空の青と
当麻が、ちょっと出てくるわ、と言って出て行ってしまった。すぐ帰るから、と笑って。
この場合の”ちょっと”は近所のコンビニでなければスーパーでもなく、海の外の国の事で、すぐ帰るというのは恐らく半月以内には戻るという事だ。
征士はそれを、ああ解った気を付けて行くんだぞ、と見送った。
勿論、機嫌よく、ではない顔で。
当麻の知り合いというのは征士の考えている”知り合い”の範囲を余裕で飛び越してしまっているため、どういうルートでどういう知人が声をかけているのか
皆目見当も付かないのでその相手を信用するのは難しいが、恋人である当麻の事は信用している。
だから今回も深く追求せずに送り出した。
本当は行って欲しくはない。
傍に置いて毎日一緒に過ごしたい。
征士が本気で行かないで欲しいと言えば、きっと当麻はほんの少しだけ考えて、うんじゃあ行かない、と答えるだろう。
若しかしたら今後もずっと何処へも行かずに、2人の暮らすマンションで征士の帰りを毎日待ってくれるようになるかもしれない。
けれどこういう身の軽さが当麻の魅力でもある。
その彼を縛り付けてしまえば、きっと征士が愛した本来の姿を失ってしまう。
それは嫌だ。絶対に、嫌だった。
だから征士は少しだけ我慢をして当麻を送り出した。
当麻を送り出して3日が過ぎた。
朝起きて1人朝食を食べ仕事に行き、残業して帰って1人夕食を食べて風呂を済ませて、あの広いベッドに1人眠る。
ただそれを征士は機械的に繰り返していた。別に生活の全てが色褪せたと絶望するほどではないが、味気ない事に変わりはない。
当麻が海外に行ってしまった場合、偶にではあるが連絡をよこすことがある。
それは携帯電話での会話だったりパソコンへのメールだったりと、気分によってマチマチだが、まぁ兎に角、偶にならある。
だから生活の合間に征士は携帯をチェックしたりパソコンのメールを何度も確認したりする。
以前、この事を伸に話した時、もんの凄く不憫がった視線で、
キミって思った以上に健気なんだねぇ…
と言われた事がある。
何だか物凄く傷付いた征士だった。
話は逸れたが、この日も征士は同じように帰宅後に食事も風呂も済ませ、眠る前にパソコンを開いた。
メールチェックをすると1件の新着メールがある事を画面は示している。
胸をときめかせて開くと、それは遼からのメールだった。
遼は嫌いではない。仲間なのだから、当然好きだ。
だが正直に言うと、ガッカリした。
兎に角、気を取り直してそのメールを開く。
件名は「コレすぐ見て」。
本文には何もなく、動画が添付されているだけの簡素というより、これではただの悪戯メールだろうと思うようなメールだった。
しかし遼がそんな真似をするわけがないので征士は呆れつつもそのファイルを開く。
どこの国かは解らないが、結構な高度のある場所にいる事は解った。
視界の随分下のほうに平地が見える。そして撮影した場所は恐らく断崖だ。
周囲で何か話しているようだが、風の音が強すぎて何も聞こえない。
ごうごうと響く激しい音が耳障りで、征士はパソコンの音声をミュートに切り替えた。
恐らくカメラは額かどこか顔の近くに固定されているのか、次々に色んな国籍の顔が覗きこんで興奮気味に何事かを話しかけている。
それに頷いて何か返しているのか、画面が時々上下にぶれた。
よく見てみると映っている人はみんな妙な、…何と言うかモモンガのような服らしき物を着て、ヘルメットとゴーグルをつけている。
何をするのだろうかと見ていると、最初の1人が断崖に向かって駆け出し飛び降りた。
「………っ!?」
まさか自殺かと征士が息を詰める。
動画の視界も断崖に向かって走り崖を覗くようにすると、先程の1人はモモンガのような服を使って、本当にモモンガのように飛んでいた。
「……………、なんだ、これは……?」
思わず独り言を言うと、少し間を置いてもう1人、そしてまた間を置いてもう1人と次々に飛び降りていった。
その誰もが器用に飛んでいる。
およそ10人ほどが飛び降りた後で、カメラの視点が崖から離れた。
そして助走をつけて走り出すと動画の風景から足場が消えた。
