azul -35-



「いい?何かあったらすぐ伊達さんに連絡すること。それから夜更かしは駄目だからね。あとちゃんとバランスよく食事してね。
あ、それから本を読む時は必ず部屋を明るくして、その前髪、目に入らないようにしなきゃ駄目だよ。あと戸締りネ、ちゃんとして。
それと相手が誰かちゃんと見てからロック解除するんだよ?あとは…」


傍目にももう充分いい歳としか思えない男がまるで子供のような注意を受けているのに、通り過ぎ様の人が奇異の目を向けてくる。
それに耐えれなくなった当麻がもう解ったってばと言っても、心配性でブラコンの伸はそうはいかない。
可愛い弟の手をしっかりと握り、本人は至って真剣に自分の留守中の注意を伝えている。


「あーもぉ大丈夫だってば。マジ、大丈夫だから」

「キミの大丈夫ほど信用ならない事はこの世にないよ」


お菓子は食べ過ぎちゃ駄目だからね、とそれでもまだ言い足りないと兄は必死だ。
寝る前にガスの元栓とコンセントはしっかり見るようにと伸が更に付け加えているのを、征士も苦笑混じりに聞いていた。


場所は空港。
平日の午前中となればそう人が多すぎるという事もないのだが、それでもやはり完全に人が居ないわけではない。
そんな場所で、挙句の果てには知らない人について行かないこと、とまで言われるとこれは寧ろ何かの罰ゲームとしか思えず、
当麻はただ只管にこの苦行のような時間を耐え続けた。








この日の征士はいつもより早く当麻の家へ行き、そして実家に1人で住んでいるという伸の元へと車を走らせた。

伸の実家、という事はつまり当麻にとっても実家という事になる。
だから運転している間中も征士はその場所を密かに、ちゃっかり、記憶していた。
勿論、いつか挨拶に来るかもしれないなんて幸せな事を考えながら。

その隣の当麻は当麻で、久し振りに訪れる実家周辺の景色を感慨深げに眺めている。
10年と少し。
それだけ経っていると、当時でさえ中々多いと思っていた住宅は以前よりもその数が増えていた。
自分が遊んだ空き地は既に無くなっており、公園の遊具は見慣れないものに変わっている。
家から一番近い、兄に手を引かれながら駄菓子を買いに行った商店は、もう長い間シャッターが上がっていないのだろう。
前を通った時に横目で確認したが、仲の良かった”あっくん”の家族は既に引っ越していたらしく表札が変わってた事に寂しさを感じ、
けれどどこか安心してしまった事に当麻は思わず口を歪めて笑ってしまう。

もしも自分の知能指数がこんなに高くなければ、若しくは周囲が放っておいてくれたら、自分はこの土地の変化を具に見て育ったのだろうか。

考えても詮無いことと解っていても、それでも此処に来れば否応無しに考えてしまう。
考えてしまったとしても、それは決して後ろ向きな感情ではないけれど。

アメリカでの生活だって充分に楽しかった。
日本に居てはきっと知り合えなかったような人たちとも会えたし、色んな物も見れた。
結果としてはもう会うことさえ出来なくなったけれど同年代の友達も出来たし、彼と沢山下らない事をして遊んだりもした。
辛いこともあったが、その分楽しい事だって確かにあった。
別に他人よりずば抜けて哀れな人生などではないはずだ。
それに何より。
何より、今の自分でなければ征士と会う事も、彼を好きになることもなかった。
この穏やかで幸せな時間もあと少しで終わってしまうだろうけれど、それでも好きになれた事だけで充分だと当麻は思っていた。


「当麻、少し気が早いかもしれないが、今日の昼に何が食べたいか考えておいてくれ」


前を向いたまま征士が声をかけてくる。
当麻に話し掛ける時の、いつもの優しい声だ。


「でも征士、今日昼からまた仕事だろ?時間、大丈夫か?」

「本来なら今日は1日休みを取れるはずだったのだ。昼くらい好きにさせてもらっても罰など当たらん」


朝に姿を見せた征士がスーツ姿だった事に当麻は少しばかり驚いていた。
昼からだけでも出てきて欲しいと言われたと聞かされ、例の件がどうやら正念場らしいという事は容易に想像できたが、
それでも自分達との約束を違えることをしない征士のその真面目さに、当麻の中で申し訳なさより嬉しさが勝ってしまった。


「じゃ、胃袋と相談しとく」


どうせ元から行き着く先など無い想いだ。
だったらせめて、許されている間だけでも彼の優しさに素直に甘えてしまってもいいだろう。
笑いながら答える当麻はそんな風に考えていた。









「僕の帰ってくる日、秀君は居ないんだったっけ?」

「うん。何か来週末に法事とか言ってたかな?で、3日くらいだっけ、九州にいるって」

「じゃあ秀君のお土産は荷物と一緒に送っても大丈夫か…伊達さんはその日休みだったよね?」

「変更がなければ、の話だがな」

「その3日間、伊達さん1人に負担かけて悪いけど、当麻の事、起こしてあげて下さいね。
で、当麻。キミも朝が寒くなってきたからっていつまでもグズってないで、すぐ起きてあげるんだよ?」

