スコープ
その日、伸は朝から征士と当麻の暮らすマンションを訪れた。
カジュアルで爽やかな普段の服よりも少し硬い印象を与える服装で。
それというのも訪問の何日か前に征士から話があったからだ。
毎日ではないが二ヶ月に一度よりかは頻繁に共にしている食事の席で、いつも以上に真剣な表情で彼が言ったのだ。
私ではもうどうする事も出来ない、と。
伸ならば或いは話を聞いてくれるかもしれない、と。
この時は何があったのかと心配になった。
世間の目から見てデキる男の征士がここまで憔悴しきる事と言えば、恋人の当麻のこと以外には有り得ないと言い切ってもいいほどだ。
だからこれは当麻の身に何かあった、若しくは当麻との間に何かあったという事なのだろう。
因みに世間から見てデキる男・伊達征士は、嘗ての仲間から見ればデキると言えばデキるがちょっとズレた当麻馬鹿の男・伊達征士という評価になるが
まぁ、それはそれ。
兎に角、その彼が憔悴しきって、しかも滅多に人を頼ることが無い彼が伸を頼ってきた。
殊、当麻の事となれば他者の介入を拒みがちな征士が(極力独り占めしたいため)、自分の話を聞いてもくれない恋人について
仲間とはいえ他の男の話なら聞くだろうという考えに至る時点で、相当なことの筈だ。
これは相当なことが起こったに違いない。
伸はそう思い、姿勢を正して征士に何があったのかと尋ねた。
チャイムを鳴らす。
少しの間を置いて、誰何する事も無く玄関ドアが開けられた。
「来てくれたか…」
やはり今朝の征士も疲れているように見えて、伸はこっそりと溜息を吐いた。
「当麻は?」
「まだ寝ているが、もうそろそろ起きてくる時間だ」
元々、当麻はよく眠る。特に朝には滅法弱い。
だが征士との暮らしの中で、せめて午前中に起きるようにはなったようだ。
いくら話を聞かないと言ってもそれが守られていることには安心した。
それに恐らくだが征士が寝室を追い出されたという事も無さそうだという事にも。
リビングに通されて、まずお茶を出された。
紅茶ではなく日本茶だったが、日中は兎も角としても朝晩の冷え込みの厳しいこの季節はその温度と香りが有難い。
「…で、当麻は相変わらずなの?」
出されたお茶を一口飲んでから伸が尋ねると、ソファに腰を下ろした征士は硬い表情のまま頷いた。
それを見た伸は今度は溜息を隠さなかった。
「まぁ……昔からそういう子ではあったけどね」
征士を今、苦しめているのは当麻の健康についてだ。
と言っても何か大病を患っているとか、どこか身体を痛めているという事ではない。
単に、と言ってはここまで悩んでいる美丈夫に申し訳ないが、”単に”健康診断を受けてくれないという事だった。
「私が心配だからと何度言っても聞いてくれんのだ」
決して征士を軽んじているわけではないが、当麻は彼のこういう申し出を素直に受け入れないことがある。
検査に行くのが面倒だという部分もあるのだろうが、それ以上に万が一何かが出た場合に異様なまでの心配をかける事や、
その時の征士の過保護っぷりが容易に想像できてそれらが”面倒臭い”と思っているのだろう。
当麻の悪い癖だ、と伸は思う。
何も当麻は自分の存在を卑下してはいないし、価値を低く見てもいない。
単純に、自分という物を忘れてしまうことが昔から多かっただけだ。
戦いの中に於いてそれは顕著だった。
偵察に行くと言い出して、他の誰か、例えば白炎を連れた遼が行こうかと言っても当麻は自分が行くと言い張っていた。
