azul -31-
「用事は無事に済ませられたか?
何事も無く家に帰れたか?
また何処かへ美味しいものでも食べに行こう
では、何かあれば連絡をくれ」
夜になり征士から送られてきたのは、彼らしい飾らない文体のメールだった。
それを確認してまた落ち着かない気持ちになった当麻は、ちゃんと帰った、とだけ返してすぐに浴室に逃げ込んだ。
今、電話なんてされたら自分が何を言ってしまうか解らないのが怖かった。
シャワーだけで済ませるにはそろそろ心もとない気温になりつつあるが、わざわざ浴槽に湯を張る文化の無い土地での生活が長く、
加えて元より長湯をしないタイプの当麻だったが、今日ばかりはそうもいかなかった。
もし早くに風呂を出て着信音なんて聞いてしまったら。
その着信の相手が征士だったら。
ましてや出ようとして寸前で切れてしまったら。
掛けなおすのだろうか。
話すのだろうか。
…何を?
そんな事を考えるだけで、何故か怖くなる。
怖い、というのは適切な表現ではないかもしれなかったが、今まで感じたことの無い感情は只管に当麻を混乱させ続けた。
それでもいつまでも風呂に入っては逆上せてしまう。
何とか自分の心に折り合いをつけて風呂から上がると、なるべく携帯を視界に入れないように冷蔵庫まで移動して、
ミネラルウォーターを取り出す。
熱の篭った身体に冷たい水をいきなり入れるのは良くないと伸に言われているが、今はそれが心地いいのだから仕方ない。
水分を取って適当に髪を拭いて。
さて漸く落ち着いてきたぞというタイミングで、携帯が無機質な電子音を響かせた。
「…………誰だよ…」
面倒臭そうにナゲヤリに呟きはしたが、その顔は明らかに狼狽えている。
ソファに投げ出した携帯に手を伸ばしディスプレイを確認すると、一気に肩の力が抜けた。
「………なに、母さん」
「ヤッホー、当麻くん、元気ー?」
「元気だよ。てか、なに」
「やだ!ママが電話かけてあげたのに冷たい!」
電話の向こうは昼間なのだろう。
母の声に混じり賑わいを見せる物音が聞こえる。
「ゴメンって。で、なに?」
「謝ってるのに態度を改めてない!っもー、当麻くん冷たいとママ悲しーじゃない!」
「ハイハイハイハイ、ゴメンナサイ。愛してるから、なに?」
「もー、この子ッたら…!あのねー、前に言ってた女優さんの写真なんだけどね」
「女優の写真?」
「ハリウッドの!忘れちゃったの?」
「あー、言ってたなぁ…どうしたの?」
「撮ったけど、何かそっちよりもっとイイの見つけちゃってね」
「へぇ」
「まだまだ駆け出しの子なんだけど、スッゴイ美形なの!絶対当麻くんはコッチの方が好きだと思ったから、そっち送るね!」
「あー……え、アリガトウって言うトコなのか?」
「うん!」
「あぁ、じゃあ、アリガト」
「んふふー、どういたしまして。………って、当麻くん、何かあったの?」
いきなりの母の言葉にドキリとする。
何か無くはないが何かはあるような気がしてなくも、ない。
けれど平静を装って。
「何もないよ。何で?」
「何もなくないでしょ。ママに隠し事なんて無駄なんだから。…話せないこと?」
「いや……」
話せないかどうかさえ解らない事だ。
自分の中で何一つ整理できていない事など、どう話していいのかさえも解らない。
「うーん……眠い、からかな?」
「え、眠いの?まだ昼よ?」
「それは母さんトコだろ!?日本は今何時だと思ってんだよ!」
「さー?計算するの面倒臭いから当麻くん、考えてね」
「考えるも何も俺は時計を見たら済むんだけど」
「そっか」
「そーだよ。まったく………………母さん、あの、さ…」
深呼吸をする。
もしやと思い当たる事が1つだけ、思い浮かんだ。
「なあに?」
「母さんって……父さんのこと、……その、好き、だよな?」
「当たり前じゃないの!大きな声では言えないけれど、声を大にして言い切れるわよ?」
ハッキリと物を言うのは昔からだ。
何も変わらない母に少し笑みを零してしまった。
「何笑ってるのよ!嘘じゃないんだからネ!」
「ゴメンゴメン、そういう意味で笑ったんじゃないって」
「ならヨシ。………どうしたの、急にそんな事言い出………っあ!さては当麻くん、好きな子できたのね!?」
「違う違う!違うったら!!!!!」
「全力で否定するなんて怪しいわねー」
「ホント、違うって……違うから」
多分、違うと思う。
いや違って欲しい、という願いを込めて。
だってそれではあまりに辛すぎる。
「たださ、その……どんな気持ちなのかなーって」
「あら?誰かから好かれたの?」
「そーゆーんでもナイけど……時間がありすぎて色々考えちゃうだけ」
「そ。…そうねぇ………好きって思うだけで、幸せ、ね」
「しあわせ…」
