厨(くりや)
「そう、残念だけど仕方が無いわ。ええ、みんなには言っておくからこっちは大丈夫。…お大事に」
そう言ってナスティは電話を切ると、困ったなという風に溜息を吐いた。
伏せがちになった視線は、今ここにはない物の形を思い描いている。
電話の相手は秀だった。
遼が帰国したというから今日はみんなで柳生邸に集まる予定だった。
まず伸が到着して、それから間もなく遼が到着した。
手には大きなクーラーボックスを抱えて。
その中身を思い浮かべて、ナスティは再び溜息を吐く。
ここで考えていても仕方が無いとその場を去ろうとした時に玄関のドアが開けられ、当麻が顔を出した。
一緒に来ているはずの征士がまだ姿を見せないのは、外から聞こえる車の音からして家の裏に駐車しに行っているからだと解る。
「あら、予定より早く着いたのね」
「うん。今日は道が空いてた」
「良かったわね」
「あれ?遼と伸だけ?秀は?」
柳生邸に一番近い土地に住んでいる秀は、集まるときはいつも一番乗りだ。
なのに玄関に彼の靴がない。
それに気付いた当麻が言うと、ナスティはほんの少しだけ困ったような表情で頷いた。
「それがさっき連絡があってね、下のお子さんが今朝になって急に熱を出したそうなのよ」
「じゃあ看病で来れないのか?」
「ええ。これから病院に連れて行くって」
とナスティが頷いて、また困ったような表情になった。
「…?どうしたん?」
「それが………」
車から荷を降ろしている征士を置いて、ナスティに連れられ先にリビングに入るとそこには独特の生臭い匂いがあった。
どう考えても魚の匂いだ。
「………どうしたの、コレ」
当麻が見下ろしたのは白いケースで、中には50cmほどのマグロが入っていた。
「ここに来る前に寄った市場で、前の撮影の時に知り合った人に会ってさ、これから昔からの仲間に会いに行くって話したら、お土産にって…」
「貰ったのか」
「うん」
4人で魚を見下ろす。
しっかりと氷が敷き詰められたそこに、綺麗なマグロがゴロリと横たわっている。
「でも秀が来れないんじゃ…」
遼が言った言葉に当麻が首を傾げた。
「何で?」
「だって貰ったはいいけど、俺、捌けないんだよ」
撮影の為に半ばサバイバルのような生活をする事もある遼だが、相変わらず不器用な彼は出来る事と出来ない事がハッキリと別れている。
釣った魚の腸を出して串焼きにする程度なら出来るが、綺麗に捌くのは無理なのだと続けた。
「私も流石にマグロは処理できないわ」
ハーフらしい容姿のナスティだが和食だってお手の物だ。だがこのサイズの魚は捌いた事がないのだろう。
少し申し訳無さそうにしている。
「僕も切り身なら兎も角、この状態の魚は流石に……」
そして元水滸の伸は、昔から尾頭付きの魚だけはどうしても慣れなかった。それは歳を重ねても変わらなかったようだ。
5人の侍達の中で一番料理上手で包丁の扱いも巧かった彼は切り身なら兎も角、生前の姿そのままの魚を下ろすことだけは出来ない。
だが料理人の秀なら、魚を下ろすくらいどんと来い、だ。
「だから秀を当てにしてたんだけどね……困ったな、秀が来れないんじゃコレ、どうしようもないよ」
「何で?」
理由を聞いたのに同じ言葉を口にした当麻を、伸は驚いて見返す。
「当麻。キミさ、さっきの話、聞いてた?」
「うん。秀が来れないんだろ?チビ、大した事ないと良いな」
「そうだね。兎に角、秀が来れない。それともう一つ、僕ら話したよね?」
「うん。遼もナスティも伸もマグロを捌けないんだろ?解ってるってそれくらい」
「じゃあ困ってる理由、解ったよね?何でまた、何で?って言ったの」
キミ、アホなの?と伸が冷たく言うと当麻はまた、え?と返した。
「ちょっとキミ、本当に馬鹿になっちゃったの?それとも若しかして睡眠不足で実は未だ寝てる?」
「そんなワケあるか。マグロくらい、なんとかなるって。せいじー、おーい、せーじぃー!」