確かに軍師でもある彼が直に状況を見てくるのが一番いいのだろう。
だが毎回となると、流石にどうだろうか。
5人しかいないのだから、戦うという事は平等に5人に降りかかってくる。
休める時に休むべきだが、軍師として戦況の整理もあるからと当麻はただでさえ眠っていなかった。
なのに毎回の偵察までとなると、流石にどうだろうか。
それを気にして遼が申し出たのだが、当麻はそれをキッパリと断った。
「もしも怪我でもされたら堪ったものじゃない」と言って。
これは遼を心配しての事だけではない。勿論、他の仲間の誰が言っても同じ言葉が返って来た。
皆が大事だという意識は当然、当麻にもある。
だがそれとは他に、軍師として当てにしていた戦力にマイナスが出る事を酷く嫌っていた事もあったからだ。
5人しかいない。なのに負傷者が出てそれが減っては作戦を大幅に練り直す必要が出てくる。
あの状況下でそんな時間はなかった。
それを考えれば、仮に自分が怪我をしても自分の体のことだからすぐに判断はつくが、万が一にも仲間の誰かが怪我でもしようものなら、
それがどの程度なのか判断がつきにくくなってくる。
曖昧な状況を視野に入れて策を練り直すのは面倒でもある。
だから、自分が偵察に行く、と言っていたのだ。
認識としてそれはある程度正しいのかもしれない。
それでも仲間からすれば、当麻の存在だって充分に心配の対象なのだ。
それを綺麗サッパリ、コロっと忘れるのが当麻の悪い癖だった。
自分が他者を思うように他者も自分を思ってくれているというのがどうも認識できていない節が、過去にはよく見られた。
それでも最近ではそういう事もなくなったと思っていたというのに。
伸はまた溜息を吐いてしまった。
自分の体だから把握できているなんて思って征士に妙な心配の種や、もしも入院などになった場合には必ず毎日見舞いに来るであろう
彼の時間的負担を増やしたくない気持ちがあるのは予想できるが、だがそれでも頑な過ぎる。
だから伸は征士の協力要請を受け、朝から当麻に一言ピシャリと言ってやろうとやってきたのだ。
それも、いつも遊びに来る時とは違って、少しは硬い印象を与える服装を選んでまで。
無口な征士と、秀でもいれば軽口を叩くが普段はそれほどでもない伸しかいないリビングはすぐに静かになった。
僅かに重い空気が流れているのは、征士の落ち込みが原因だ。
「……はよ………。…あれ?…しん?」
そこに寝癖でぐしゃぐしゃになった青い髪の当麻が現れた。
来てたんだ、と言っている当麻を、征士が手招きしてソファに呼び寄せた。
朝食もダイニングテーブルではなく、こちらに用意されている。
それに吸い寄せられるように当麻はソファへ腰を下ろし、まずマグカップに手を伸ばして牛乳を飲むと続いてトーストに手を伸ばした。
もぐもぐと食べている間中も黙ったままの2人に、途中で意識がハッキリとしてきた当麻も居心地の悪さを覚えてくる。
2枚目のトーストを食べ終えて、ベーコンエッグの乗った皿も綺麗にしたところで、それでも尚黙りっぱなしの2人に漸く声をかける事にしたようだ。
「…なに」
「当麻、僕ね、今日は話があって来たの」
真剣にそう告げてくる伸の表情からいって明るい話題ではないと判断した当麻は、咄嗟に征士のほうを向いた。
相変わらず落ち込んだままの恋人の様子に、内容の予想がついてこちらも遠慮無しに溜息を吐く。
「征士、お前、伸連れてくるとか反則だろ」