先の彼らと同じように動画の主も飛んだらしい。
崖のスレスレを飛んでみたり、恐らく身体を捻ったりしたのだろう、画面が切り替わるたびに征士は肝が冷えた。
だが見慣れてくるとそれが爽快感に変わってくる。
ある程度見慣れたところで、最後に飛び降りた人物にカメラが近付いた。
それに気付いた人物はバランスに気をつけながらもどうにか振り返り、そしてカメラに向かい何かを言って手を振っている。
その人物を追い越してカメラはどんどんと降下を続けた。
合間にまた遊ぶように飛びながら次の人に追いつくと、またその人物もカメラに向かって何かを言っている。
そしてまた同じように手を振った。
次の人物も、その次の人物も同じだった。
何かを言って何かしらのハンドサインを送ってくる。
中には投げキッスをした人物もいた。
一体何をしているのか征士にはさっぱり解らなかったが、彼らが笑顔なので解らないなりに幸せな気持ちになってくる。
全ての人を追い越すと、カメラがぐるりと突然空を仰いだ。
恐らく撮影者が仰向けになったのだろう。
最後に太陽が移りこんでフレア現象を起こし、そこで動画は終わった。
撮影者、と表現したが、動画を見終わった後で征士はそれが遼だろうと結論付けた。
遼が送ってきているのだから、きっとそうだ。
彼は最近、カメラで風景や野生の動物を撮る他に、動画なんかも撮影するようになっていた。
それはあくまで趣味の範囲としてらしく、どこかへのチャリティーに使ったり、ただ本当に記録として撮ったりしていると以前会った時に言っていたから、
恐らくそうなのだろうと。
中々に面白い事をしているな、と征士が1人微笑んでいると携帯が鳴った。
当麻からではないのは解っていた。
恋人からの着信音はちゃんと他と分けている。こういう所も伸に、健気だねぇ、と言われる対象だったりする。
「もしもし」
電話に出た。
相手は遼だ。
「征士、今大丈夫か?」
「ああ。ちょうど送ってくれた動画を見終えたところだ」
物凄くいいタイミングで笑ってしまった。
それを聞くと遼も嬉しそうに笑った。
「凄いだろ?」
「ああ、凄いな。アレは何だ?生身1つであんなに飛べるだなんて…」
「アレはウィングスーツっていうヤツでさ、何か開発されたらしいんだよ」
「なるほどな。…だがこういう動画なら私にではなく当麻に送ってやればもっと喜んだろうに」
空に関することなら当麻のほうが喜ぶ。
天空だった事を抜きにしても当麻は空が好きだった。
「……あれ?」
だからそう告げたのに、遼は不思議そうな声を出した。
「…あぁ、そうか。すまん、当麻は今不在なのだ」
自分に送れば一緒に見るだろうと思っていたであろう彼に征士はそう告げると、遼はまた、え?と言った。
「…?何だ、どうした?」
「………アレ?俺、音声なしで送った?」
「いいや、ちゃんと入っていたぞ」
「…征士、ちゃんと動画見たよな?」
「ああ、全部見た」
「…………音声、入ってたんだよな?」
「?ああ、さっきも言ったが入っていたぞ。風が煩くてかなわんな」
「………うん、そう。…あれ?………………、………あ」
何かに思い当たった遼が小さく漏らした。
そして今度は確信を持ってハッキリと。
「征士、途中で音声切っただろ」
「風が煩かったからな」
当たりだと素直に認めれば、何故か遼に思いっきり溜息を吐かれた。
そういう仕草は伸や当麻のほうがよくするものだ。
まぁ、今はそういう事は置いといて。
「あのさぁ、征士」
「何だ」
「あの動画、もう一回ちゃんと見てくれよ。今度は音消さないで」
「何故」
風の音は本当に耳障りだったのだ。
幾ら爽快な映像でも、音が気になっては楽しめない。
しかしそれでもそれを推奨する彼に聞きなおすと、また溜息を吐かれた。
「あーのなぁ………あの撮影者、アレ、当麻」
そう言い残して電話は切れた。
撮影者が、当麻。
征士は完全に固まってしまった。
当麻。
とうま。
…当麻、だって?
何故、当麻がこんな物を撮っている。
いやそれより何をしに何処へ行ったのだアイツは。
いやいや、それより何より、遼といるだと?
