痛む胸



騒動で出発が少しばかり遅れたせいか、遼は既に入国手続きを終え空港の前のロータリーで待っていた。
そこへ車をつけると彼はトランクに荷物を放り込み、伸があけた後部座席のドアに素直に入ると仲間に挨拶をする。


「……あれ?当麻、どうした?」


助手席の当麻が何故かシートの上で三角座りをして妙に背を丸めている。
そんな体勢では万が一の時にその身が危ない。それに靴を脱いでいるとは言え、いい大人が行儀悪いといわれそうなものだ。
それを伸や、ましてや征士が咎めていないのが不思議で遼は思わず問いかけた。


「いや…どうもしませんけど?」


不自然に丁寧な言葉が返ってくるのに遼は首を傾げる。
伸と秀に視線を送ったが、彼らも肩を竦めるだけだ。


「僕も言ったんだけどね、旦那様がイイって言うなら他所様の奥様にこれ以上言えないから」

「誰が旦那様だ、誰が奥様だ!」

「おーい伸、あんまそういう生々しいコト言わないでくれよ!…ま、征士の運転ならまぁ事故とか、ねーだろうしイイんじゃねえ?」

「追突されるのだけはどうにもならんがな。どうでもいいが高速に乗ったら後ろもちゃんとシートベルトをするのだぞ」


もう彼らだって社会的にもいい歳の大人だが、仲間で会うとどうしても気持ちはあの頃に返ってしまう。
軽口を叩きあいながら車は山間の旅館に向けて走り出した。



旅館は静かな場所にあり、部屋も綺麗だった。
騒いでも大丈夫なように部屋に専用の露天風呂のある場所を選んでいたが、やはり一番のウリでもある、見晴らしのいい
大浴場も気になっていた5人は着くなり早速、浴衣を片手にそこへ向かう。


「俺たち以外にも客って居るかな?」

「そりゃいるでしょ。だからあんまり騒がないでよ?特に秀と当麻」

「誰かさんは兎も角、俺は騒がないって」

「オイコラ当麻、そりゃ誰のことだよ!」

「秀、言われてすぐに騒ぐんじゃない。それに当麻も秀をからかって遊ぶな。…全く、お前たちは…」


じゃれあいながら廊下を進み、脱衣所に入れば既に何人か人の気配が感じられた。
咄嗟に伸が征士に尋ねるような視線を投げ掛ける。
少々不躾なその視線に居心地の悪さを覚えた征士が声に出して逆に尋ねた。


「……何だ」

「その…キミら、まさかと思うけど跡とかつけてないよね…?」


小声での質問は気遣ったからだ。
2人の関係は知っているが生々しい痕跡を、衆人環視の下に晒すわけにはいかない。
ただでさえ目立つ容姿の2人なのだ。浴びる注目は少ないほうが彼らのためにもいい。


「当然だ」


彼の質問は周囲への気遣いもあるだろうが、それよりも自分たちを思ってくれているからだと解っている征士は微笑んで返す。
自分たちの関係は全ての人に受け入れてもらえるとは言い難いものだ。
嫌悪を示す人も居れば、それだけに止まらず攻撃に出る人も居るだろう。
それらを受ける覚悟は元よりある征士だが、当麻にそういった侮蔑が向けられるのは耐えられない。
それは当麻も同じだ。
互いが互いの存在を何よりも尊ぶ彼らを知っているからこそ、伸は余計に守ってやりたいと思う。


「ならいいんだ」


そんな会話をしていると知らない3人は、まだじゃれあいながら服を脱いでいる。
征士の言葉を疑っていたわけではないが、チラリと当麻の身体を盗み見た伸は漸く安心したらしく自らも裸になっていった。


「うぉー!いー景色だなー!」

「おら、秀!前隠せ前!不愉快だろうが!」

「あ、わあ、どう、どうしよ…っ」


5人以外に人は疎らでそれぞれに景色を楽しんでいたが、それでも大きな声を出せば自然とそこに人の目はいく。
腰にタオルを巻かず肩にかけていた秀の股間を、慌てた遼が手近な桶で隠せばそれは余計に周囲の笑いを誘い、
伸が頭を抱える破目になる。


「…ホント、頼むよ君ら…」

「ほら、いつまでもそんな所で立っているな。身体を洗うぞ」


後から入ってきた征士に促され5人並んで洗い場に向かう。
征士と当麻は自然、両端に座った。
代わりに当麻の隣に座ったのは秀だ。
そこに伸は些か嫌な予感を覚えないではなかったが、自分ばかり頭を抱えるのは悔しいので、もうどうでもいいかと半ばナゲヤリになる。
周囲に迷惑をかけない程度になら騒ぐのは容認しようという方向に切り替えたらしい。
何のかんので伸も10代のあの頃に気持ちが返っていた。



さて洗うおうかと桶に湯を張り始めた遼に、いきなり右側から飛沫がかかった。


「…うあっ!」


短い悲鳴は当麻のもので、どうやら秀が彼にお湯をぶちかけたようだ。
さあ、これからまた2人が喚き始めるぞと半分呆れ、半分面白そうにそちらを見ると秀を怒鳴りつけると思っていた当麻が、
何故か左胸を押さえて体を丸めている。
それに秀も驚いてしまったようで桶を片手に呆然としていた。