「それだけキミの事、心配してるからでしょ。そんな風に言わないの」
怒ると怖い長兄は、未だに当麻の中で逆らってはいけないランキングの上位に位置している。
その伸を呼んだ事を卑怯だと暗に言えば、早速、伸から突っ込まれてしまいばつが悪そうに首を竦めてみせた。
「つっても征士だって俺の話、聞いてくれないし」
「万が一の事があっては困るのだ。お前の言い分は私には聞けない」
「俺の身体は俺のことなんだから、自分で管理してるって」
「当麻」
あれだけ生活面がだらしないくせに何が自己管理かと思いつつ伸が名を呼ぶと、また当麻は首を竦めた。
「征士にこんなになるまで心配かけちゃ駄目だよ」
「そうは言うけど、」
「キミが思ってる以上に征士はキミが大事なんだよ?それくらい解らないの?」
「それは解ってるって、でも」
「でもじゃないっ!あのねぇ、キミ、ちょっと1日我慢して病院に行って、健康診断受けるくらいで何の不満があるの!」
子供じゃないんだから!と伸が怒ると、当麻が不服そうに眉根を寄せた。
「何。何か言いたい事、あるの?」
「……伸、征士から何て聞いてきたんだよ」
当麻が口を尖らせて膝を抱える。
言い分どころか行動までまるで子供じゃないか、と伸は思ったがそれはそれ。
話を今逸らしてはならないと堪えた。
「キミが健康診断を受けないって聞いたから来たんだよ」
ハッキリと今回の用件を伝える。
どうだ、文句も言えまい。そう思ったのだが、当麻は、やっぱり、と更に不服そうだ。
「……なに?何か違うの?」
「征士、お前、伸にちゃんと言ってないってどういう事だよ」
「伝えた。お前が身体のための検査を受けてくれない、と」
「じゃあちゃんと伝わってないってのはどういう事だ」
「……?ちょっと待って、何?何がどういう事なの?」
先日聞いたのは確かに征士も言ったとおり、身体のための検査を受けてくれないという事だ。
それはつまり、健康診断ではないのだろうか。
何か早とちりをしてきたのだろうかと伸はもう一度、聞いたときの状況を思い出そうと必死になるが、やはり征士の言った言葉以上の
遣り取りなど無く、そして予想できる内容も無いために軽く混乱してくる。
「え。当麻、キミ、健康診断は?」
「受けたよ」
「血液検査だけ、とか?」
「血液検査もやったしバリウムも飲んだ。腹部エコーもやらされたし、ついでに眼科にまで回されて眼底検査も受けた。
電極を手足にもつけられたしメタボの検査もあった」
「……え」
それって健康診断として充分なモノじゃ…
伸は征士を見る。
だが相変わらず征士は難しい顔をして座っているだけだ。
「征士が煩いから俺、MRIもやったしCTも受けた。これって充分だろ?」
俺は寧ろ頑張った側だと言う当麻に、状況が掴みきれないなりにも伸は、うん、と素直に認めた。
会社勤めしている人間だって今時、そこまで検査を受けている人間はそうそういないだろう。
面倒臭がりの当麻がこのほぼフルコースをよくぞ受けたものだと感動すらしてしまいそうになる。
だが征士は、どういうわけか数日前から変わらない憔悴しきった、そして難しい顔をしたままなのだ。
「……征士?僕、ちょっとよく解らなくなってきたんだけど…」
「直腸検査を受けていない」
「…は?」
「当麻は私の言った検査の殆どを受けてくれたが、直腸検査だけはまだ受けてくれていない」
「直腸、…けん、さ…?」
直腸検査。
…って、あのテレビでたまに芸人さんがやらされている、お尻から特殊なカメラを入れられるアレ…?
