azul -15-



その日も妹を見舞うために病院を訪れた遼は、階段の所で伸を見かけた。
手に何かの入ったビニール袋を提げているのが見えると、嬉しそうに笑ってその背中を追いかけた。


「毛利先生!」


背後からかけられた声に振り返る伸は笑顔だ。
手にしている袋の中で何かがぶつかる音がした。


「今日も妹さんのところ、だね」

「はい」


伸の問い掛けに笑顔で答えているが、遼の気持ちの幾らかは彼の手にある袋に既に向かっている。
それを解って伸は笑い、そして態と気付かないフリをした。


「そうかぁ。キミはいいお兄さんだね」

「そ、そうでもないですよ」

「照れない照れない」

「俺たち二人だけで暮らしてるから、どちらかが家に居ないっていうのは寂しいんです」

「そっか。まぁココに来れば口煩いケド勉強を見てくれる人間もいるし、楽しいのかな?」

「はい!…って当麻は別に口煩くありませんよ」


困ったような声で返された言葉に伸も笑った。


「そう、そんなに楽しいならココが病院でも充分幸せだね」

「あ、でもそれだけじゃなくて…」


遼の視線が再び伸の持つ袋へ注がれる。
並んで階段を昇っていると自然に遼は伸の前を通してそこへ視線を向けるため、身体が前屈みになる。


「ホラ、危ないよ。階段では注意しなきゃ駄目だって学校で言われない?」

「あ、はい……でもその…」

「なんだい?」

「今日のオヤツ、何かなって」


えへへ、と照れた笑い。
素直な子供を疎ましく思えるはずもない伸は、彼ら兄妹を可愛がっていた。
それこそ秀や当麻と同じように。


伸が持っているのは、たまに病室へ差し入れられるお菓子だった。
勿論、伸の手作りである。
甘いものが好きだと言って憚らない当麻の為に、糖分の過剰摂取にならないようにと考えて作られたそれは、
殆どの時間をベッドで寝たまま過ごす迦遊羅の身体にも勿論優しく、そして味も良いとくれば
それらの配慮とは関係のない所にいる秀や遼にも喜ばれた。

最初、外科医であるはずの伸がお菓子を手に関係のない病棟に顔を出したとき、遼は酷く困惑した。
一番最初に会った時のイメージのせいだ。
よくは解らないが当麻が自分達の元へ来ることを徹底的に反対し、その後でまるで縋りつくように懇願をしているのを見ている。
彼の人となりはよく知らなかったが、神経の細かい、気難しい人物だという印象が強く残った。
ところが病室へ顔を出すたびに差し入れとして美味しいお菓子を提供し、ニコニコと笑いながらも
あの時頻りに心配していた当麻の事や護衛をしている秀の事、入院している迦遊羅の事だけでなく、
毎日面会時間ギリギリまで病室にいる遼の事まで気遣ってくれているのを見ていると、彼がとても優しい人物だと知る。
そうなれば元々素直な性格の兄妹はすっかり彼に懐き、今では彼が病室を覗きに来るのを楽しみにしている。
そこには勿論、差し入れのお菓子だって含まれているわけだが。


「今朝は時間に余裕があったからプリンを仕込んでおいたんだ。ソレを事務所の冷蔵庫で冷やしておいたんだよ。
時間的にも食べ頃だし、そろそろ遼くんが来ると思って持って行くところだったんだけど、ちょうど良かったね」

「はい!」

「プリンは、好きかい?」

「大好きです!」


素直な返事だ。
プリンが好きならシュークリームやエクレアなんかも好きだろうか、なら今度はそれを作ってこようか。
頭の中は次のお菓子のことで満たされ始めた。


「…毛利先生って器用ですよねぇ…」


感嘆の息と共に出された台詞は、尊敬の眼差しつきで伸に向けられる。


「僕?器用かなぁ?…あ、でも仮にも外科医だし、器用っちゃ器用か」


意識を戻して軽く笑ってみせる。
けれど遼は首を横に振った。


「いえ、そっちじゃなくて…その、お菓子作っちゃうところとか」

「?あぁ、こっちか」

「料理お上手なんですね」

「うーん、まぁ……子供の頃からやってるし」


その言葉に遼の釣り目がまん丸になる。


「お菓子作りを、ですか?」

「いや料理」


今度は眉まで上がる。
声は興奮の為か心なしか大きい。


「え、お、お母さんのお手伝いですか?」

「手伝いはまぁ…小学生くらいまでで中学からは一人で。と言っても家政婦さんの手伝い、だけどね」

「………家政婦さん?お母さんは、忙しい人だったんですか?」

「いや、僕の母は、僕を産んで少し後に亡くなったよ」


絶句。
丸くなった目も、上がった眉も今度はどちらも悲しげな形を作り、そして少年は声のトーンを落とす。


「あの、すいません……俺、…」

「悪い事は言ってないよ、遼は。人には寿命ってモノがあるし、母は元々子供を生める身体じゃなかった。
それでも望んで僕を産んでくれたし、それに母がどんな人だったか直接は知らないけれど
父が沢山の写真を残してくれていたから、そこから母が幸せだったことは僕もよく解っているんだ。
だからキミが気に病むことなんて何もないよ」


