azul -3-
秀が当麻の住むマンションのエントランスに入ると、ちょうど征士がエレベーター前に居るのが見えた。
「おはようございます、伊達さん」
大きめの声で呼びかけると、相手はゆったりと振り返り軽く頭を下げて応えた。
本来なら伊達警部と呼ぶべきところだが、大らかで人懐っこい性格の秀にはその堅苦しい呼び方に馴染みきれず、
特別に本人から階級で呼ばなくていいと許可を得た今ではスッカリ”伊達さん”呼びだ。
「今朝は毛利さん、来ないんすかね」
扉の開いたエレベーターに乗り込みながら何となく話題を振る。
「彼は急患が運ばれてその手術に呼び出されたらしい」
別段気分を害した風もなく征士は応えた。
何のかんのと言っていてもお互いに連絡は取り合っているのだろうか。
秀の知らない情報を征士は何故か知っていた。
「へぇ…若いのに大変っすね。いや、期待されてるからこそってヤツっすか。スゲーなぁ……ご立派な人だなー」
「……そうだな」
なのに何故かここで征士が端正な顔を歪める。
「……………何ですか、その、間」
「…当麻も電話で同じ事を言っていた」
そこでかよ!そんな事くらいで嫌そうな顔すんなや!
つーかその情報も、当麻からかよ!!
直接連絡取れや!間に未成年を挟むなや!!!
と思っても相手は年上でエリート。”さん”付けで呼ぶ事を許可されても、それは流石に言えるはずもないので秀は口を閉ざした。
鍵は預かっているので呼び鈴を鳴らすことなくドアを開け、玄関で靴を脱ぎながら家の主の名を呼んでみる。
返事は、……ない。
起きていれば必ず返事だけはする彼だ。まだ寝ているのだろうか。
…いや、そんなハズはない。
呼び出しがあった為に伸が今朝は来ないことを征士に告げたのは他の誰でもない、当麻自身だ。
なら何故今、返事がないのか。
2人の表情に僅かな緊張感が走る。
その時だった。
奥のほうでガタガタと大きな物音がした。
先に征士が走り、その後ろを秀が追う。
「当麻…っ!」
ほぼ同時に叫んで廊下からリビングへ抜ける。
当麻のマンションはメゾネットタイプで、リビングにその2階にあがる為の螺旋階段がある。
その階段の下に倒れている青い髪と手が見えた。
「当麻!」
慌てて駆け寄る。
征士が抱き起こすと苦悶の表情を浮かべながら、当麻が僅かに身じろいだ。
頭を打っている可能性があるのでなるべく揺らさないようにしながら、目に付く場所から傷の検分を始める。
その間に秀は2階へ駆け上がり誰かが潜んでいないか調べにかかった。
「2階に異常ナシ!」
秀の声に漸く当麻が目を開け、何かを必死に伝えようとする。
その口元に征士は耳を近づけて聞き取ると。
「…………だ、誰も…いねぇって……」
だから大丈夫、と言って征士に困ったように笑いかけた。
「…匍匐前身……って何でまたお前…」
階段下に落ちていた理由を聞いてみれば、当麻は匍匐前身をしていたと応えた。
頭にはアイスノンが乗っている。
派手な外傷はないし頭も少しコブが出来た程度なので問題はないだろうが、検査をした方がいいかも知れないと
征士は言ったが、当の本人が朝食を優先したがったため未だに場所は家の中である。
「何で朝からお前、そんな奇妙な真似してんだよ」
天才ってマジ意味わかんねぇ、と笑いながら続ける秀に、当麻は至って真面目な顔で見返す。
「だってお前、俺だってどうなるか解ったもんじゃないんだぞ。いつ歩けなくなるか解らないから、それでも生活できるか試してたんだよ」
「だからってお前…」
「ベッドからは降りれるんだけど、やっぱりネックはこの階段だよなぁ…練習あるのみ、かな?」
どこから何を言えばいいのか秀には解らない。
「大丈夫だ、当麻。そうなれば私がお前を抱えて降りてやろう」
「そう?アリガト」
ソコは引っ越せよ、と言うべきだという事だけは秀には解った。
(でも呆れ果てている間に言いそびれてしまった)
征士は朝食と一緒に幾つかのファイルを当麻に手渡した。
以前、当麻にはこの事件の事を纏めた書類と彼が参加してからの現場の資料は手渡していたが、
もっと細かく記されたものが欲しい、と言われたためだ。
前回向かった現場は、模倣犯によるものだった。
そこで今までも警察側で元の事件と同一犯として処理された中にも模倣されたものが混じっている可能性を当麻は見ていた。
まだ無駄が多い、と言うのだ。
勿論それまでの捜査でも徹底して状況は洗っていたし、まだあまり馴染んではいないがプロファイルだってしている。
それでもやはり当麻には納得が出来ない箇所がいくつかあった。
もっと削ぎ落として必要なものだけを浮き彫りに出来るはずだ、と言う。
だから征士に、纏めたものではなく有りの侭の状況を見せて欲しいと頼んでいた。
先程の匍匐前身のこともそうだが、こういう当麻を秀は知らない。
小学校の時に見ていた彼はどこか希薄で大人しい、それでも勉強や運動は出来た所謂”優等生”のイメージだった。
悪がきばかりだった自分の周囲には珍しすぎるタイプだったし、それだけに密かに女子の間で人気があったのも覚えている。
こういう彼を見るにつけ、渡った先で飛び級を使い早々に大学を卒業し、そしてFBIにいたという事を思い知り妙に居心地が悪くなる。
だけど同時に笑ったときの顔だけは相変わらずなので安心する。
