お前というやつは
伊達征士、残業真っ只中である。
この残業は先週の時点ではっきりと「あるな」と判りきっていたことなので、征士の中で問題ではない。
株主総会が近いのだ。資料やら何やら、準備に追われるのは当然のことだ。
だから前々から当麻にも伝えてあった。
「この月のこの週は、帰りが遅くなる」と。
すると当麻は言った。
「はいよ」と。
このとき、征士が懸念したのは当麻の食事問題だった。
生まれ年が同じの2人は、四捨五入しなくたってもう40歳だ。
40歳にもなった大人に対してするべき深刻な心配の中に、通常ならば食事というのはあまり入ってこない。
もしも一般的に入れるとすればそれは元来の偏食であったり、年々顕著になる健康面につてくらいのものだ。
だが当麻にはこれとは別の問題があった。
人の倍以上回転の早い頭脳を持った恋人は、一度集中すると周囲が全く見えなくなる性格だった。
若い頃、それこそ人に話したところで到底信じてもらえなさそうな経験をした10代の頃など、文字通り寝食を忘れていた事は珍しくなかった。
「寝れる時に眠れ。いざって時に戦えないぞ」と仲間に言っていたが、どの口が言う、と誰もが思ったことだ。
(それでも言わないときが殆どだった。単に疲れていてそれどころでは無かったからだ)
兎に角、1週間は続くであろう”残業祭り”。(いっそ”祭り”だこんなもの、と妙なところで悪態をつく事がある征士は密かに思ったりもする)
それだけの期間、果たして当麻はきちんと食事を取ってくれるだろうかと心配でならなかった。
2人でいれば征士の体調を気遣って自ら食事の時間だと声をかけてくる当麻だが、自分1人の事になると途端に疎かになる。
集中することが無ければ空腹を覚えて食事を取ってくれるのだが、生憎彼は今、幾つかの科学雑誌のコラムを引き受けているので
1人で部屋に篭ることが多い。
しかも今年は去年よりも雑誌が増えた。征士は心の中でだけでなく、ハッキリと舌打ちしたものだ。
だから、この月のこの週は帰りが遅い、とハッキリ判った時点で当麻に釘を刺していた。
「いいか、当麻。食事は必ず毎日摂るんだ。毎日、必ず、必ずだぞ」
肩を掴み真顔で訴える征士に対して当麻はいつものダラっとしたような、面倒なような、それでいて甘えるような態度で耳に小指を突っ込みながら、
「はいはい」と適当にしか聞こえない返事を寄越した。
だから征士は不安まみれでその週を迎えた。
自分の忙しい時期を越えて抱き寄せた恋人が、ただでさえ同年代の男性より細身の恋人が、更に痩せていたらどうしようと思いながら。
だが征士の心配はただの杞憂に終わった。
その週の月曜日のことだ。
何かがあったときにすぐ対応できるように、と机の上の邪魔にならない位置に置いている征士の携帯電話が昼休みになった途端、
メールの着信を知らせてきた。
何だろうかと開くと、差出人は当麻だった。
まさか何かあったかと震える手でメールを開く。
だが征士の心配を余所に、本文には「きれいに食べました」の文字。
そして添付されているのは昨夜のうちに作り置きしていた料理を盛った皿が空になっている画像だった。
どうやらきちんと食べてくれたようだ。
それも、ちゃんと昼時に。
幾ら当麻でも手作りされたものを無碍にしないという性格を見越してわざわざ作っておいたのだが、それを何時に食べているのかはいつも不明だ。
時折、夕方に食べてしまい晩飯時にはあまり食欲が無いと言い出すこともある当麻なのだが、それでも今回は昼時に食べてくれていた。
それだけの事でも征士は嬉しくなる。
当麻がちゃんと食べてくれていた…!
