甘い痛み
その日、うわあああ、とも、ふわあああ、ともつかない当麻の悲鳴が上がった。
叫びに力は無く、それでも声を出すことでどうにか正気を保つような、同時に頭でどうこう考えるよりも先に声帯が反応したような、悲鳴だ。
「とうま、…当麻、……大丈夫か?」
遠慮がちにかけてくる征士の声を聞いた当麻は今度は声が出ないのか、無言で何度も頷く。
だがその姿は征士からは見えない。
何故なら今、二人の間には1枚の板があり視界を遮っている。
だって当麻がいたのはトイレだったのだから。
「当麻、その……すまん」
漸くトイレからリビングに戻ってきた恋人に、征士は心底申し訳無いという表情で謝る。
対する当麻は力なく笑いながらも、気にすることではない、と右手を振ってその言葉を受け取らなかった。
「しかし」
「いや、だってほら、楽しんだのは俺も同じだし……まぁ、………何も今回が初めてってワケじゃないし……覚悟はしてることだし」
「そうは言うが…」
ゆっくりとリビングに入ってくる当麻の歩みはぎこちない。
そして時折顔を顰めている。
征士の視線が当麻の下半身へと向けられた。
当麻の左手が尻に添えられていた。
「…………今日は兎に角何もせずゆっくりしておいてくれ」
暫くは私も我慢する。
そう言った征士の表情が当麻以上に辛そうなのは、罪悪感からだろう。
何せ。
「あんまり気にしないでくれって。お前のがデカイのは昔からなんだし」
そう、征士のはデカイ。
何がってナニが。
つまるところ、昨晩、もう四捨五入しなくたって殆ど40歳と言って差し支えない年齢の2人は昨夜、同世代より遥かに”お元気”な感じに盛り上がり、
夜遅くまでベッドでイチャイチャと仲良く過ごし続けた結果が、今朝の当麻の叫びだ。
早い話が、切れた。尻が。
これは2人に平等に問われる責任だ。
当麻の言うとおり、当麻も充分に昨夜の行為を楽しんだ。征士が一方的に求めてきたのではない。
だが征士が気にするのも仕方が無い。
繰り返すが、何せ征士のはデカイ。
嘗ての仲間も知ってのとおりだ。
いや、大きいのはこの際どうでもいい。
2人の関係が一般的な親密さより踏み込んだものになってから早20年。その間にもう何度も2人は愛し合ってきた。
最初の頃こそ当麻の身体への負担は大きかったが、それも何度も繰り返すうちに慣れてきた。
征士自身も当麻の身体の具合を覚えていったのだから、翌日に残る当麻の体の影響はほぼ無かった。
あるとすれば、盛り上がりすぎて無理に動いただとか、準備を充分にしていなかっただとか、あとは征士がしつこかっただとか、そういった時くらいだ。
(とはいえ、当麻からすれば征士の行為は平常時でも充分に「しつこい」らしい。顔を赤らめて言うので誰もその訴えを真剣に取り合わないのも悩みらしい)
兎に角そんな具合なので、当麻が怪我をするという事はつまり自分の非が多い、と征士は考えてしまうようだ。
それこそ当麻に言わせると馬鹿馬鹿しい話でしかない。
当麻曰く、「俺は恥らう処女じゃないんだから、嫌なときや無理なときは自分でキッチリ言うわ、アホ」ということだ。
だから。
「そんなこの世の終わりみたいな顔してないで、さっさと仕事に行けって。俺は家で自分のペースで出来る仕事なんだ。
途中で休み休みやるし、寝転がりながらやってたって誰にも迷惑かけないんだしさ、大丈夫だって。な?ほら」
そう言って、傍から見れば感情を拾うのにも一苦労しそうな征士の微妙な表情の変化を綺麗に見抜いて、恋人を追い立てた。
とは言ったものの。
「………いてぇ…」
朝から何時間も椅子に座ってパソコンに向かい続けていると、やはり痛みが気になってくる。
CMでもやっているのと同じように薬は患部に正しく使用したのだが、劇的にすぐに効くわけでもない。
座り仕事になるから、と吟味して購入した椅子は長時間座っていても体への負担が少ないものだが、それとは別で尻が痛んでしまう。
当麻は一旦立ち上がり、軽く体を伸ばした。
体全体が凝っているわけではないのだが、少し血流を良くした方がマシになるような気がする。
左右に軽く体を振った後は、腰を回した。