「そう、幸せ。パパに偶に会うでしょ?もうね、幸せの大洪水でもうなーんにも考えられない。で、お別れする時が辛くて辛くて堪らないかな」
仲の良かった両親は今や偶然を装わなければ会えない状況にある。
原因は、自分だ。
それは自分のせいではないと幾ら言われても、当麻にはそう思えなかった。
自分が友達と離れたくないと言ったせいで両親が離れ離れだ。
これが自分のせいでないなら一体何のせいだと言うのか。
「……ごめんな…」
「?どうして?」
「父さんに、会いたいよなって」
電話の向こうで相手が溜息を吐くのが聞こえた。
これが伸ならば決して聞かせまいとする配慮が見えるが、全て明け透けの母はそんな事はしない。
「当麻くん、あのね。ママはパパが大好きだけどね、同じくらい当麻くんも、伸ちゃんも好きなの。
その大好きな人たちの、誰か一人が悲しい思いをして他が幸せになるなんて、ママはイヤ。
だったら皆がそれぞれに少しずつだけ我慢をして、それで皆同じくらいに幸せになるほうが何万倍もイイと思ってるの。
だから当麻くん、そんな風に言わないで。ママ、それだけで悲しくなるから」
「……うん、…ごめん」
「謝らない。こういう時、どう言うのがいいか何回も教えたでしょー?」
「…うん。……ありがと」
「ヨシ。それでこそパパとママの子で伸ちゃんの弟だわ」
明るく、無理のない母の声に当麻も笑ってしまう。
いつだって母は、大雑把で明け透けで素直で、そして優しかった。
「兎に角ね、好きって幸せなの」
「そっか」
なら、自分のコレは違うだろう。
だってこんなに苦しい思いをしているのだから。
そう思うと何故だか寂しい気もするが、心の平穏は取り戻せそうだった。
「でもね、好き過ぎて悲しくなる事や辛くなる事もあるのよねー」
「………へ?」
「一言で好きって言うけど、幸せだし寂しいし悲しいし辛いしでも気持ちいいし……色々混ざってる感じかなぁ?
相手が自分から離れるのが怖くて堪らないし、くっついててもそれだけじゃ満足できないし、だけど手を繋ぐだけで満たされたり…
自分が何してるのかさえ解らなくなるくらい、混乱しちゃう事だってあるの。
って、当麻くんもいい加減、恋くらいしないと…今幾つだっけー?大人になれないわよー?」
最後のほうの母の声は明らかにからかいを含んでいたが、当麻には繋げるべき言葉が見つからなかった。
そのまま曖昧な返事しか返さない息子に母は、何よー眠いのー?と言って二言三言続けると電話を切った。
既に何も言わなくなった携帯をソファに落として、そのまま当麻は呆然としてしまった。
征士が自分から離れてしまうのは、確かに辛い。
いつだって握っている手を離される瞬間が、嫌だ。
宥めるように額に口付けられると、幸せな気持ちになる。
優しい目で見られるとどうしていいのかいつだって、迷ってしまう。
ああ、もしかして。
いや、きっと。
どうしよう。
どうしよう。
どうしたら、いい?
「俺…………征士のこと、……好き……かも」
改めて声に出すと、一気に体温が上がったのが自分でも解った。
きっと鏡ででも見てみれば顔なんて真っ赤なのかも知れない。
「ヤメだヤメ!考えるの、ヤメた!寝るぞ!眠いとロクな事考えやしねー!」
必死に自分を言い聞かせて2階へ上がる。
食道楽着道楽ならぬ、寝道楽の当麻のベッドは随分と拘って選んだものだ。
大きさも1人で寝るには充分な事は当たり前、寝心地なんて本当に最高だった。
そういう物を選んだのだ。
寝るのが怖くないように、選んだのだ。
なのに、今日は何故かそのベッドを見てもちっとも幸せな気持ちになんてなれない。
いつもならそのベッドに飛び込むだけで大概の時はすぐに眠れるのに、寝付けない。
「……………」
それどころか、昼間には日当たりのいい、フローリングのあの場所の方が何倍も魅力的に思えてくる。
征士と並んで眠った、あの場所。
そこで寝るのはどう考えたって賢い選択ではないのは百も承知だったが、誘惑には勝てない。
ズルズルと上掛けとブランケットを引き摺って2階から降り、ソファにおいてあるクッションを床に放り投げて、
昼と違い日の差さないその場所に渋面を作って身体を横たえる。
ベッドと違って明らかに硬く冷たい、そこ。
けれどとても幸せな気持ちにさせてくれる、そこ。
幸せな気持ちなのに、泣きそうになるのは何故だろうか。
泣きたい気持ちなのに、幸せなのは何故だろうか。
やっぱり、 なのだろうか。
ぐるぐると色んな感情が体中を回っていたが、結局心地よさがすぐに訪れて当麻はその場所でそのまま眠りに就いた。
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成人目の前にしての、初恋。