用事を済ませると公僕でもある2人はそれぞれの勤務先へ出向かなければならない。
何かあればすぐ電話をするように、と征士は当麻に告げて玄関を出た。
そしてまた2人だけでエレベーターに乗り込む。
いくら陽気な秀とは言え、沈黙が嫌いなわけではない。
ただやはり征士のようにどこか取っ付き難いタイプの人間と密室に2人で黙っているというのが、少し苦手なのだ。
なので。
「…あのー…さっきの話なんすけど…」
「何だ」
「あの、当麻の…その階段、っすけどもね………足、悪くしたら階段のネェ部屋に引越しゃいいんじゃないかなって」
ちょっと冗談めかして言ってみる。
しかし征士の表情は硬いものになり、そして秀の方に鋭い視線を返した。
「ここでする話ではないな。……お前、ここには歩いてきていると言ったな。署まで私の車で送ろう」
つまり、そこで話す、という事。
つまり、人に聞かせるべきではない、という事。
征士の車に乗り込むまでの間、秀は妙に緊張をし続けた。
軽く言ったつもりのことなのに、何故か彼の中の何かを刺激してしまったのかもしれない。
何を言い出すのか、何を言われるのか、嫌な汗だけが背中を流れた。
征士の車の助手席に座ると、なるべく運転席を見ないように前だけをみてシートベルトを締める。
車がゆっくりと走り出した。
「秀、お前はこの春に高校を卒業して警察に入ったんだったな」
何の前振りもなく突然話しかけられて秀は飛び上がりそうに驚いたが、なるべく征士を刺激しないように応える。
「あ、はい。そ、そう…です」
「そして当麻とは小学校時代にクラスメイトだったと」
「3ヶ月ほどだけですけど…」
「ならば歳は同じだな」
「…はい」
「つまり、そういう事だ」
………ワケが解らない。
自分と当麻が同い年だと、征士は当麻を抱えて階段を降りてやるものだろうか。
ならばソレは自分も同じなのだろうか。
要領を得ない秀を、空気で読み取ったのか征士は溜息を点いてから話を続けた。
「秀、今回何故、警察は当麻に協力を要請したか解っているな」
「そりゃ…その、猟奇殺人の件、でしょ?」
それくらい秀にだって解っている。
馬鹿と言われるが警察になれる程度には頭だってあるのだ。
「ならばその概要を把握しているな?」
「モチロンっすよ!」
「被害者は」
「……へ?」
「被害者の共通点だ」
征士は前を向いたままだ。
「恐らく当麻は深く考えて行動をしたワケではないだろうが、彼が歩けなくなるという状況になる理由は幾つか考えられる。
事故、病気、そして”事件の被害者”。それはいつ何時どういった状況でなるか予測がつかない。
今回の事件だが、被害者の共通点。彼らはみな10代だ」
「…ですね」
「そして男女問わず。解るか?」
「はい…」
つまり。
「お前と同い年という事は、当麻だって10代だ。そして毛利先生の言うとおり”民間人”でもある。
そんな当麻が警察と行動を共にしていれば嫌でも目立つし、もしかしたら犯人の目に止まる事だって考えられる。
警察に関わっている以上、犯人からすれば見つければ他の誰より早々に手にかけてしまいたい対象でもある」
「…あ…………」
「無論、事故も病気もいい事ではないが、我々が巻き込んだ彼を被害者にさせるような事があってはならない。
彼自身がそんな事を考えているとは性格上思えないが、それでもその無意識の懸念を軽くする必要がある」
「はい」
「その場しのぎの冗談でもいい、彼の気を楽にしてやるのも私は自分の仕事の一つだと思っている」
「じゃ、じゃあなるべく毎日行くのも、ですか…?」
当然だ、とハンドルを握ったままで答えが返って来た。
「万が一犯人に当麻の存在が見つかってしまっても、不定期とは言え警察が常に傍に居ては手を出しにくいだろうからな」
だからお前もプライベートを犠牲にしろとは言わないから可能な限り彼の傍にいろ、と続けられる。
その言葉に秀は感銘を受けていた。
噂で聞いていた伊達征士という人間はひどく堅物のように思えていたのに、実際の彼は最近の頭痛の種でしかなかった。
伸と共に大人気ない言いあいを繰り広げ、同性の友人相手にクソが付くほど丁寧に接する。
誰にも靡いていないと聞いていたがもしかしてソチラの趣味だったのかと正直、最近は疑ってさえいたのだ。
けれど違った。
寧ろ噂どおりの人間だった。
最初の頃に毛利伸に言われた民間人を巻き込むなという言葉を、彼はその場合どう対処するかという所まで考えていたのだ。
今は民間人である当麻を頼らざるを得なくなった時、恐らく既に征士の中である程度自分のすべき事は決まっていたのだろう。
そして堅物だと思っていたが、どうやら階段の件も冗談だったと知り、どこか安心をする。
彼も普通の人間だったのだと。
秀が征士の評価を改めていると、何かに気付いた征士がある場所で駐車場に入っていく。
見ると本屋だ。
不思議に思っていると征士が少しだけ出てくる、と言い残してその本屋に消えた。
そして5分と経たずに袋を片手に戻ってきた。
薄い袋越しに透けて見える 『決定版!東京23区スイーツ名店!!』 という雑誌の文字。
「………………………」
どう贔屓目に見ても当麻のための下調べとしか思えないその雑誌に、秀はもう一度征士への評価を考え直し始めていた。
*****
伊達警部は職権濫用なんてしませんもの。