azul -32-
病院を出た後、征士は珍しく少しばかり混乱していた。
突然の伸からの呼び出しは検死結果の報告でもなければ、救急で運ばれた患者に不審な点が見られたからでもない。
彼の溺愛する弟の、当麻のことだった。
また何か小言でも言われるのだろうかとある程度覚悟をしていた征士は、それでも仕事を終えた後素直に彼の元へ向かった。
真面目な性格というのも勿論あったが、それ以上に家族への心象は少しでも良い方がいいに決まっている。
それに結局征士だって伸の事が嫌いではなかった。
一時は苦手意識を持ったとは言え、その理由だって弟を思えばこその優しい兄の気遣いからだ。
それを知れば別段、態々彼を避ける必要なんてどこにもなかった。
まあ、それでも何か嫌味を言われたり小言を言われるのは歓迎できないので、多少げんなりとしていたのも事実だ。
しかしそこで彼を待っていたのは、これ以上弟に近付くなという話でも、エロ河童から何かに進化させられるという話でもなかった。
真摯な態度で征士を迎えた伸の、弟を頼む、という予想外の言葉だった。
聞けば来週には彼はスウェーデンへ旅立つというのだ。
たった1週間のそれは他人からすれば大袈裟な話にしか見えないだろうが、それでも当麻の現状を考えれば納得のいく頼みだった。
当麻が意識を失ってからまだそう日は経っておらず、未だに夜には薬を欠かさない彼が、
突然の兄の不在という常に無い状況に置かれた時に万が一という心配は、詳細を聞いた征士もすぐに抱いた。
アメリカで彼の身に起こった事件の後からずっと傍にいた伸が居ない、というのがどう影響を及ぼすかなんて誰にも解らない。
もし本当に何かあって、それがまた別の心の傷となってしまえばそれは当麻も、そして伸をも苦しめる。
それが解っていたから征士は、安心して旅立つよう誠心誠意を持って伸に答えた。
出発の朝は自分が車で送る、とも付け足して。
ブラコンでもある伸が、1週間も弟の顔を見れないというのは相当のダメージだというのは容易に想像できたためだ。
だからその日の朝は征士はまず当麻を連れて伸の元へ行き、そのまま空港まで送って見送りもしてくれると言う。
彼なりの優しさは伸にも伝わったらしく、素直にその好意を受け入れてくれた。
それも微笑み付きで。
当麻の事で警戒されて以来、彼の穏やかな笑みを見るのは本当に久々だった。
不敵な笑みか、それか顔を歪めての悪態しか見なかった最近では気付かなかったが、笑った時の目の細め方など弟とどこか似ており、
彼らが兄弟であることを改めて思い知らされた征士だった。
そしてその当麻の事といえば、少しばかり気になる事があった。
拒絶のあった翌朝、いつものように彼を起こしに部屋へ足を踏み入れると、そこにいたのは何とベッドではなく床で眠る当麻の姿だった。
それもご丁寧に上掛けやブランケットを持ち込んでまで寝ているのだから、ついうっかり、というレベルでないのはすぐに解る。
何か、そう、ベッドで眠る事に抵抗を覚えるような事があったのかと不安になり問いただしたが、
寝起きの彼から返ってきたのは、何となく、という答えと、相変わらずのへにゃっとした笑みだった。
意外に鋭いところのある上司が自分の気持ちに気付き、まさか当麻に何か吹き込んだのではなかろうか。
そういう不安が征士の頭を過ぎった。
もしその気持ちを知ったが為の拒絶だったら、そのせいでベッドに対して恐怖を抱いたのなら。
そう思うと遣る瀬無い気持ちになったが、どうもそうではないらしい。
その証拠に結局当麻はあれからも相変わらず征士の手を拒む事はなかったし、今までどおりに素直に甘えてくれた。
結局何が原因だったのかは何も答えてはくれないが、一時の事であるならと征士も気にしなくなっていた。
それにアレ以来、当麻が何故か自分の身体を気遣ってくれるようになったのだ。
仕事で疲れていないか、ちゃんと休めているか、など。
今までは甘えるだけだった当麻が、どういうわけか知らないが彼なりに自分を甘やかしてくれている。
それはまるで対等な、いやそれ以上に甘えあうことを許された関係のようで征士は素直にそれを喜んだ。
想いは未だ言葉にして告げていないが、まるで恋人同士のようなその遣り取り。
今ならはっきりと言葉で伝えても受け入れてもらえるのではないかと思う事もあったが、もう少し確実に当麻の心に入り込みたい征士は、
それは未だに心にしまっておいた。
実は征士は自分から人を好きになった事が無いのだ。
昔からモテた彼は自分から言い寄らずとも相手から思いを告げられるのが常だった。
女性に苦手意識はあれどそれに応える事も偶にはあった。
が、 結局時間を重ねても相手との思いの強さに差だけを感じ、最後には別れを選んでしまう。