訝しむ仲間をよそに、当麻はまるで犬猫を呼ぶように征士を呼びつける。
すると征士が漸くリビングに姿を見せた。
その両手に2人分の荷物があるのを見て、どこまで当麻に甘いんだ…と誰も思わないのは、最早コレが見慣れた光景だからだ。
(でもまぁそれって、流石にどうだ)
「何だ、どうした」
「征士、コレ、できる?」
これと言って恋人が指差したマグロを見下ろした征士は、ふむ…と少し考える仕草を見せた。
「そうだな………うむ、この大きさなら出刃包丁と柳包丁があれば充分だな」
「…意外」
そのマグロを下ろすにはキッチンでは手狭だったために、8人は座れるダイニングテーブルの上に新聞とビニールシートを敷いてそこで下ろす事になった。
ジャケットを脱いで袖を捲くった征士から少し離れた位置に立った伸は顔を顰めながら呟く。
「苦手なら無理に近くに居なくていいんだぞ」
言った征士は振り向きもせず、出刃包丁を片手にまずマグロの頭を切り落とした。
伸の表情が更に歪んだのは確認せずとも解っていた。
「…で?」
「え?」
「だから、何が意外なのだ」
3枚に下ろすには流石に身が厚すぎるために、征士はまず背と腹に切込みを入れた。
迷いがないそれは随分と慣れたような手つきだ。
伸はそれに感心しているようだが、どこか顔色は悪く、手は口元に当てたままだ。
「いや……キミ、魚捌けたんだって思って…」
「そんなもの」
言いながら今度は鰹を下ろすように中央部分に包丁を入れる。
「私が料理が出来るのを知っているだろうに」
「そりゃ料理が出来るのはね。でも魚まで捌けるようになってるなんて意外って言ってるんだよ」
「これくらい出来んでどうする」
その言葉に伸は溜息を吐いた。
世の中、料理が出来ても魚を下ろせるとは限らない人間が多いのを彼は知っているのだろうか。
下手をすると切り身の姿と泳いでいる姿が直結しない子供だっている世の中だと言うのに。
そもそも柳生邸にいた頃、料理が出来たのはナスティを筆頭に、伸と秀、それから殆ど1人暮らし同然だった当麻だけで、
遼と征士は全く出来なかった。
出来ないと言っても遼だってそれなりに家事はこなしていた。彼だって当麻と同じで1人暮らし同然だったのだから。
ただ不器用すぎて、果たしてソレは料理なのかどうなのかというレベルのものしか作れないだけで。
それに対して征士は本当に、全く出来なかった。
名家である事は伸と同じにしても、家にある考え方が根本的に違う2人だ。
父を早くに亡くし、一家の大黒柱になった母を少しでも手伝おうと料理を始めた伸と違って、征士の家は如何にもな家柄だった。
男子厨房に入らず。そういう考え方だったのだろうと、口にせずとも誰もがそう推測していた。
刃物に関しての扱いは多少心得があるものの、それでも人参の皮を剥くだけで、あの当麻でさえ心配するほどだったのだ。
ゴボウをささがきにしようものなら、間違えてズドンと切り落としてしまうような人間だった。
その征士が大学進学の為に1人暮らしを始めたのを機に、料理を覚えた。
生活のためだ、当然だろう。
というのは世間的な考え方で、本当は既にこの頃には付き合い始めていた大食漢の恋人の為だというのは仲間内では誰もが知っていたことだ。
そういう征士が、気が付けば魚を、それもマグロという普段下ろす機会など滅多にないものまで捌けるようになっていたなんて
恋とは恐ろしいものだと、伸は呆れて良いのか感心して良いのか悩んでしまう。
「そりゃ当麻といたら、ねぇ…」
呟くように言った伸の目の前で、征士は一旦手を拭った。
「それもあるが、それだけではないぞ」
血で汚れたタオルを横に置くと今度は出刃包丁から柳包丁に持ち替え、切り落とした身をサクにしていく。
流石にこの量を今夜の食事だけで食べきるのには無理がある。
小分けにしてそれぞれに持ち帰るためにも、全て分けておいた方が良いと判断したのだろう。