その表情には何の気負いも、気遣いもなく、ただただ当たり前の事だという態度しか見れなかった事に、
遼は僅かながらの安心をする。
自分も親を失っている身だ。
それもまだ記憶に新しく残っているような年数しか経っていない。
若しかしたらもう30年近く前の事で、しかも記憶にある母親が既に写真の中の姿のみというのはある意味幸せかもしれなかった。


「じゃあ、だから医者になろうと思ったんですか?」


幾分か気持ちの持ち直した遼が問うと、今度は苦笑が返って来た。


「それはよく聞かれるんだけど、実はそうでもないんだ」


単に父も医者でね、と続ける。
料理も家族の為に自分が出来ることを探して、身についたのだとも。


「………先生の方がよっぽど優しい人間じゃないですか」

「そうかなぁ……僕は遼くんの方が優しいと思うよ。純粋に優しいっていうのは、結構難しいもんだ」

「……よく、わからないです」

「うーん………ま、僕は仮に優しいとしてもソレは身内にだけ、だね。大人ってね、汚いの」


そして軽く笑う姿を見ると、伸のそれが汚いという事ではなく、優しさをかける分量をきちんと把握しているだけだと遼は思うが、
それを上手く表現できるほど彼は大人ではなく、そして語彙だって少ない。
まるで子供のまま育ったような部分が遼にはある。


「腹黒と呼ぶ人だっているんだから」

「誰がそんな事言うんですか?」

「伊達さん」


言われて遼は返す言葉がない。
たまにこの2人は迦遊羅の病室で顔を合わせるが、その度にまるで漫才のように言い合いをする。
初めこそその様に狼狽した兄妹だったが、当麻が笑いながら放っておけばいい、と言ってからは野次馬のように
眺める余裕が出てきた。
秀だけは律儀に毎回頭を抱えているが、それも含めて遼は最近、少し面白く思っている。


「伊達さんくらいでしょう?」

「まぁね。ま、面と向かって言うのは、っていう前提だけどね。人ってドコで何言われてるか解らないよー?」

「やっぱりそうなんでしょうか…」

「遼くんや迦遊羅ちゃんは言わないなって解るけど、当麻だって僕の事を口煩い奴だと思ってるかもしれないし」

「それはないですよ」

「そうかなぁ………本当に言ってない?」

「言ってないですって」

「本当?僕のこと、面倒臭がったり、ウザがったりしてない?」

「言ってないですってば!」


何故この医師はいつも当麻の事を気にかけるのかという疑問は、初対面の時から遼の中にあった。
それだけではない。
あの警部の気のかけようだって、幾ら鈍感な遼でも気になる事が多々ある。

先日などは、2人仲良く寄り添っていたではないか。

それを思い出し、わけもなく遼の頬が赤くなる。
容姿の整った2人だったから妙に綺麗な絵のように見えたせいだ、とその光景を頭から必死に追い出した。

そんな遼の様子に伸が目聡く気付く。


「どうしたの?顔、赤いね。熱?」

「あ、や、そそそ、そんなんじゃなくて、その、ちょっと、あの…」


目に見えて狼狽える姿に、伸は少し意地悪く笑った。


「何かあるねぇ………素直に話してごらん」

「いや、これはその……先生には、言えない…っ!」

「僕に言えないって事は…当麻のこと、かなぁ?」


目を細めて笑うその姿に遼は恐れ戦く。
これが、腹黒といわれる彼なのだろうか、と。


「それも、伊達さん絡みだ」

「!!」


素直で正直な遼は、最早声に出さずとも態度だけで全てを語ってしまった。
伸はその姿にいっそう笑みを深くしたが、頭の中では征士へ悪態を吐いていた。


「もー、しょうがないなぁ遼くんは。キミが悪いわけでも何でもないんだから、そういう事で
困ったり何かしなくてもいいのに。……で、あのスケベな警部は何かしてたのかな?」


最後の声のトーンがいつものそれより随分と低かった事に、遼は完全にどうしていいか解らなくなっていた。
いつもの遣り取りを見るのは面白いが、それに巻き込まれる、いや、その火種をまさか自分が投下してしまうなんて。
しかもコレはきっと自白するまで開放される事はないのだろう。
その証拠に、伸は階段の途中で歩みを止めたまま、頑として一歩たりとも動く様子を見せてくれなかったのだから。




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征士に腹黒と言われると伸はムッツリスケベと返します。