azul -18-
「此処に居たのか、毛利」
「…山之内先生…」
屋上で1人、ぼんやりとしているところに現れたのは、山之内という内科医だった。
元は外科医で、その前は何故か薬剤なども扱っていたと聞く。
老齢どころかまだ中年期の筈なのに、どのようにしてそんな奇妙な経歴を辿ったのかは不明だが、恐ろしく有能なその男は
眉が極端に薄い上に黒目も小さく、その上肌の色も健康的ではないとくれば、その見た目も相まってあまり人が寄り付かないタイプだった。
だが伸は、この病院に研修医として入っている頃からの先輩であり元上司でもあるこの男が嫌いではなかった。
話してみると話題が豊富な上に機知に飛んでいる。
本来ならば誰とだって問題なく関われるはずなのに、意外にその容姿を気にしているのか自ら人に溶け込もうとしない。
「話がな」
「研修の件なら、お断りしますよ」
言われる事など解っていたから、無駄に話をさせるより先に伸は断りを入れた。
こういう端的な物の言い方をしても彼なら真意を理解をしてくれると解っていたし、正直受け入れる気の全くない話題なので短く答える。
この言葉こそが、最も自分の意思を伝えるのに有効だという事も解ってた。
その態度に山之内が隠しもせず溜息を吐いた。
「最後まで聞く気もないのか」
「どうせ海外に行け、でしょう?」
「当たりだ」
「だったら僕の答えも先生ならお解かりのはずです」
「今は日本を離れる気がない、か」
「ご名答」
また山之内が溜息を吐いた。
だがそれは苦笑交じりだ。
口端だけを上げ、血が通って居ないと言われる目を細めて笑う様は、知らない人間が見ればそれは人を小馬鹿にしたようにしか見えないが、
仕方がないという時に彼が見せる、寧ろ優しさの混じった笑みだという事を伸は知っていた。
「一応、こちらも待ってやったほうだがなぁ」
「本当は待っていただかなくても良かったんですけどね」
「お前を手放す気のない病院と、急にどうしても辞めたいと言い出したお前の間を取った最善の策だったろうが」
「……それに関しては感謝してます」
「お陰で、どうにかなったろう?」
「えぇ、まぁ…」
「1年、待った」
「1年で戻るとは僕自身、思ってもいませんでしたよ」
「1年で戻ったのは、日本に、というだけだ。お前自身はまだ、此処を出る前のままではないのか」
「…………………………」
山之内がポケットからタバコを出して咥える。
節の目立つ細い指が神経質そうに見えて、これも彼の評価を曇らせる要因の一つだと、伸は惜しく思っていた。
あの日、病院を辞めて家族の元へ行くと言った自分と、手放したくないがために様々な方法で引きとめようとした病院。
その間に立って話を付けてくれたのが山之内だった。
彼は双方に取ってそれなりの制約と制限を設けることで伸を家族の元へと送り出してくれた。
そのお陰で最初は決断を渋っていた病院側も、何年かかっても必ず病院に戻る、という約束だけで伸を解放してくれた。
二度と家族を失いたくなかった。
だから何もかも捨てて、家族のいる地へ行こうと決めた。
実際は1年で戻れたが後から改めて思うと、その後の生活などを考えても急に仕事を無責任に投げるのは得策ではなかった。
それを冷静に考えるように言ってくれたのも、山之内だった。
だからこそ、彼には頭が上がらない。
実際に尊敬もしているから尚更だ。
その彼が、待ってやった、と言った。
ならば本当はもっと圧力がかかっているのかもしれない。
それでも今の自分の現状を知ってくれているからこそ、きっとまだ何処かで押し留めてくれているのだろう。
こういう優しさを、彼は持っていた。
「ワシの聞く限り、あまりそう弱くは思えん」
「………僕側の問題なんですよ」
「だろうな」
今度は伸が苦笑する番だ。
「そこまでお解かりの上で、僕に海外に行けと?若しくは、病院側にもう少し待ってやって欲しいと?」
「だからワシも困っている」
「投げ出してくれても、結構なのに…」
「お前の父親には、借りがある。それにワシはお前自身が嫌いではない」
「それは有難い事ですね」
「話を最後まで聞く意思はあるか?」
「……………………結論は、今日明日じゃ変わりませんよ」
「今、聞いておいても構わん話だと思っているから、聞けと言っている」