もう一度ファイルを開く。
今度はちゃんとミュートを解除した。
ごうごうと風が吹いている。
先ほどと同じように誰かがカメラの前に立ち、何かを話しかけた。
時折聞き取れる音声から彼が話しているのが英語だというのはわかった。
内容は聞き取れなかったが、最後にOK?と言ったのは聞こえた。
それに答える当麻の声も。
最初の1人が飛んだ。最初に見たときと同じように。
それから後に続く光景も同じだ。
皆飛び降りる時に、テンションの高い声を上げている。
そして視界が一旦後ろに下がって、崖に向かって走っていく。
無事だというのはさっき見たから解っていても、これをやったのが自分の恋人だと思うと征士は先程よりも更に肝が冷えた。
ある程度、空中遊泳を楽しんだ後に最初の1人に追いつく。
すると彼は表情からは解らなかったが必死に声を張り、「マリー!」と叫んだ。男の声だった。
次の人は、ジョンと叫んだ。
マチルダ、アンネ、ココ、ときてチカコという日本人名も聞こえた。言ったのはカタコトだったから日本人ではない、女性の声だ。
様々な名前が続いた後に、少し間を置いて、そして当麻の声でハッキリと、
「征士!」
というのが聞こえた。
その直後に視界は一気にぐるりと回って空を仰ぐと、あとは当麻の笑い声だけが響いていた。
何なんだろうか。コレは、一体何だというのだろうか。
呆然としているとまた携帯が鳴った。
今度も遼だった。
「見た?」
動画の終わるタイミングを計っていたのだろう。
今度もバッチリだった。
「………あれは、何だ…?」
しかし征士は先程のように笑う余裕がない。
一体何か、本当に判らないのだ。
そんな征士を予想していたのか遼は笑い、そして教えてくれた。
それは最初、遼に来た依頼だった。
世界に向けてラブアンドピースを発信するための活動の一環で、国境も何もない空を飛びながら愛する人の名を叫ぶから、それを撮影して欲しい、と。
動物や自然を、あるがまま、しかしその魂の壮大さまでも写す遼だからこそ声がかかったのだが残念ながら彼は少々不器用だ。
自分も飛ぶとなると、恐らく1年かかっても動画は仕上がりそうにない。
だから遼は”専門家”を頼る事にした。
嘗て空を飛んだ事がある彼なら或いは、と声をかけたのが当麻だった。
空を飛ぶというのに当麻はアッサリと食いつき、二つ返事でそれを受けた。
実は1度そのウィングスーツのテストで飛んだ事があるのだと得意げに話しながら。
ただ遼は少しばかり心配事があった。
依頼があったときに、リョウも誰か愛する人の名前を呼んでくれよ撮影者だって動画の参加者なんだから、と言われていた。
自分はまぁ…敢えて挙げる1人というのは難しいにしても、叫べないことはないが当麻はどうだろうか。
照れ屋でちょっと素直じゃない彼が、素直に恋人の名を呼ぶだろうか。
だから最悪、撮影者はあくまで撮影しただけという事にしてもらうよう交渉しようかと考えていた。
ところが現地について説明を受けた当麻は、これも二つ返事で了承した。
いいよ、でも俺が叫ぶの、男の名前だけどイイ?なんて軽く。
中には同性愛者の女性もいたのでそれは勿論、何の問題もなかった。
彼らが口々にしたのは恋人だったり親だったり、祖父母や幼い頃に亡くなったペットの名前だった。
その最後に当麻は征士の名を呼んだ。
誇らしげに、楽しげに。そして、愛しげに。
「だから俺、編集するより前に、動画サイトに上がるより前に征士に送ったのに」
言われた征士からの返事はなかった。
遼はソレを訝しんで、しかしすぐに、ああ思考が飛んだな、と判断してまた笑って、それから。
「本当は天候待ちで1週間くらいかかる予定だったんだけど、初日が最高にいい天気だったから撮影すぐ終わってさ、」
さすが天空の当麻だよな、天気どころか飛ぶための風まで味方につけちゃってさ。
遼が楽しそうに笑い声を上げている。
「だから当麻、ソッコー日本に返したから」
じゃあアリガトウって言っといて、と言って遼が電話を切った直後に家の呼び鈴が鳴り、征士は驚きのあまり足を縺れさせながらも
大慌てで玄関へと走っていくのだった。
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ウィングスーツで仰向け飛行が出来るかどうかは知りません。
タイトルに続くのは「本当の気持ち」です。好きなバンドの曲名です。スイマセン趣味です。