azul -29-



いつものように病室を回り終えた伸が、少し休憩を、とお茶を入れた時、上司から呼ばれた。
話があるので自分の部屋に来い、という。

伸は首を傾げた。

特に何か連絡すべき事はなかったし、時期的にも考え付くこともない。
ミスをしたかと思ったが先程の上司の表情はそんな顔ではなかった。
では、何だろうか。

取敢えず、入れたお茶を飲み干してから、上司の待つ部屋へと足を踏み入れた。



「やぁ、毛利君、待っていたよ」


ニコニコとした上司がいる。
何だろうかこの上機嫌は…と何故か伸は嫌な予感がした。
こういう時の自分の勘はよく当たるのだと思い出し、背中に、つ、と汗が一筋流れた。


「何でしょうか」


表面上はあくまで冷静に。
征士に対しては随分と態度の変わった伸だったが、他の人間に対しては以前と何ら変わりはない。
いつも通りの穏やかな毛利伸でしかなかった。


「何、じゃないよ。よく決めてくれた!」

「……はぁ」


何の事だろうか。
いや、今し方この目の前の人物は「決めた」と言ったなと伸は思わず手を握り締めてしまう。

まさか。
もしかして。
そんな馬鹿な。
いや、何故。

脳裏に様々な言葉が高速で飛び交った。

満面の笑みの上司は言葉を発そうとしている。
それを伸はありったけの願いを込めて、言うな言うな時間よ止まれいや本気で!と願ったが、それは当然無理で、
上司は本当に嬉しそうに、若干もったいぶって言った。


「際まで待った甲斐があったよ!よくぞスウェーデンに行ってくれると決心してくれた!再来週から1週間、よろしく頼むよ!」




やっぱりか…っ!!!!!!!!!!!!!!!!

表情を一切崩さずにいたのは流石としか言いようがない。
いや、固まっていて変化の仕様がなかったのかもしれない。

この時の伸の頭は、それは見事なまでに真っ白だった。






「失礼します!山之内先生いらっしゃいますか!?」


上司の部屋を丁寧な態度で出た瞬間、伸は一目散に内科の詰所へと駆け込んだ。

元上司でもある男の姿を探すが、どこにも見当たらない。
常にない剣幕の伸に、その場に居合わせた医師と看護婦数名が驚いていたが、そんなもの構っている暇などない。
兎に角、あの男を探し出して説明をして貰わないと気が済まない。


「…あの、山之内先生なら、多分、屋上かな…と………」


最近入ったばかりの看護士が恐る恐る告げてくれる。
それに精一杯の笑みを取り繕って礼を言うと、伸はまた駆け出した。
彼が出て行った部屋は、その伸の笑顔でものの見事に凍り付いていた。
伸は一生懸命愛想のいい笑みを浮かべたつもりだったが、その顔は完璧に引き攣っており、
下手に口を出せば彼の怒りを引き出しかねないほどに恐ろしい表情だったのだ。





「山之内先生!説明してもらいましょうかぁ!!!!!」


屋上のドアを開けると同時に怒鳴り込んでやると、そんな事は予測していたような雰囲気の彼は、
ドアを背を向け地べたに座り込んで煙草を吸っていた。


「案外早かったな」

「早かったとか遅かったとか、今はどーでもいいです!それより何ですか!」

「何がだ」

「何で僕がスウェーデンに行かなきゃならないんですか!!」

「お前に来ていた話だからお前が行くのは当然だろう」

「誰がいつ、行くといいましたか!?」

「ワシが昨日、お前が行くと答えておいた」

「何で!?」

「返事はワシからすると約束していたからなぁ」

「そーでなくて!」


糠に釘、暖簾に腕押し。
怒る伸など見向きもせずに飄々と山之内は答えた。
それが自分の怒りに拍車をかけると知ってやっているだろう事も、それを面白がっているという事も伸も解っていたが、
だからと言ってこの怒りが収まるわけなどない。


「僕、今は行く気がないって言いましたよね!?」

「お前側の問題で、と言ってな」


そこまで覚えておきながら、何故勝手に1週間も放り出すのだろうか。
信頼していたのにとんでもない仕打ちである。
怒りに頬を引き攣らせ、更に怒鳴ろうとすると遂に山之内が振り返り、その冷たいといわれる目で伸をしっかりと見据えた。
表情に乏しいといわれるが、目に力がないわけではない。
歳若い伸を黙らせるくらい彼には造作ないことだった。


「タイミングとしては今しかないと思うぞ」


声に怒りは見えない。
ただ静かに、諭すような気配だけがあった。


「……何の、ですか」

「人間不信を治すタイミングに決まっておるだろう」


人間不信。
幼少期から様々な面で裏切られ続けた当麻は、確かに人間不信だろう。
それはいずれ治さなければならないと判ってはいるが、けれど今がそのタイミングとして適切とは伸には到底思えなかった。

当麻が意識を失ったのはそんな過去の話ではないし、だいぶ落ち着いたとは言え未だに薬を飲んでいる状態だ。
そんな彼を置いて国外へ行くというのは、病気の人間を雪山や砂漠に一人取り残すに等しい。
またいつ発作が起きるか解らない中、唯一傍にいる兄の自分が弟を見捨てられる筈がない。
たとえそれが1週間だけの話といわれても、その間に何かあっては堪ったものではない。