煙を吐き出しながら。
薄い唇から細く吐かれる煙はまるで蛇の舌のように見えた。
「何も1年、向こうにいろと言っているのではない」
「…去年と話が違いますね」
「半年、いろ」
「…………………」
「では3ヶ月」
「………………は?」
「何なら1ヶ月だな」
「どういう……加減でそう、期間が勝手に…」
山之内は表情が変わらない。
そういう点では征士と近いのかもしれない。
よく見れば髪が外に向かって跳ねる癖も同じではないか。
2人の違う点は、その容姿が人に取って好ましいか、そうでないかの違いだけ。
そう思うと伸は、何だか奇妙に思えてくる。
いや、今はそんな事よりも。
「山之内先生、あなた…人が悪いですね」
「こういう冗談は嫌いではあるまいよ」
口調だけは老齢の翁のような物だから、余計に彼を理解したがる人間は少ないのかもしれない。
見た目にそぐわず、冗談が好きだというのに。
「で、本当の話をしましょうよ」
「聞くか」
「聞くだけなら」
「1週間」
「…は?」
「1週間、海外に滞在してシンポジウムに参加してくる事が、今病院がお前に望んでいることだ」
「…………まるでただの旅行だ」
「そうとも言う」
話が違う。
そう思った。
以前に聞かされたのは、病院の若手として海外で研鑽を積み、それを今度は此処に戻って活かして欲しいという事だったはずだ。
だからこそ海外の家族の元へと言った時に、その地を研修先にしてやるからそれならばという条件を途中で出されていた。
無論、家族の傍から一歩たりとも離れるつもりのなかった伸は、その条件でさえ拒んだのだが。
その話が、今ではたった1週間。
それもシンポジウムへの参加と摩り替わっている。
自分以外に誰か期待をかけている人間が出たのだろうか。
いや、それは戻ってから見ている限りで、ない。
自惚れるわけではないが、きちんと冷静に見た結果で判断しているつもりだ。
それなのにこの急な変わりよう。
1年の間に何かあったのだろうか。
しかしそんな話は聞いていない。
となると、山之内が何か言ったとしか思えない。
そう、例えば家族の事を……
「…先生」
「言っておくがワシはお前の血縁者の話などしておらんぞ」
伸が相手の言う事を読めるように、相手もまた同じだった。
考えが通じやすいのはどこか性質的に似ているのかも知れない。
「では、何故」
「単にお前が戻ってきた事で安心したのだろう。この病院は本気でお前を手放す気はないらしい」
「だからって1週間……」
「猶予はまだある。際の際まで待つほうがいいと上の連中には伝えてあるから、返事が多少遅くとも問題あるまい」
短くなったタバコを携帯用の灰皿に押し付けて、視線だけを投げてくる。
「お前がワシを信用して話してくれた内容なぞ、己の胸の内から外へ出した事など一度足たりとも無い。安心せい」
「………疑ってすいませんでした」
「良い。それだけ大事なのだろう。解らんでもない」
「………………」
「兎に角、そういう事に今はなっておる。どうせ蹴ってもまたスグに話は出るのだから、どこかで引き受けておけよ」
話は終わりだと言わんばかりに山之内は館内へ戻る扉へ向かって歩き出す。
決して爽やかとは言いがたい色味のサンダルを引き摺る音が遠のいていった。
「そう言えば」
声に気付いてソチラを見ると、山之内がドアノブを掴んだまま振り返っている。
「父親は元気か」
「えぇ、忙しいらしくあまり連絡はありませんが、ドイツはビールが美味いと先日言っていたので元気でしょう」
「あまり飲みすぎんようにと伝えておいてくれ。また身体を壊す」
「解りました。でも先生もあまりタバコは吸わない方がいいですよ」
その言葉には何の返事も無く彼はドアの向こうへ消えた。
恐らく、今の忠告は聞いてもらえないだろう。
聞いたとしても、ヘビースモーカーが今更本数を減らした所で何になると返されるのが関の山だ。
ただ本人はヘビースモーカーだと言っているが、それが既にチェーンスモーカーの域に達している事だけは解って欲しい伸だった。
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山之内さん出しちゃった。だって好きなんです那唖挫。