azul -33-



玄関ドアの鍵を開け入ってきたのが兄の伸だと確認すると、当麻は嬉しそうにその手を引いてリビングのソファへと案内した。
テーブルの上にはノートパソコンが開かれている。


「………なに?」


その画面には、どう見ても海外の物としか思えないパッケージデザインの袋が映し出されていた。


「スウェーデン、行くんだろ?」


隣に座ってきた当麻の嬉しそうな声に、伸は隠しもせず溜息を吐いてやる。
文字は正直、何が書いてあるのか読めはしないが彼の態度で理解は出来たらしい。


「……コレ、買って来いって事ね」

「買って来い、じゃないってば。買ってきてくれたら嬉しいなーって」

「同じことじゃないか。…全くもぉ………コレは何、お菓子ってのは解るけど」


それも甘党の当麻が欲しがるのだから、当然甘いものだという事も伸にはよく解った。


「飴だよ、飴。キャンディー」

「へぇ。美味しいの?」


もし美味しいのなら職場の女の子たちへの土産にもいいかも知れない。
そう思って聞いてみると、弟は首を傾げて見せた。
欲しがっている割にイマイチなリアクションを返す彼に、伸も同じように首を傾げてみせる。


「…何味?」


食べた事がないから興味をそそられのだろうかと、今度は味の確認をして見た。
それなら当麻も解っていたらしく、首は傾げたままだがヘラっとした笑みが返って来る。


「ラクリス、とかいうの」

「ラクリス……」


思わず復唱。
どこかで聞いた気がする伸は、弟同様に首を傾げたまま視線だけをくるりと動かして天井を見てみる。

ラクリス。
さて、どこで聞いたか。
確か学生時代の友人の中で北欧に旅行に行った事のある者が居たはずだと思い出す。
その彼との会話で出てきたかも知れないその名をもう一度口の中で呟く。

ラクリス。

何か、どこかで。


「……ラクリス!?」


視線を当麻に戻し、首の角度も戻した伸は思わず大きな声を出した。


「そう、ラクリス」


兄の首の角度に合わせて弟の首も元の位置に戻る。
表情は相変わらず嬉しそうだが、伸の顔はちょっとイイ反応とは言い難い形相だ。


「ラクリスって…あれ、美味しくないんだよ!?」

「え、でも現地の人は大好きなお菓子だろ?美味しいんじゃねえの?」

「日本人の味覚と海外の味覚を一緒にしちゃ駄目だってば!!」

「大丈夫大丈夫、俺が欲しいのは飴だから」


友人が向こうで食べた物は黒い菓子で、あまりの甘さに口に入れてすぐに吐き出したというソレを弟は欲しがっていた。
いや、正確には彼の言うとおり飴なので多少は違いがあるのかもしれないが、それでもソレの味だと言えば大差があるとは思えない。


「飴って……ねぇ、当麻、本当にソレ欲しいの?」

「欲しいよ。だから買ってきて欲しいって言ってンじゃん」

「ソレ、ちゃんと全部食べる?」

「食べるって」

「…………罰ゲームとして人に食べさせたりしない?」

「しないしない。大丈夫だって」

「……なら、いいよ。解った」


元々当麻への土産には何かお菓子をと考えていた伸なので、他にも幾つか普通のものを買えばいいかと思い半ば諦めて承諾する。
因みに彼が渋ったのは、大事な弟に不味い物を食べさせたくないからだけではない。
余りにも味が酷かった場合、結構に悪戯が好きな彼が隙をついて食べさせてくるのではないかと危惧したからだ。
勿論、自分が食べさせられるのを避けたいだけで、その対象が征士や秀ならあまり止める気はないらしい。

伸の承諾を得た当麻は大層嬉しそうに笑みを浮かべて、ソファから立ち上がる。
そしてそのままキッチンに入っていって伸から姿が見えなくなると、代わりにコンロのスイッチを入れる音が聞こえてきた。
何かを作ってくれるのか、それか温かい飲み物でも入れてくれるようだ。
確かに最近は昼間は兎も角としても、朝晩が冷え込んできている。
遅い時間に立ち寄った兄の身体は少しばかり冷えていた。
その気遣いに伸は嬉しそうに、けれどどこか寂しそうな笑みを浮かべる。


当麻は最近、ずっとこうだ。
前までは仕事帰りに伸が訪問してきても、喉が渇いたと言っては冷蔵庫を開けるだけなのに、それでも兄を頼ったりしていた。
離れて暮らしている間にモノグサになってしまったのか、元からそういう性質だったのかは解らないが、
基本的に自分で何かをしようという気配はあまり見せなかった。
しかしここ数日前より何故かこうして気遣いを見せる。
それは恐らく先日山之内から聞かされた、自分の事を気遣ってくれている、という事の延長線なのだろうがそれでも突然の変化だ。

確かに去年の今頃の当麻と言えばまだ傷ついた体と心を抱えており、伸がずっと世話をしていた為に比較などできないが、
こういう行動を見せるようになったのは恐らく体調云々の問題だけではないだろうと伸は考えていた。