「まぁ……俺も運動不足になってたしなぁ…」
依頼を受けているコラムは掲載誌が隔月発行のものとは言え、推測を立てていく内容のために打ち合わせが何度かあるし、それまでの原稿チェックも多い。
加えて他の掲載物と内容を僅かにリンクさせるという試みも含まれているため、その他の記事にも当麻は目を通す必要がある。
だからパソコンの前に座る時間が以前よりも遥かに長くなってしまっていた。
それが今回はあまり良くない方向に向かったようだ。
それにしたって痛ぇ…、と不服そうに呟く。
「………何でアイツ、あんなにデカイんだ…」
恨み言や八つ当たりのように見せかけて、昨夜の幸せな時間への照れ隠しでそう続けた当麻は、途端に顔が熱く感覚を味わった。
口数が少なく、表情も滅多に動かないと親にさえ言われている彼が、2人きりの時にだけ見せる肉欲を隠しきれない表情。
長年剣を握ってきたために武骨な手が、その見た目に反してとても優しく触れてくれた感触。
耳元で何度も繰り返された言葉。
冷静で公正な彼の、汗ばんだ肌と荒い息遣い。
そして、言葉では伝えきれない魂を補うための、雄。
を、思い出した途端の、
「……っぐあぁ…!」
という、悲しい悲鳴。
尻が痛い。
昨夜の行為を思い出した途端、思いっきり尻が反応して、そりゃ思いっきり痛い思いを当麻は、した。
一瞬息が止まった。
最初は浅くしか出来なかった呼吸を焦らないように気をつけながら、徐々に深くしていく。
同時に尻(の特に一点)に集中していた意識を手足の先にまで散らしていった。
「はぁあああ、………駄目だ、駄目だ。一旦休憩、休憩してアイスかなんか食べるぞ…!」
今の状態ではすぐにまた思い出して、痛みを味わう事になる。
それだけは避けようとして当麻はリビングへ向かう事にした。
何かを食べつつテレビやラジオで気を紛らわしていつもの自分を取り戻せば、気分転換になって執筆作業も捗る筈だ。
そう言い聞かせながら。
が、今日に限ってこれといった話題を取り扱っているメディアが少ない。
次の連休のお勧めスポットを言われたって、そんな情報を流された日には混雑必至になることが目に見えているので当麻も征士も行きたくは無いし、
芸能人の熱愛情報を言われたって、自分たちに直接関わってくる可能性の極めて低い人間の結婚は「あーオメデトウ」以上の感情は出てこないし、
最近話題の、と銘打って出された研究については、その発表よりも随分前に自分の耳には入っていた。
「だってそれ、俺、その資料まとめるの手伝ったし」
しょーもないなー、と当麻は凭れかかる様に座っていた2人掛けソファに無理矢理横になる。
尻への負担を減らすために。
退屈。
当麻の頭にあるのはその言葉だけだった。
頭の中で文章を組み立てたり構成を練り直したりしていても、途中で思考が寄り道をして何故だか征士へと戻っていってしまう。
征士に戻ったが最後、昨夜の濃密で楽しかった記憶が否でも引っ張り出されてしまう。
と、
「…うぅ…っ!」
まぁこんな具合に悲鳴を上げる破目になるので、当麻としてはそれは本当にもうやめたいのだが、しかし退屈は退屈だ。
「………今の時間なら、秀の店って休憩かな…アイツに電話したら嫌がられるかな…」
昼の営業時間は終わった筈の時間だ。
若しかしたら夜の営業に向けての準備やスタッフへの連絡事項などで忙しいかもしれないが、自分の相手をしてくれる余裕が無いとは限らない。
気心知れた仲間と他愛のない話でもすれば、征士の事を思い出しても恋人としての感情よりも仲間としての記憶の方が強くなって、
平然とできるかも知れない。
そう思って当麻はふと自分が携帯電話を”携帯”していない事に気付く。
「いや、まぁ家ん中だしな…」
5人の中で一番優しい長兄からしょっちゅう、それこそ耳にタコが出来るのではないかというくらいに「携帯電話って文字の意味を思い出しなさい」と
言われている事を思い出して、誰も居ない空間に向かって独り、言い訳をしてしまった。
部屋に持ち込んだ覚えはない。
朝、征士を見送った時には確かにどこかで見た覚えがあったので、幸い寝室に置きっぱなしという事も無い。