「ちょっと、秀、何したの!?」


異変に気付いた伸が秀を窘めつつ当麻に近寄り大丈夫かと声をかけているし、遼も心配そうに当麻の顔を覗き込んでいる。
周囲にいた他の客たちも何事かとこちらの様子を伺い始めた。


「や、お、俺はただお湯を当麻にかけただけで……と、当麻、大丈夫か…!?」


押さえているのが左胸だというだけで不安が募る。
周囲の誰かが、その兄さん心臓に病があるんじゃないか、と呟けばそれで俄かに騒がしくなる。
冷静に考えればそんな位置に心臓はない。
だがそれどころではないのだろう、パニックを起こした遼が目に涙を浮かべ死ぬなとか言い出すものだからもう手に負えない。

救急車を…!と気を利かせたご老人が声高に言ったのを、必死に遮った。
勿論、当麻と、征士が、だ。

大丈夫です本当何でもありません、ちょっとビックリしただけなんです。

言ってはみたがまだ安心してもらえないらしい。
ビックリしただけで胸を押さえる健康な人間など、探せば居るかもしれないが、やはりそう居ない。

どう言い訳をしようかと2人それぞれに頭をフル回転させる。
秀にお湯を引っ掛けられた仕返しに彼を驚かせたかったと言おうか。
それとも痛むのは時折ですがちゃんと病院で検査してもらってますから大丈夫ですと言おうか。
だがもし前者を言えば、後で伸にネチネチと小言を言われて料理を楽しむ気分でなくなるかも知れないし、
後者を言えば、既に涙目の遼を本格的に泣かせてしまうかも知れない。

うんうんと唸りたいがそれさえ出来ず、必死に笑みを張り付かせて注目の的になっている当麻に、周囲の客の誰かが
気付いて遠慮がちに声をかけた。


「…青い毛の兄さん」

「はい…?」

「あんた、胸、どうしたんだ?」

「胸?…いや、だから本当に何でもないんです」

「いや、血が滲んでるから…」

「血?」


思わず5人声を揃えた。
そして視線を当麻の胸の、左に注ぐ。

血。確かに、滲んでいる。


「ああ、乳首。どうした?」


どうしたんだろうね、乳首。
そういう視線が集まっている。
仲間だけでなく、見知らぬ方々の視線がたっぷりと、血の滲んだ当麻の乳首に集まっている。


「彼女さんかい?」


聞こえたのはさっきまでの心配そうな声ではなく、からかいの含んだ声だった。
瞬間、当麻の顔が赤くなる。
いや、赤くしている場合ではない。それでは認めた事になる。
周囲に居るのが全て見知らぬ人間であれば、そうです、と言って済むことだが、そうはいかない、仲間が居る。
確かに恋人は居るが”彼女”ではないのは彼らの知るところで、そうだと認めることはつまり、恋人、征士がソコを執拗に舐めたと
自白しているも同然のことだ。言えるわけがない。
ああ、どうしよう。
しかし視線を征士に向けることは出来ないし、征士も不自然に当麻の目を見れない。
見ればそれも認めた事になりかねない。




「い………犬が」


苦し紛れの当麻の声に、場が静かになる。
いやそんなご静聴いただかなくても…と思うが取敢えず言葉を続けなければならない当麻は、腹を括った。


「ウチの犬、ちょっとじゃれつき方が半端なくって…」

「まさか噛まれたっての?」


横から入った伸の声はどこか冷ややかだ。
犬なんて居ないだろキミらの家は。
そう言いたいのは解るが、自分でも失敗したとわかっているが、取敢えず見知らぬ方々に嘘の説明をしたい当麻は
引き攣った笑みで伸に頷き返す。


「そう、ちょっと、こう…俺が旅行に行くってんで余所に預けよううとしたら、こう、…ガリっと」

「シャツの上から?」


と、一応伸なりの救いの手なのだろう。でなきゃオカシイのは言ってから当麻も気付いた。
だからまた頷き返す。


「大きいもんねぇ、キミん家の犬」


……明らかにバレている。
秀の目はどこか遠くを見ているようで視界の端で征士を見ているらしいし、征士もどういう顔をしていいのか戸惑っている。
日本を離れていた遼だけが、当麻犬飼い始めたのかー、とそちらに気を取られているが、これは後で説明をした方がいいのだろうか。


まぁ仲間内には兎に角、周囲の優しい方々へはどうにかなった事に当麻は一応安堵する。
先ほど救急車を呼んでくれようとしたご老人が、軟膏を塗っとくとエエ、と進言下さったのにも、素直に礼を言った。


「………その犬、限度を覚させた方がいいよ、本当」


伸のその言葉は征士に向けられていたが、彼は返事をしなかった。
恋人の乳首を色んな人が注視した事や犬に譬えられた事に思う所がなかったワケでもないが、
それよりも出来ない約束はしない主義の征士だ。
限度は、恐らくこれから先も覚えないのだろう。だから返事はしない。

それが解ったからこそ伸は盛大な溜息を吐いて、夜に入るであろう部屋の専用露天風呂では取敢えずこの2人を湯船に
蹴落とす事でこの頭痛を納めようかと静かに誓っていた。




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乳首をベロベロ舐める征士はお好きですか。私は好きです。