そう喜ぶ男は今年40歳で、その恋人も彼が40歳になった4ヵ月後に同じく40歳になる男なのだが、この際そっとしておくべきだ。
というのは、長年の親友である毛利伸の言葉だ。それに頷くのは同じく親友の秀麗黄だ。残念ながら真田遼はどちらかと言うと、征士と似た感想を持つ。
当麻の食事完了を伝えるメールはその夜も、その次の日も更に次の日も続いた。
征士はそのメールを横目に昼食を、そして会社で取った夜食を口にしながら微笑ましく眺めていた。
だがそれは周囲の人間からは、携帯電話を自分の正面に置きながら出前されたそこそこ立派な店のうどんを啜る美形、という珍妙な光景にしか見えなかった。
だって征士は人よりも表情が乏しいのだ。本人は微笑んでいたってこれっぽっちも周囲には伝わらないのだから仕方ない。
さて、その週の金曜日。
ノー残業を謳う企業だって、この期間の総務庶務経理労務関係についての残業は口出しできない。
だが仕事の目途が漸くついたのだ。この残業続きの毎日も、会社のデスクで食べる夜食も今日で終われそうだ。
そうなると俄然、部署の誰もがいつもよりイキイキしていた。
だが征士は朝から浮かない顔をしていた。
どこか落ち着きが無い。
理由は、昨夜の当麻との会話にあった。
木曜日も変わらず遅くに帰宅した征士だったが、もう仕事に目途がついたから、と本人なりに相当浮かれて迎えた夜だった。
それは当麻も同じだったようで、同じ年数を過ごしたカップルや夫婦よりもかなり甘い関係の2人は、もう明日で残業も終わりだからと征士の帰宅後、
風呂を済ませるなりベッドへと潜り込んだ。
そこで仲良く仲良く、楽しく時間を過ごして、事後の時間にも身を寄せ合っていた。
しかしその時間もいつまでも続けるわけにいかない。
征士には当麻の翌日の昼食と夜食を作るという使命がある。
でなければ恋人が痩せ細ってしまう、不健康に倒れてしまう。
それを避けるためにも、征士は後ろ髪を引っ張られすぎて禿げるのではないかと思うほどに惜しい気持ちを抱えながら、ベッドを出なければならなかった。
そのために、さぁ、と自分に声をかけて腕に力を込める。
上半身を少し浮かしたときだった。
「…どこ行くんだよ」
どこか非難するような目を向けて当麻が言った。
「どこって……台所だ」
「何しに」
「………食事の準備だ」
誰のためだと思っている、と征士は少しムッとした。
これだけ心配したり世話を焼いたしるすのは、趣味だからではない。ただ純粋に当麻が愛しいからだ。
それなのにその気持ちを知りもしないのか、残酷にも当麻から咎めるように言われ、征士は少しだけ腹を立てた。
その腕を当麻が強く引く。
まだ不安定な位置にあった上半身は、いとも簡単にベッドに戻された。
「………。……当麻」
解っているだろう、と怒りの気持ちを込めて名を呼んだのに、当麻は征士の肩口に頭を押し付けてくる。
彼特有の甘い匂いが征士の鼻を擽った。
「とうま、私はな、」
「いいじゃん、明日くらい」
甘える姿にほだされて、怒りではなく今度は諭すように名を呼んだ征士の声を、当麻が遮る。
「……いい、とは?」
「明日はさ、俺、自分でするから今日はいいじゃん。このまま寝ようぜ」
「…………………………」
自分で何とかする。
何度も言うが征士も当麻も今年で40歳だ。
何とかするも何も、コンビニでもスーパーでも何でも身近にある今の時代、出来て当然というか出来ないとオカシイものだ。
だが当麻に限って言えば、それは征士の中でいまいち信用できない言葉だった。
だって、”自分”で”何とか”するのだ。
自分の采配で自分のことを責任を持つ、ということだ。
普通で聞けば普通の事だが、侮る無かれ相手は天才奇才・羽柴当麻だ。
真っ当なこと、本質を見抜いたこの、ハッとさせられることをあらゆる可能性から導き出す彼は、捏ねる屁理屈も半端ではない。
「1日くらい食べなくたって人は大丈夫だ。漂流した人間の最長記録を知っているか?」とか言うかもしれない。
「食べなくていいって俺の身体が判断したんだ。俺の体は俺のものだ、俺が一番よく知ってる」とか言うかもしれない。