寝室だとしたら、秀に電話をかける前に地獄を見る事になる。無論、尻が。
「だとしたら、…………」
一番可能性の高そうなダイニングテーブルを見たが、無かった。
尻が痛い当麻に代わって、出勤前の征士が綺麗に片付けてくれた後だった。
確か後で読むからと言って新聞だけは残しておいて貰ったはずだ。それも無い。
となると、自分で新聞を片付けた時に、一緒に携帯電話も移動させたか。
自分の行動を思い返し、当麻の視線は「じゃあ」とサイドボードへと向いた。
男の2人暮らしの部屋はさっぱりとしたもので、数少ない装飾品として柳生邸に集まったときの写真が飾られている他は、当麻の希望で観に行った
子供向けのアニメ映画のパンフレットと、2人でお揃いで買った腕時計がケースに収まったままある。
その隣に、畳まれたままの新聞があった。
近付いて見ると、上には当麻の携帯電話が乗っている。
「お、あったあった。…………あれ?」
手に取り画面を確認すると、メール着信が表示されていた。
差出人は、征士。何となく嫌な予感がした。
メールに表示されていた時間は少し前。
その時間はどう見ても一般的な会社の休憩時間ではなく、勤務時間だ。
普段から律儀な征士は就業時間中に私用での行動を慎むよう心がけている。
緊急時は例外だとしても、基本的には真面目な彼はそれを自ら破ることは極めて少ない。
そして昼休みに入ったところで、朝の会話で散々気にするなと言った相手にわざわざ電話をしては、却って相手に気を遣わせる結果になるという事は
解っているはずだ。特に、相手が当麻の場合。
そういう時には遠慮もあるし気遣いもある。そして若干の面倒だという気持ちもある性格の恋人を、ちゃんと理解しているからこそ昼休みには
連絡を避けたのだろう。
だがどうしても気になってしまったらしい。
我慢に我慢は重ねた。
それでもやはり、どんな形でどんな箇所であれ恋人に傷を付けてしまった以上、経過を心配してしまう征士は遂にメールという形で様子を伺うことにしたのだろう。
「………………コイツ……ほんっと…まぁ…」
文面は短く、「具合は大丈夫か?家の事は帰ったら全てやる空、何もせず楽にしておいてくれ」と改行も無く入っていた。
「やる空」というのは、恐らく「やるから」の誤字だろう。
それさえも気付くこともなく送信したようだ。
普通の会社に勤めたことの無い当麻でも、用があって出向いた会社で社員が長時間ではないにしても携帯電話を弄っている姿は何度か目にした事がある。
褒められた行為ではないが、だからと言って厳しく罰するほどでもない行為でも真面目な征士のことだ、きっと周囲にばれないように身を屈め、
大慌てでメールを打ったに違いない。
傍から見て却って不審な動きで明らかにバレていただろうに、と思うと笑えてくる。
笑った拍子にまた少し尻が痛んだが、顔を顰めただけで当麻の表情はまた笑ったものになる。
「じゃあお言葉に甘えて、本当に楽にしてよっかな」
別に散らかしたわけではないが、今日は洗濯さえしていない。
気が向けばやって、それから乾燥機にでも放り込めば良いだろうくらいに考えていたのだが、帰宅後に全て征士がしてくれるというのなら、もうこのまま
寝てしまってもいいかという気になってくる。
「でもベッドは避けたいからな」
昨夜の名残のあるベッドは、嫌だ。
さっきまでは昨夜を思い出して痛くなりそうだから嫌だと避けていたが、今は恋人の事を思い出して興奮してしまいそうだから、と当麻は嫌がる。
「どうせ興奮するなら征士が居るときにしよう」
今夜も昨夜と同じようにというのは絶対に無理だし征士もそれは解っているだろうけど、口や手を使ってなら何の問題も無い。
そういう楽しみ方だって有りだしな、と口端で笑った当麻は、そのままさっきまで座っていたソファに戻り、長身では辛い事を解りつつも
もう一度そこに横たわって恋人の帰宅までを過ごす事に決めた。
*****
そして急いで定時で帰ってきた恋人を、誘惑。
直接表現は避けましたけど、痔ですよね。実際は、甘いなんて言ってる余裕ないですよね。