azul -22-
「これから1週間、様子を見て何もなければ退院だってさ」
病室に秀と当麻が姿を見せると嬉しそうに遼が教えてくれた。
「マジか!良かったじゃん!」
「ええ、ありがとうございます」
「これで遼も安心できるな」
「うん」
和やかな空気。
心配していた迦遊羅の体調も安定しており、何事もなければと医者は言ったが、恐らくはこのまま順調に退院の運びとなるだろう。
それを喜んだのも束の間、途端に寂しげな顔を遼が見せた。
「でももう秀にも当麻にも会えないんだな」
彼らが此処に来るようになった当初の理由は、リストに名前があり、実際の被害者になりかけた兄妹の護衛と、
そのついでで勉強を見るという事だった。
大元の事件の方はまだ完全に片付いてはいないが、遼を攫おうとした連中もその意図ももう解ったし、
実際にはもう何の護衛の必要も無さそうだった。
それに迦遊羅の方もまた何かあれば必ず警察が本格的に捜査に乗り出す事は約束してある。
秀が此処に来るのはどちらかと言うと当麻の付き添いという意味合いの方が大きくなっていた。
そしてその当麻だって、病室にずっといなければならない妹の為に勉強を教えてやるという事だけだったので、
彼女が無事、学校に戻るとなればそれこそ用がなくなる。
それが遼には寂しいらしい。
「遼、そんな事を言って困らせるものじゃないわ」
そんな兄を妹は窘めるが、彼女の目にも寂しいという感情はハッキリと見て取れた。
そういう目に弱いのがこの2人である。
「そんな事言うなって!ホラ、俺の携帯の番号もアドレスも知ってっだろ!?いつでもメールとかしていいからさ!」
「そうだよ、それに毎日は無理でも、たまになら勉強見てやるから。…特に遼」
そう言って2人を慰めてやる。
実際、この2人だって寂しいのは寂しい。
迦遊羅の退院も、遼の心配事が解消されるのも、勿論、喜ばしいことだとは解ってはいても、気に入っているものは仕方がない。
そんなしんみりした病室に電子音が響く。
「あ、俺だ…」
ポケットから携帯を取り出したのは当麻だった。
「…?征士からだ……もしもし」
窓の方に寄って小声で話し始める。
それは少しの間だけ会話をしてすぐに切られた。
「悪い、俺、ちょっと出る」
表情が険しい当麻に、秀が気付く。
「どうしたんだよ」
「また、アレにあった名前の被害者が出たって」
「今更!?」
そう、今更、だった。
遼の事を抜けばあのリストに記載されていた人物が新たな被害者になる事は、容疑者の全員が逮捕されてからは全くなかった。
だから警察側も、骨もリストも発見されていないが、もうこの件については殆ど片がついたと思っていた。
なのに此処に来て、である。
「うん、征士も出先で聞かされたみたいで詳しくは知らないらしいんだけど…兎に角現場に行って来る」
「伊達さん、来るって?」
「病院の前に車つけるから、降りて来いってさ」
最近、征士は病室を訪れることがなくなっていた。
そこに何か意思を感じないわけではないが、まさか伸との関係があまり良くない事になっているのを勿論、2人は知らない。
当麻が去った後の病室で、遼が
「いつも思ってたんだけど……当麻って何してる人なんだろう」
と呟いた。
そう言えば結局この2人にも、ロクに説明をしないまま今日まで来ていた事を秀は思い出していた。
尤も、それこそ今更言う気もないし、恐らくこの2人だって今更知りたいとは思っていないだろう。
「場所、どこ?」
「ここを真っ直ぐ行った先の……裏通りに面した古いホテルだそうだ」
「そこに死体?」
「ああ」
「監視カメラとかに犯人、残りそうだけどなぁ…」
「今までの犯行とは無関係の可能性の方が高いだろうな」
「じゃ何で?」
「被害者の名前がリストにあったからだろうな」
「遼の時と同じようなモンじゃないかなぁ」
「私もそう思う」
会話している間にそのホテルとやらが見えてくる。
征士はホテルと言ったが、どうやらラブホテルのようだ。
外装と同じく内装も古く、受付の体制もあまり機能的でない其処は、後ろ暗い関係の者が好んで利用しそうな雰囲気があった。
そのホテルの5階に案内をされる。
フロアには数室あるようだったが既に退避させたのか、又は元から居なかったのか解らないが他の客の姿は見当たらない。