若しくは、「征士と食べたくて待ってたんだよ」とか言うかもしれない。
最初の言葉について変に食い下がれば、漂流した日数から記録から、その後の経過までどうやって調べたんだと聞きたくなるような膨大な
データを語り出される可能性がある。
次の言葉については、征士としては「私はお前の知らないお前の体を知っているぞ」と言いたいが、言ってその後イチャイチャできるか、照れて拒まれるか
大きな賭けになる可能性がある。
最後に至っては、情けない事にそれで喜んでしまう自分を知っている征士なので、もうどうしようもなかった。
だから当麻のこの言葉に対して征士はストレートに感情が顔に出たらしい。
当麻が一瞬だけ変な顔をして、そのあとつり上がった眉尻を下げて噴出した。
「大丈夫だって、征士。俺を信じろって」
「…いや、私だって信じたいし、信じているのだが……」
「それはそれ、これはこれって?」
「……………………まぁ…」
素直に言うと、当麻がまた笑う。
今度はさっきより更に頭を征士に寄せ、布団の中でそっと手を握ってきた。骨ばった手は痩せた様子がなかった。
「俺さ、もう何年、きっちり朝昼晩と食べる生活してると思ってんだよ。それこそお前と暮らすようになってからは殆ど皆勤だろ」
「………時々忘れることもあったではないか」
「それだって若い頃の話だ。もうここ数年なんて、キッチリしっかり、たっぷり食べてるぜ、俺」
食べても太らない体質だから判んないだろうけどさ、と言う当麻の指を征士は自ら絡めた。
確かに当麻は昔から細い。それは今も変わらない。
不健康だと心配はしないが、この身体のどこにあれだけの量が入っていくのかいつも不思議でならなかった。
「だからさ、もう身体がそういうサイクルになってんだよ。大体この時間は食べる、みたいな。だから明日はお前が世話をしてくれなくたって、
ちゃんと自分で用意して自分で食べるって」
「…………そうか…」
「うん。あ、でも征士の世話が鬱陶しいとかそういうんじゃないからな?たださ…、」
お前、毎日頑張って疲れてるんだから、今日くらいはゆっくりして欲しいんだよ。
昨夜、嬉しい事に恋人はそう言ってくれた。
お陰で嬉しすぎて気持ちが盛り上がって、昨晩はもう一度愛し合ってしまった。
それはさておき。
本人はああ言ったが本当に大丈夫かどうか、征士は心配でならなかった。
なぜなら今朝起きたときの当麻が、随分としんどそうに見えたからだ。
激しくした自覚はあるので深く突っ込めなかったが、あのまま夜まで寝てしまうのではないかと征士はヒヤヒヤしていた。
いや、今回に限っては寝ていてもいいけど。寝ていても仕方ないと思えるのだけれども。
そんな征士だったが、昼休みのメールでその心配は吹き飛んだ。
音を切っていたため、メールの着信を知らせるバイブ音が聞こえた。
表情は変わらず(本人はとても喜んでいたのだが…)、だが物凄い速さと無駄の無い動きで携帯電話を取る。
視線をずらしてメール本文を読む。
画面をタップして、何やら画像を眺める。
いつもならここで固まる(本人は微笑ましくなっている)征士だが、その日は僅かではあるが眉間に皺が刻まれた。
そしてどこかヘナヘナと脱力しながら携帯電話をいつもの定位置、つまり自分の正面に置き、会社で纏めて頼んでいた食事に手をつけ始める。
これが、周囲から見た昼休みの征士の姿だった。
昼はいつもと少し様子が違ったものの、午後の仕事について征士は至って通だった。
本来の終業時間を超え、いつものように残業が始まる。
他の部署のものは既に帰宅していたが、征士の部署や関連部署だけは誰も帰る者はいなかった。
今日を越えれば9割がたの事は終わる、と思い誰もが仕事に従事していた。
さて、夜の7時になった。
いつも夜食をどうするかという相談は、総務課のチーフの女性から始まる。
何を食べるかどれくらいの量を食べるか。どことどこの店から取り寄せるか。または買いに行くか。
ある程度方向性が決まったところで総務課の女性たちが幾人かに分かれてそれを関連部署である全ての人間に確認を取り、