征士の存在だ。

彼があからさまに当麻を構うようになってから、随分と当麻は精神面でも安定を見せている事に伸は気付いていた。
以前はまだどこか力なく笑う事もあった当麻が元気になっていく様は伸にとっても嬉しかったが、それは同時にどこか寂しい感覚も伴った。
家族以外の者に慣れ親しんでいく弟を見るのは、兄として喜ぶべきだと解っていたとしても。

けれどこれは山之内も言っていたように、いい機会なのだろう。
あの時は何一ついいタイミングとは思えなかったが、当麻は少しずつでも自分で変えていこうとしている。
それを兄が引き止めてはいけない。
正に狙ったかのようなタイミングでの出張だ。
そう思うと、やはりあの元上司は只者ではないと感心してしまう。




「しーん、生姜って平気ー?」


考え事をしているとキッチンから声が聞こえてくる。
紅茶の匂いがしているので、恐らく生姜紅茶を準備してくれるのだろう。


「うん、平気だよー」

「ハチミツ入れるー?」


甘党の弟に任せるとどんな量を入れられるか解ったものではない。
流石にそこは幾ら弟が可愛いと言えど笑って見過ごすことなど出来ず、伸は自分でするから持って来いと伝えた。
すると少ししてから目の前に紅茶の入ったカップとハチミツの瓶が2つ置かれる。
先にハチミツを手に取った当麻が自分のカップにそれを入れているのを見て、伸はやはり彼に任せなくて正解だったと胸をなでおろした。


2人並んで紅茶を飲み、後は他愛のない話しをして、そして少しすると伸は当麻のマンションを後にした。
残された当麻はテーブルに置かれた空のカップをキッチンへ運び、洗う。
ソファに戻ると今度はパソコンの電源を落として、薬を飲んだ。




当麻自身、最近自分の調子がいい事は解っていた。
それが征士のお陰だという事も、そしてそれが征士だからこそだという事も。
自覚した時はかなり動揺してしまったが、やはり自分は征士の事が好きらしいと結論付けると、それはすんなりと受け入れる事が出来た。
だから自分が今後どうするべきかというのもすぐに決められた。

今は少しでも早く自分をあの事件の日より前の状態に戻すこと。
それが今の最優先事項だ。


当麻があの陽だまりの出来る位置で夜を過ごしたのは、あの日の1回だけだった。
理由なんて簡単だ。
そこで寝れば伸にしても征士にしても、心配をかけてしまう。
確かに幸せな気持ちになったし、冷静に自分の気持ちを考える事が出来たが、体だってやっぱり痛かったし。

それに其処は自分を甘えさせてしまうような気がした。
今はそんな場合ではない。
少しでも早く、戻る必要があった。

自分の体調が戻れば、兄は何の気兼ねもなく出張に行けるようになる筈だ。
今回の事だって随分と渋っていたのは最初に出張の決定を教えてくれた時の表情から解った。
大事な仕事をしているのに自分が足を引っ張るのは良くない。

それは征士についても同じだった。
彼が好きだと気付いた時にはどうしようもない気持ちになった。
だって相手は仕事として関わってくれている。
なのに自分はその優しさを勘違いしてしまっている。
胸が締め付けられるような苦しさがあり、いっその事全部捨てて逃げようかとも一瞬考えたが、それでは何の解決にもならない。
それに征士は最初に自分に言っていた。
関われないのは辛い、と。
それは仕事に対して真面目な征士だからこそ職務をまっとう出来ないが辛いのだろうと、当麻は考えていた。
ならば彼のためにも選ぶべき事は1つだ。

1日でも早く体調を戻し、彼を職務から開放してやるべきだと、そう考えていた。

それでも、休日や仕事の後に自分の元へ来てくれる事さえ彼の負担なのかも知れないと思うと、それは断るべきかと最初は思った。
だがそうするよりも、多少負担をかけてでも短期間で自分を戻した方がいいのかも知れない。
その方が征士を自分に縛り付ける時間を短縮できる。
そう思ったからこそ征士が来ることも、傍に居ることも拒む事はしなかった。

だが毎日の中で出来ることだってある。
今日のように、いつだって自分を気に掛けてくれている兄や征士に、自分ができるのは彼らの体調を気遣い、
少しでも労ってやることだ。
そういう余裕を持てるようになったのも征士のお陰なのだから、これ以上、どこまでも優しく真面目な彼の重荷になど当麻はなりたくなかった。


「事件ももうすぐ片が付きそうだし……人材育成だって相手はエリートなんだからチョチョっとやったらきっと大丈夫だろ…」


そしたら自分はお役御免で、悠々自適な生活に入るのだ。
好きな本を読み、調べたい事を調べて、好きなだけ眠る。
自分が引退したことを知って声をかけてくる友人もちらほらと出てきているから、研究職に身を置いてもいい。
征士と会う事はきっと極端に減るだろうけど、寂しい事なんてない。


「……あ、駄目だ。眠くなってきた……早くベッド行こ」


薬が効いてきたのか、思考がふわふわとしてくる。
この感覚は苦手だったが、今は仕方がない。
せめて征士と会う事がなくなっても、もう薬を飲む必要がない状態を保てるように努力しようと思いつつ、当麻は2階へ上がっていた。




*****
想いあっても擦れ違い。