「当麻に何かあったら僕は」

「だからそれだ」

「”それ”とは…」

「お前、勘違いしておるな。ワシが言っておるのはお前の弟の、ではない」

「………は?」

「人間不信を治すのは、お前だ」

「……ぼ、く?」

「そう、お前だ」


伸は思い切り面食らった。
弟離れをしろとか、ブラコンを治せと言われるのならまだ解る。
しかし人間不信とはどういう事だろうか。


「あの、僕、別に人間不信ではないと…思いますけど……」

「自己判断であろう。いいか、お前は日本を離れられんのではなく、弟の傍から離れられんというのは自分でも解っているな?
それは何故だ?単に子供の頃に離れた弟が不憫でならんのではない。お前自身が、弟を他に預けることが出来んだけだ」

「あんな事があったんです、当たり前でしょう?」

「当たり前ではない。交友関係に全く問題はないお前だが、唯一の欠点だ。お前自身、人を心から信頼しようとせん。
…確かにお前の弟は子供の頃から少々特殊な環境にありすぎて、人を信用したり信頼したりと言う事の加減が解らんのだろう。
だがお前自身も、思春期にそういう弟や家族を目の当たりにして充分に傷ついてきた筈だ。だから警戒心が強いのも解る。
………しかしこのままでどうする?お前自身が一度思いきって家族以外の誰かを信用せんと、お前も弟も何も変わらんぞ」

「……………山之内先生の事は信頼してますよ」

「それはワシがお前の父の友人であり、お前の元上司だからだ。それ以外の人間で、探せ」

「…………」


言われて一瞬、頭に浮いたのは征士の顔だった。
つられて思わず顔が歪む。


「おるのだな」

「何で今の間でそう思えるんですか」

「お前が愛想のいい顔ではなく、人間臭い顔をしたからだ」


全力で否定したいが、この男に言われると案外そうなのかも知れないと思えてくるから性質が悪い。

自分に人を信用しない節があるのは解っていたことだ。
しかし警戒心を持つことは悪い事ではないはずだ。
人間、全てを信じて投げ打ってしまうとロクな目に遭わない。
そうする事の出来る人間を馬鹿だとは言わないが、自分には必要がないと思って此処まで来た。
何故なら自分には守るべきものがある。
国境なき医師団に参加した父と、海外でジャーナリストとして働く母の離婚理由を今でも周囲に悟らせてはいけない。
今は母方の姓を名乗る弟の旧姓を、彼の知能を、過去を人目に晒すわけにはいかない。
人の口程信用のならないものはない。
ならば自分が貝になり、何も話さなければいい。
誰にも気付かせなければいい。
そう思うからこそ、自分のプライベートに関しては基本的に他人を踏み込ませないようにしていた。
愛想のいい笑いをして、当たり障りのない事をサラっと答え、そして真面目に仕事をしていれば誰も下らない詮索など一切してこない。
だからこそ、だった。

それを、人間不信、だと思った事は今まで無かった。


「お前が弟を心配するのも解るがな、弟も、いつまでも兄がそうやって自分を中心に考えてくれている事を心配しておる」

「………」

「先日薬の追加を受け取りに来た時にな、お前の事を気にしておった」

「当麻が?」

「うむ。…仕事をして、帰って自分の事を気にかけて。心労がたたりゃせんか気になるのだろう、疲れてる様子はないかと頻りに聞かれたわ」


山之内はいつの間にか2本目の煙草をもみ消し、3本目に火をつけていた。
いつも吸っているそれを美味いと思う事はあるのかさえ解らない無表情は相変わらずだった。


「それに行くなら今回がいいというのは、期間の事もある」

「再来週から1週間…」

「少し前にあった話は1ヶ月。更にその前は半年。恐らく次に来るのは3ヶ月ほどだ。今回が一番短い滞在になる」


紫煙を吐き出し、視線を伸の足元に向ける。


「…靴紐がほどけておるぞ」

「あとで直します」

「…………院長は秘蔵っ子のお前を他に見せびらかしたいらしいな。だから自分との同行でもいいから、どうしても連れて行きたいようだ」

「そんな事の為に…」

「そんな事というな。お前の腕も、人格も買ってくれておるのだ。そういう評価は素直に受けろ」

「………すいません」

「再来週から1週間、行って来い。弟の事ならあの派手な公務員が面倒を見てくれるだろう」


思わぬ所で見抜いていたように件の人物を言われ、伸はまた顔をゆがめた。


「……何でその人って思うんですか」


どこでそういう情報を得るのだろうか。
本当にこの人は人間なのだろうか。
失礼だとは解っていても、疑わずにはいれない伸だった。


「お前が顔を歪めるのはあの男のことくらいだろう。なに、大丈夫だ。信頼に値する男ではないか」

「山之内先生って伊達さんと面識ありましたっけ…?」

「面識も何も、アレはワシの甥だ」

「はぁっ!!?」


甥、とは。
確かに癖のある髪型だし、ある意味人間離れした容姿の2人ではあるけれど。
だからって、甥、とは。


「お、お、甥、だったんですか!?伊達さんが!?」

「嘘に決まっておる」

「う……っそ、とか…!!!何でこのタイミングでどうでもいい嘘吐くんですか!」

「やってみたくなったから仕方あるまい」


思わず地団太を踏んでしまう。
本当にやってられない気分だ。


「しかし信頼に値する男と言うのは本当だ。ワシはそう面識はないが、まぁ人を見る目はお前よりある。亀の甲より年の功、だ」


少しだけ口端を上げて山之内が笑った。

この男の目に狂いがない事も、そして少なからず自分があの男を他よりは評価している事も解っている。
弟にも酷い扱いなど絶対にしないという事も解っている。

ただ不安があるとすれば。


「………アイツ、エロ河童なんだよなぁ…」


自分の不在時に弟に手を出さないかどうかという点においてだけは、本当に未だに判断がつきかねるのだ。




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恋する男をエロ河童と呼ぶブラコン兄さん。