平日の夕方近い時間帯も関係しているのかもしれないが、この寂れようからすると、いつもこの程度だと言われれば納得が行く風情だった。
部屋の中を覗くと、部屋の真ん中にある悪趣味なベッドの上に遺体は残っていた。
まだ10代の少女は裸のまま白目をむいて息絶えている。
遺族からすれば悔やんでも悔やみきれない、悲しい姿になっていた。
目立った外傷は遠くから見る限り、ない。
部屋の至る所にある痕跡や、独特の匂いからして相手が1人ではないのが解った。
それに彼女の顔の痣や手足に残る鬱血の跡を見る限り、行為自体が合意の上とは思いがたい。
「簡単に説明をしてくれ」
近くの捜査員を捕まえて征士が言うと、彼は手帳を取り出して説明を始めた。
少女は此処からは少し離れた場所にある高校に通う生徒だと解る。
犯人は既に数人捕まっており、残りも直に捕まりそうだという。
通報は、犯人の1人からだった。
無理矢理車に詰め込んだ少女を此処へ連れてきて輪姦していたが、途中で様子がおかしくなり怖くなって逃げたという。
しかし逃げてるうちに更に怖くなり、通報をしてきたそうだ。
まさか死んでしまうとまで思っていなかったらしく、通報者は今、取調室で泣き崩れているらしい。
見ると胸骨どころかどこの骨も失っていないし、どこにも身体を切り裂かれた跡はない。
最初の読みどおり、リストにあった名前の人間が偶然にも被害者になっただけなのだろう。
「当麻、やはりこれは…」
すぐ後ろで黙ったままの当麻を振り返り、話しかける。
「…………当麻?」
様子がおかしい。
口元に手を当て必死に何かに耐えているように、眉間に深い皺を刻んでいる。
よく見ると顔色が悪く、前髪の隙間から見える額にも玉のように汗が浮かんでいた。
「当麻、大丈夫か?」
今までどんなに惨たらしい死体を見ても顔色一つ変えなかったし、大量の血の臭いを嗅いでも眉一つ動かさなかった当麻だ。
いくら歳若いとは言え元FBIというのは伊達ではないと気にしていなかったが、案外こういう手合いは苦手なのかもしれない。
考えれば当麻はまだ10代だ。
そういう意味でその辺の事に関してはまだ潔癖なのかも知れない。
「当麻、もし辛いのなら外に…」
征士の言葉が終わりきらないうちに、当麻は何度も頷き、そして他の署員に進められるに従ってエレベーターに1人乗り込んだ。
閉まるドアを見ながら意外なものを見た、とその場にいた全員がそう思った。
そらからほんの少しして下が騒がしくなる。
何かあったのだろうか。
数名を残して、何人かは階段を使って騒ぎの起こっている階へと降りていった。
そのなかには征士も一緒に居た。
騒がしくなっているのは1階のエントランスだった。
見るとエレベーター前である。
「どうした」
エレベーターにはさっき当麻が乗っていたはずだ。
嫌な予感を覚えて征士が聞きながら前へ出る。
人を掻き分け、箱の中を見ると。
「……当麻!?」
顔を真っ青にした当麻がその場に倒れこんでいた。
慌てて傍に駆け寄って声をかけたが、完全に意識を失っているらしく反応はない。
咄嗟にエレベーター内を見渡す。
異変も異臭もない。
エレベーターに乗るのを全員が見たが、その時は誰も中に潜んでいなかった。
それは勿論、下に降りた時も同じで封鎖にあたっていた警官たちも誰も見て居ないと言う。
上にいる者から下に当麻が行ったというのを無線で受け、ドアの前で待っていると既に中で倒れていたというのだ。
呼吸は浅く、とても弱い。
額に汗があるのは変わっていなかったが、握った手先が随分と冷たくなっているのに征士は焦りを覚える。
苦悶の表情を浮かべたままその場にまるで丸くなるように蹲っているのは、防衛本能からだろうか。
それほどに辛い現場につれてきてしまったのだろうか。
「救急車は!?」
「呼びましたけど、ここには車両が入りにくいそうで到着に時間が掛かるかもしれないと…」
思わず舌打ちしてしまう。
外傷はなくともどうみても異常事態だ。
下手をすれば命に関わるかもしれない。
「もういい。私が病院に直接連れて行く。毛利先生の居る病院にそう連絡を入れておいてくれ」
なるべく頭を揺らさないようにその身体を抱きかかえて征士は自分の車へと急いだ。
*****
異常事態発生。