「わかってるってば。…てか俺も努力はしてんだから認めてくれよ」

「だったらその努力、早く実らせるんだね。全く……あ、お腹出して寝ちゃ駄目だよ?」

「ださねーよ!」

「もし出していたら私の家に実家の祖母が送ってくれた腹巻があるので、それを渡しておく」

「あ、助かります」

「ヤだよそんなんつけんの!」

「茶色いヤツだ。あまり似合わん色かも知れんが、寝るときなら誰にも見えんから安心しろ」

「そうだよ、当麻。見た目より実用性を重視しなさい」

「腹、絶対ださねーからなチクショウ!」


何故かここ数日、罵りあう事の減った大人2人の矛先は、最近では当麻に向かうことが多くなっていた。
幾ら人より頭がいい当麻でも昔から兄に口で勝てた事がなく、その上正論を言う征士にも勝てない。
そんな彼らに対して必死に眉を吊り上げて、垂れた目も精一杯眦を上げて怒ってはいるが、それさえも可愛いと思っている2人に効果などない。

うーうーと唸ってどうにか腹巻着用を回避しようとしている弟の手を、伸が不意に離した。


「…?もう、行くのか?」

「ううん。もうちょっとだけ時間はあるけどネ。…当麻、僕、飛行機乗ってる間きっと暇だからさ、何か適当に本と、
それと口寂しくなった時のためにお菓子を買って来てくれない?」


確かに空港内に売店はあった。
だがそれは今居るフロアのもう1つ下だ。
エスカレーターがあるので何の苦労もないが、それでも面倒だと感じるのは当麻の性格に由るものだろうか。
伸の想像したとおり、 そういう事は早く言えよなー!と文句を言いつつも、当麻は大人しくエスカレーターへと向かって行った。

その場に残されたのは伸と、そして征士の2人だ。


「あんまり甘いものにしないでって言うの忘れてたな」


苦笑交じりに呟かれた言葉に、征士も口の端に笑みを浮かべた。

伸が自分に何か言いたいのだろうという事も、言いたいその内容も何となく予測は出来ていたが、
それでも彼が口を開くのをじっと待つ。

当麻が去ってから少しばかり無言の間が続き、そしてやがて。


「伊達さん」


エスカレータの方を向いていた伸が、身体ごと征士に向き直る。
真剣な、顔だ。


「改めて、当麻のこと…お願いします」


そう言って彼は頭を下げた。
最近の当麻が、肉体的にも精神的にも随分落ち着いているのは解っていても、それでもやはり心配なのだろう。
その彼に、征士は前と同じように誠心誠意を持って、大丈夫です、と応えるだけだ。

短くあっさりとした言葉は聞きようによっては冷淡に受け止められるが、言った男の性格や人柄を知っていれば
それだけの言葉の中に沢山の優しさがある事はすぐに読み取れる。


「来週の土曜のお昼にこっちに着くから」

「迎えは本当にいいのか?」

「いいですよ、そこまで世話になっちゃうと弱味を握られそうだから」


相変わらずな一言を付け加えて言う伸に、征士は素直に笑っておいた。





小説が1冊入っているくらいの大きさの紙袋と、小さなビニール袋を提げた当麻が2人の元へ戻ってくる。
それを伸が嬉しそうに迎え、荷物を差し出した弟をぎゅうぎゅうと抱き締める。


「苦しい苦しい!伸、苦しいって!」


今生の別れでも無いだろうに兄は力一杯弟を抱き締めて頭を撫でる。
それでも気が済むとあっさりと彼を解放し、今度は征士に向いた。


「…………いや、私は……いい」


見事なまでに爽やかな笑みを浮かべながら両腕を広げる医師に、思わず征士の顔が強張った。
それを見て兄弟が同時に噴出す。


「するわけないじゃない、エロ河童相手にさ」


言いながら手を差し出し握手を交わすと、兄は颯爽と出国手続きをしに向かって行った。









「毛利先生に、何を渡したのだ?」


車のロックを解除しながら征士が聞くと、当麻から返ってきたのはシリーズ物の探偵小説のタイトルと酢昆布という答えだった。
それに征士も思わず笑ってしまう。
当麻が言った小説の方は、確かそのタイトルのみ上下巻に分かれていたはずだ。
ちゃんと上巻を買っているだろうが、それでも日本に戻るまで彼はその謎の真相を知る事が無いと思うと、
可哀想だと思いはしても笑うことを止められなかった。
笑いながら当麻の表情を見ると意地の悪い笑みを浮かべている。

解っててやったな。

そう思うとまた笑ってしまう。
笑ったことで、征士もその本について知っていると気付いた当麻に、


「共犯だからな」


と言われ、征士はいつものようにその形のいい額に口付けた。




*****
飛行機に乗ってから伸ちゃん、あー!ってなる。