「え?」
「だから、何も私が料理を覚えたのは当麻のためだけではない」
集中しているのか、元々感情の乗りにくい声はいつも以上に平坦だ。
ただ、伸の言葉に不快感を持ってはいないことだけは仲間だからこそ解る。
大きな身に、包丁が水平に入れられた。
「僕だって何もキミを、完全な当麻馬鹿だとは思ってないけどさ…キミだって当然、物は食べるだろうし」
「だからそうではない」
もう一度征士は言った。
漸く伸を振り返る。
いつの間にかマグロは鮮やかな手つきで全て切り分けられており、それを入れるタッパーを取る為だった。
「……私の先祖の政宗公が、そういう人だ」
それぞれの家庭にあわせたサイズのタッパーに、切り分けたサクを入れていく。
6つあるのは、秀の家族の分だ。そしてそれが一番大きい。
「そういう人って、どういう?」
「元々料理が趣味ではあったが、客人へのもてなしとして主人が料理を振舞うことこそ一番の馳走と考えている人だったと聞く」
どれほど素晴しい料理人を抱えていようとも、大事な客人であればあるほどに主人自らが厨に立ち、使用人がする下準備だとしても
それさえも進んでする。
そこにこそ礼の心が宿ると考えていた、と征士は続けた。
「伊達家は今でもそうしている」
「………じゃあ何でキミ、10代の時は全然料理が出来なかったの?」
それが礼の心だというのなら、当時の征士が全く出来ないのは妙な話だ。
疑問を素直に口にすると、征士は苦笑いをしてみせた。
「未熟者だったからだ」
「………なるほど」
伊達家では一人前の男子と認められて初めて、台所に立つことを許される。
「ただ1人暮らしをするに当たってどうしようもないからある程度料理の手ほどきは受けたが、それも家族が主に使うほうの台所ではなく、
ちょっとした時に使う、狭くて設備も適当な方の台所でしか教えてもらえんかったがな」
「じゃあ今は?」
「今はもう、台所に入ることを許された」
へぇ…と伸は今度こそ感心した。
「それって、いつ?」
興味本位で聞くと、苦笑いを浮かべていた征士の笑みが、はにかんだものに変わった。
それだけでどうせノロケだと何となく察したが、どこか本人が言いたそうなので仕方なく言葉を待ってやる。
「当麻との関係を告白しに行った後からだ」
「なるほどね」
想う人がいること、そしてその人との関係を真剣に考えていると告げた事で征士は漸く一人前と認められたらしい。
仲間内でも一番しっかりしている彼だが、それでも彼の家族はヒヨっ子扱いだったと思うと何だか笑えてくる。
「因みに当麻は、紹介した後からすぐに台所に立つことを許されていたがな」
「……何で?」
「判断は祖父に委ねられているから私は知らん」
直接会った事はなくとも変わり者と聞くその祖父が、これまた変わり者の当麻を気に入っているというのは前に聞いた事がある。
何も変わっているからというだけで彼を認めているわけではないだろうが、それでも理解できない部分に彼らの考えがあると思うと、
憧れや寂しさよりも先に、何故か笑いが出てしまって伸も征士も2人して声を立てて笑った。
「因みにこれよりも大物を捌くのは、未だに祖父がやるぞ」
「やっぱりそこは一族の長として?」
「それもあるが、それを目の前でやると曾孫や当麻が目を輝かせて喜ぶからな。見せびらかしたいのだろう」
孫は見慣れているから相手にしなくとも、曾孫たちは曾爺様すごい!となるらしい。
その中に孫達の方が歳が近い筈の当麻が混じっている事に伸はまた笑った。
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征士は料理上手だと思います。凝り性だし。
ご先祖様はそういう人だったというのを見聞きしたことを参考にしました。マグロはサイトを見ました。
私は下ろせません。伯父はやりおる。