メニューを聞き、そしてチーフである彼女が必要であれば纏めて注文をしてくれる。
誰がどこの部署に聞きにいくか特に決まりは無いが、何となく征士にはいつもチーフの女性が聞きに来ていた。
何故なら征士はモテるのだが恋人がいるし、だがどうも女性に対して苦手意識が強いというのを彼女は理解してくれていた。
若しかしたらその”恋人”についても思うところがあるのかも知れないが、彼女はそこを掘り下げるような無粋な真似はしない気配りもある人間だったので、
彼女に対してだけは征士も身構えずに済んでいた。
「伊達君」
声を掛けられ、キーを打つ征士の手が止まった。
「何でしょうか」
顔をあげると、チーフの女性は少し困ったような笑みを浮かべていた。
理由がわからず征士は軽く首を傾げる。
「何か問題がありましたか?」
「いや、そうじゃないんだけどね」
「?」
「今日の夜食なんだけどもねぇ……」
そう言いながら、彼女が個人で所有しているタブレットを見せてくる。
画面に映し出されていたのは、大手ファストフードチェーンのハンバーガーショップだった。
「今日、ここになりそうなんだけど……」
伊達君、どうする?と彼女は伺うように聞いた。
勤続年数の長い彼女は、征士が新人として入ってきたときから知っている人間だ。
その彼女は長い間征士を見てきたが、ジャンクフードの類を食べている姿など1度も見た事が無い。
派手な見た目と違って古風でどこか侍のような男だから、こういった類が好きではないのかもしれないと判断してどうするかと尋ねてきた。
そして征士もやはり少し困っていた。
何もジャンクフードは食べたくないという性格ではない。当麻が食べるし、自分だって普通に食べる。嫌いではない。寧ろたまになら好きだ。
ただそれを夜食に、と言われるとどうしても抵抗があった。
彼女の思う理由とは違ったが、征士はすぐに良い返事が出来ないでいた。
だがではどうする?となると、それも悩むところだ。
征士は仕事の責任上、席を立って外に食べに行く時間さえ惜しい。
大半の他の人間だってそうだから、今週はみんな揃って出前を取るか、誰かが代表して買出しに行ってくれていた。
それにいつもなら2つ3つメニューを持ってきてくれているのだが、今回に限ってこのハンバーガーショップの話しか出ないという事は、つまり全員が全員、
ここのハンバーガーに決めたからだろう。
その中、自分の分だけ別で、というワケには行かない。幾ら伊達グループの次期後継者だからって征士はそんな我侭を言う性格でもない。
ならばここで決めるしかない。夜食にというと受け入れ難いが、選択肢はないのだから仕方ない。
渋々受け入れるか、と征士が返事をしようとしたその時だった。
机の上に出していた携帯電話が、バイブ音を響かせる。
横目で確認すると青いランプが光っていた。当麻からの連絡だ。
こんな時に、と思ったが征士は反射的に携帯電話を手にしていた。
そしていつもと同じようにメールを開く。
「……………………………………っ、…」
息を飲んでから、その時ばかりは他の人間でも判るほどに征士は笑みを浮かべた。
ああ、まいったな。
そう思いながら携帯電話を握り締め、そして聞きにきてくれていた彼女に画面を見せる。
「これと同じものでお願いします」
彼女が覗き込んだ画面にあったのは、限定メニューの質量の多いハンバーガーのセットだった。
一瞬は驚いた彼女もすぐに何かを察したのか仕方のない子供をみるような目で征士を見、笑いながら「わかったわ」と自分の席へと帰っていく。
1人になると征士はまた画面を見つめ、そして噴出しそうになる口元を押さえて肩を震わせた。
「……………お前は本当に、タイミングのいい奴だな…」
昼はデリバリーのピザの画像を送りつけてきた恋人は、その夜にはジャンクフードを食べたらしい。
流石に昼食は違ったが、それでも夜は同じものを食べるのだということに浮かれた征士は、もうあと少しだと気合を入れなおした。
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本当、まいった恋人です。って伊達君が言うんです。