だから征士は自分の事を淡白な人間だと思っていた。
思春期にはそれなりの性欲もあったがそれだってすぐに飽きてしまったし、相手への興味だって凪の状態が続くばかりでは仕方も無かった。
ところが今はどうだろう。
ただ触れるという事以上に意味を見出せなかったスキンシップだって今ではそれだけでも十分幸せで、
時には衝動的になりそうになる己を抑えなければならない事もある。
それ程までの情欲が自分にあるというのにも驚いたが、だからこそもう少しこの時間を楽しんでいたい。
実を言うと自分から思いを告げたことの無い征士はどう言えばいいのかも、告げるタイミングも解らなかった。
ついでに言うと、もしも断られたらと思うと踏み出せない、そんな臆病になる面もあった。
しかしチャンスがあれば、とも思わないでもなかった。
だが同時に、そのチャンスはきっとそう簡単に訪れないであろう事も解っていた。
何故なら、強烈なブラコンの兄が常に弟の傍で目を光らせているのだ。
普段から何かをするにつけ自分をエロ河童呼ばわりし、弟にそれを吹き込んでいる兄がいる。
本当なら仕事帰りに当麻の元へ行くのだって毎日そうしたかったが、偶に伸も同じように寄っていると聞くとそれは断念せざるを得ない。
まるで間男のようで情けない気もするが、下手に鉢合わせて兄の警戒心を無駄に煽る様な事はしたくなかった。
それに何よりそうする事で、それを面倒だと当麻に思われてしまっては元も子もない。
こういう面でも征士の意外なまでの臆病な面は顔を出していた。
そんな征士に降って湧いた、またとないチャンス。
いや、チャンスと言ってしまっては折角信頼してくれた兄に申し訳ない。
しかしそれでも。
征士は己の車に戻っても暫くは発進せず、運転席に座ったまま呆然としていた。
彼の人生は傍から見れば恵まれているとしか思えない。
人より優秀な頭脳に、均整の取れた体躯。
先祖に異国の血でも入っているのかと思わせる美しいまでの金髪に、紫の目。
それに負けない整った顔に加え、声までいい。
ついでに一家全員揃って美貌の持ち主で、美しい姉と可愛らしい妹を持ち、その上名家の出とくれば、
誰だって彼を恵まれただの運がいいだのと羨んだだろう。
しかし実際、そこまで運がいいと征士は思った事がなかった。
頭がいいと言われたがそれは真面目な性格ゆえ、勉学においては予習復習をきちんとしていただけだし、
身体だって幼少期から剣道を嗜み今も鍛錬を続けている結果だ。
人目を惹く容姿だってそのせいで煩わしい思いをした事だって多々ある。
声についてはどうとも言えないが、声の善し悪しなど特に思った事のない征士には何の価値もない。
美貌の一家と言われるが実際の姉妹の所業、仕打ちは中々に酷く、結果として女性嫌いではないが苦手意識は消えない。
家柄についてだって名家となると親戚関係での揉め事だってなくはないので、その面倒さを知れば
自分の状況を恵まれている、と一言に言う事などできないと征士は思っていた。
それに運がいいというのなら、福引くらい当たってもいいはずだ。
そう、征士は今まで一度も当たった事がなかった。
こうなると寧ろ、運が悪いのでは、とさえ思うほどだった。
そんな征士に降って湧いた、またとないチャンス。
ハンドルにかけていた自分の手を思わず見てしまった。
小さく震えているその様がおかしくて1人笑ってしまう。
これは、チャンス、かも知れない。
けれど素直にそうも喜んでいられない。
今日の伸の表情からして相当に悩んだはずだ。
弟の傍を離れるだけでも不安なのに、それをエロ河童と言って警戒している相手に頼むしかなくなったのだから当然だろう。
そんな伸の信頼を裏切るわけにはいかない。
それに当麻は性被害に遭っている身だ。
これをチャンスと捉えて先走ってしまえば、彼を余計に傷付ける可能性だってある。
だから征士は、逸るな、と己に言い聞かせた。
これはチャンスかも知れない。
実際、そうだろう。
だけど焦ってはいけない。
ゆっくり、じっくり、冷静になる必要がある。
もう分別のある大人なのだ、それを弁えるべきだ。
しかしそれでも心臓はばくばくと音を鳴らし、珍しく頬に血が上る。
冷静になれという自分と、チャンスを素直に喜ぶ自分。
激しい葛藤に、征士は珍しく混乱していた。
ので、取敢えず当麻にこれから寄ってもいいかと確認のメールを入れる事にした。
会って触れて、あわよくば抱き締めて、心を落ち着けようと思ったのだ。
結局自分は伸の言うとおりエロ河童なのかも知れない、と頭の片隅で思いはしたが、それを止めようとは思わなかった。
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エロ河童に追い風。