と伸が何となぁく嫌な予感に襲われていると、当麻が隣にいる征士を思い切り睨みつけた。
「だぁから、それは嫌だって言っただろ!代わりにMRIでも何でも受けたじゃねーか!」
「しかしポリープの発見は難しいと聞く。ちゃんと直腸も調べてきてもらってくれ」
「イヤだって、絶対に!!」
「どうして。私はお前の体が心配で」
「ヤなモンは、ヤなんだよ!伸、解るだろ!?直腸検査、イヤだって言う俺の気持ち!」
「…まぁ…そりゃ、…確かに……」
テレビで見るあの異様なまでの痛がり方や、気持ち悪がり方を見ていると恐怖心ばかりが育て上げられて、
幾ら自分の健康のためとはいえ素直には受けられない検査ではあるなと思う。
だがその一方で、そもそも征士のアレを挿れられてるんだから他よりはキミの方が耐えられるんじゃないの?なんて思ってしまって、
でもそれを勿論、言葉に出来る伸ではないので顔を顰めるに留めた。
「大体なぁ、お前、俺がお前以外のヤツに尻を見られるんだぞ!それでもいいのか!!」
「それは嫌だが、そんな事を言っては産婦人科に通う妊婦は自分の旦那以外に股を開くのだぞ」
「俺は妊婦じゃねぇ!つーか言い方を遠慮しろ!何だ、股を開くって!!!」
「それもこれも同じだ。兎に角当麻、頼むから直腸検査を受けてくれ」
「嫌だっつったら、嫌だ!!!」
わあわあと遣り合う2人だが、このままでは平行線のままで終わりそうに無い。
受けるにしろ拒むにしろ、兎に角話を進めなければ双方に納得のいく解決は無さそうだと伸は腹を括る。
「ちょっといいかな?」
「なに」
「何だよ」
紫の目と青の目が同時に伸に集中する。
改めてみるとこの2人は容姿が整いすぎていて、妙な迫力があるな…と知らず溜息を吐いてしまった。
「征士は当麻の身体を思って直腸検査を受けて欲しいんだよね?」
「当然だ」
「本当は当麻のお尻を他の人が見るのは嫌だけど、それでも受けて欲しいんだよね?」
「当然だ」
「それだけ当麻のこと、心配なんだね?」
「当然だ」
「………うん」
思った以上に嫉妬深い男にしては相当な決断だなと伸は思った。
今度は当麻を見る。
「当麻、征士はここまでキミの事を心配してるんだってさ。キミ、お尻見られるくらい、我慢したら?」
「……………………」
「当麻」
「…………だってさ…」
「だって、何?」
「……恥ずかしい……」
さっきまでの勢いはドコへやら。
耳まで赤くした当麻は僅かばかり目を潤ませ始める。
昔から弟が欲しかった伸からすれば、いい大人といえど可愛く思えてしまうのだが、それこそ、それはそれ、だ。
「当麻、恥ずかしいなんて言ってたら征士に悪いよ?」
「でも」
「でもじゃなくて」
「でも……っだってさ、…!」
温泉で平気で素っ裸になるくせに、何を今更と伸が言いかけたのだが。
「だって、俺、…か、形が変わってる可能性あるじゃんか…!!」
形。と言われても。
伸は何となく想像がついた。
確かに聞いた事はある。
”ソコ”を使って性行為をしていると、”ソコ”を使ったことが無い人と形状が異なるという事は。
だが実際にそれを確かめたことは勿論ないし、今後も確かめる機会は来なくていい。
「そ、…れは……大丈夫じゃないかなぁ…?」
だが、そもそも人というのはそれぞれ個体が違うものだ。
脚の形、爪の形、耳の形だって違うのだから、”ソコ”もある程度違いがあって当然だろう。
それを諭してみたが、当麻の首は縦には振られない。
「大丈夫だって、ホント、きっと、だけど…」
「だって相手は医者だぞ!?年間に一体どれだけの数のケツ見てきてんだよ!幾らなんでも、あっ、って思うときくらいあるだろ!」
俺はそれがヤだ!と乙女のように顔を覆って喚く当麻だが、伸も何となくその気持ちは解らないでもない。
征士との関係は、譬え仲間であってもからかわれると未だに恥ずかしがる当麻だ。
そんな彼が見ず知らずの他人に、自分のポジションを知られるとなると穴が幾らあっても足りない程の羞恥を覚えるのだろう。
「だから当麻、そういった事を配慮してくれる病院を私は予約すると言っているではないか」
嘆く当麻の肩を撫で擦りながら征士が言う。
伸はまた何となく嫌な予感を覚えてしまった。
「…配慮って?」
「そういう方々、御用達の病院だ」
そういうって…キミ………
伸は言葉には出来なかった。
代わりに当麻が、余計に困るわ!と喚いているのを聞きながら、伸は只管にこの場から消えたいという事だけを思うのだった。
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その配慮が余計に心を抉る事だってあるのです。
そういう方々が秘密裏に利用されている病院と言うのは、やっぱりあるモンなのかなと思いながら。
結局2人揃って遠くの病院に検査を受けに行けばいいと思います。