絶を見せている今、それを口にする勇気が彼にはない。


「もうそれも大丈夫だって」

「しかしお前の兄に」

「頼まれたのかよ……だったら尚更、いいよ」

「当麻、何があった」

「別に何も」

「嘘を吐くな。当麻、頼む。本当の事を言ってくれ。私が何かしたというのなら謝る」

「征士は何にもしてないよ」

「当麻」

「……………」

「とうま」

「…………………言えるかよ」

「何故」

「言ったら征士、絶対困る」

「困ったりするものか」

「困るよ、絶対」

「困らない。何故そう思う」

「そっちこそ何で困らないなんて断言するんだよ。俺、まだ何も言ってないのに」

「お前の要求で困ったことなど今まで一度もない」

「でもコレばっかりは困るに決まってる」

「困らないから言ってくれ」

「困らせたくないから言えないって言ってるんだよ、俺は」

「だから私は困らんと言っている」

「何で」

「当麻が好きだからだ」

「………………………………………は?」


言ってから征士は、しまった、と思った。
もっとちゃんと言いたかったのに、つい流れで言ってしまった。
当麻の様子を見ると、眉間に皺を寄せているのが解った。

…今現在、彼は何故か自分を拒絶しているのだから、当然のことだろう。
気持ち悪いと思われたかもしれないが、今更言葉を引っ込める事など出来ないと、征士は更に当麻に歩み寄る。


「当麻、今更かもしれないが、」

「俺だって征士は好きだよ」


征士にとっては思わぬ返事を、何故か後ずさりながら当麻が言った。


「でも征士のと種類が違う」

「かも知れんな。だが私はお前が好きなんだ」

「解ったよ、でもあんまり言うな、……」


辛くなるから。
好意的な好きと、恋愛での好きでは言葉は同じでも違いすぎる。
そんな言葉を何度向けられても、辛いという感情しか生まれず当麻は益々顔を歪めてしまう。


「解って欲しいから言うんだ。当麻、お前の感情とは違ったとしても、私はお前が好きだ、好きでいさせて欲しい」

「そういうの、お前はよくても俺が嫌なんだよ…っ!」

「……………」

「そんなん言われたら……俺、余計にお前のこと困らせちまう…っ!」


当麻が遂に壁を背にしてしまった所で、征士ははたと気付いた。
さっきから何かがおかしい。
当麻が、というわけではない。
自分たちの会話が、どこか噛みあっていない。

まさか。
いやそんな…しかし、もしかして…?

思い当たった征士は更に間合いを詰めると、当麻が逃げてしまう前に素早く腕を掴んでその身体を抱きこんだ。


「当麻、私の”好き”はこういう”好き”だ」


腕の中で当麻が身体を硬くするのが服越しに伝わる。
だが抵抗は、ない。
自分の考えが正しいのかもしれないと思った征士は、腕の力を強めた。


「本当はこの先の事ももっとしたいと考えるほどに、好きだ」

「……うそだ…」


漸く帰ってきた言葉は小さな否定だった。


「嘘などではない。本気だ。…お前と、きっと同じだ」

「違う、征士は真面目だから、…気ぃ遣ってくれなくていいっ」

「何故真面目だと気を遣ってお前に好きだと言うんだ」


意味の解らない返答に、思わず当麻の顔を覗き込む。
至近距離で見た顔は真っ赤で、困惑を色濃く見せていた。


「だって………征士、仕事だから……それに伸に頼まれたから…俺のこと、見捨てられないだけで…」

「何故そう思う」

「だって征士、最初に言っただろ。…俺に関われないのは辛いって。仕事を途中で投げるの、辛いんだろ…!?」


辛い、辛い。
確かに辛いと言った。
けれどアレは自分の下心を隠したかっただけで、辛いのは仕事云々の事ではない。
好きな相手に関われないのが、辛い。
そういう気持ちで言ったのに、今までの行動の全てを見ても彼には全く伝わっていなかったらしい。
いや、理解できなかったのかもしれない。
自分がちゃんと言わなかったばかりに、それが却って彼を苦しめていたようだ。


「………すまない、当麻。私の言動がお前を迷わせたんだな」

「謝んなよ………余計、傷つく」

「違う、当麻。傷付かないでくれ。私が辛いと言ったのは、あの時既にお前が好きだったからだ。
そのお前に拒絶されるのが辛かったのだ。……だから、当麻、信じて欲しい。私はお前が、好きだ」

「…………………」

「愛しても、いいだろうか」


しっかりとその青い目を見ながら言うと、漸く理解したのか当麻の顔が見る間に赤くなっていく。


「当麻、いいんだな?」


返事は小さな頷きだけだったが、それでも充分だった。
返された肯定の意に、征士は笑みを深くする。
それを見た当麻は耳まで赤くして俯いてしまった。
そうした事で見えた髪と服の隙間から覗く肌まで真っ赤だ。

その様が可愛くて、愛しくて征士は頬を両手で包み、上を向かせる。
目を合わせようとしない当麻に苦笑いしそうになったが、すぐに気を取り直して顔を寄せていった。

唇が触れ合う、その直前。


「……っ、ちょ、ちょっと待って」

「………何だ」

「え、ちょ、な、なに」

「なに、とは」

「何、するつもりなんだよ」


先ほどまで顔を真っ赤にして照れていたはずの当麻が、今度は明らかに驚いている。
何、と言われてもこの状況でする事といえば大体想像は付くはずだが、どうやら彼は本気で解らないらしい。


「何と言われても…」

「なんかよく解んないけど……恥ずかしい…っ」


そう言って征士の胸を押し返してくる。

情緒面で随分と幼い部分を持っているのは付き合いの上で何となく気付いていたが、まさかここまでとは。
征士は今度こそ苦笑いを漏らして、いつものように額に口付けた。




*****
遂に言っちゃいました。