バスローブ



仕事を終えて帰宅した征士に、明日は休みかと当麻が尋ねた。
金曜日の夜だった。
当麻の口調から考えるに、何か予定を立てようとしているのは解っていたのだが、


「いや、…明日は会社に行こうと思っている」


と征士は眉を顰めて返した。
折角の土曜日、それも恋人からの誘いには乗りたいのだが、社内で小さいとは言え問題が起こり、そのための会議が来週早々にある。
だがその会議の前に確認しておきたい資料がいくつかあった。
資料となる物は紙媒体なら場所も解っているし、パソコン上のデータももう絞ってある。
あくまで確認を取ればそれで済むことだ。が、気が重い事に変わりはない。
それが恋人からの誘いより優先せねばならないとなると尚の事。

だから残念だという感情を、征士なりに精一杯素直に表現して伝えたのだが、当麻の表情は全く変わらない。
寧ろ「会社に行く」と言った征士の言葉さえ聞いてなかったような顔だ。


「とうま、」

「それって朝から?」


話を聞いていたか?と言おうとした声を遮って、当麻は更に質問を重ねた。


「朝、……から、行くつもりだ」

「何時まで?夕方まで?」

「いや、そうだな………昼までには終わると思う」


繰り返すが、征士が明日する事は、あくまで確認の範囲だ。
書類の日付、遣り取りをした内容に該当するものがあるか。
ただそれだけの事だ。
目を通してどこに何があったかというのを大体の範囲で覚えておけば、週明けの会議がスムーズに進むという程度のことなので、
そう時間はかからない。
だからそう答えると、漸く当麻の表情が変わった。
にぃっと笑っている。


「どうした?」

「あそこ行こうぜ、ほら、あそこ」


そう言ってから必死に思い出そうという仕草をした当麻は、少し征士を待たせただけですぐにある店名を口にした。
それを聞いた征士は首を傾げる。
聞き覚えのある名前だ。

さぁ、どこだったか…

首を捻った征士だったが、ふいに後頭部に蘇った感触で「あ、」と小さく声を漏らした。


「枕を買った店か」

「そ!」


当麻が口にした店名は、2人の枕を購入した店だ。
個人個人の頭の形に合わせて枕を選んでくれるというその店は、デパートの中に入っている。
それも都合のいい事に、征士の会社からそう離れていない。
仕事だと聞いても当麻の表情に落胆の色がないわけだと納得して、征士も笑った。


「なるほどな。……何か欲しいものがあるんだな?」


枕を購入した店は枕専門店ではなく、寝具全般を取り扱っている。
シーツはベッドに合わせて買っており、そのベッドもデパートの中では買っていないから今回の買い物ではないだろう。
では何だろうかと考えていると、当麻が小さく頷いた。


「バスローブ。買おうと思って」

「…………………バス…ローブ…?」


それに征士がたどたどしく返した。

バスローブ。
非常に言い辛そうだった。

日本人離れした顔に日本人離れした体躯を持った征士だが、中身は立派を通り越して些か時代錯誤気味な日本男児だ。
そんな彼は古きよき日本を体現したような家で育っている。
その征士でも、子供の頃から眠る時はパジャマを着ていた。
だが伊達家には来客用の寝巻きとしての浴衣が何着もある。
当麻も何度かそれを着用している。
(これは、当麻も自分の着替えの中にパジャマを持って行ってはいるのだが、伊達の母や祖父が「着なさい」と嬉しそうに出してくるので仕方ない)

パジャマ以外の寝巻きは浴衣という征士の生活の中に、バスローブというものは存在していないのだ。
あるとすれば、それは映画やドラマの中でのみの存在だ。それも、海外作品のものに限る。


「……バス、ローブを使うのか?」

「”使う”って言えば”使う”になるけど、もっと正しく言うと、着る、ね」

「バスローブを着るのか…」


想像してみた征士だが、イメージの中にないのでやはり上手く行かない。
自分の姿で想像したのが悪かったか、とイメージ内のモデルを当麻に置き換えてみる事にした。

白い膝丈の(映画で見たような)バスローブ。
それを着た当麻が風呂から出てきて飲み物を取り、ソファに腰掛けている。
優雅にゆったりと、上気した肌に気だるげな空気を匂わせて肘掛に凭れながら、そして…

足を広げて、股の間の青い茂みが剥き出しになっていることも構わず、ニュースで今日の野球の試合結果を見ている。

のが容易に想像できて、征士は項垂れた。


「…………………」


当麻なら絶対そうだ、という事に関しての”ガッカリ感”を感じたのは事実だ。
だがそれ以上に征士を落ち込ませたのは、

剥き出しになっている当麻の下半身に見慣れてしまい、有り難味がなくなってしまったらどうしようか…

と瞬間的に考えて己に対してだった。


「………?おい、征士、どうした?」

「いや………何でもない…」


つい先日、何を話していた時だったかはもう忘れてしまったが、「お前、何かオッサン化したな、そういうトコ」と秀に言われたのを思い出す。
こういう所がそう言われる所以なのかもしれないと思うと、益々落ち込んでしまう。
しかし事実に落ち込んでも、決定していない未来に対してまで落ち込むのは無意味だ。
当麻の下半身に対しての特別な感情が色褪せることはない。それに長い付き合いで今までがそうだったのだから、大丈夫だ。
そう考えを切り替えた征士は顔をあげ、心配そうに自分を見ている当麻に目を合わせた。


「……で、欲しいのか。バスローブが」

「欲しいっていうよりも、要るなって思ったんだよ」

「要る?何故?」


タオル地のバスローブは確かに湯上りには便利かもしれない。
だがそれを許せば、今でもきちんと水気を拭き取らない当麻が髪から雫を垂らしながら家を徘徊するのは目に見えている。
それに普通のバスタオルを使っている今で特に不便はないはずだ。

征士だって反対するつもりはないが、そう思うと何故必要なのかというのは疑問になってくる。
それを聞き返せば、当麻は風呂場のある方を指差した。


「…?」

「風呂出たとこに置いておこうと思って」

「風呂だと?」

「そう」


征士は今度は声に出さず、目線だけで「何故?」と聞いた。当麻は風呂場を指差したままだ。


「もしもさ、万が一にだよ」

「ああ」

「何かしらの非常事態に陥った場合のため」


例えば火災だとか、地震だとか。と、当麻は続けた。


「急に外に出なきゃならない。そんな時に普通ならそこまで問題はないけど、風呂に入ってる場合だってあるだろ?
可能性は低くたってゼロじゃない。そんな時に非常事態に陥ってみろよ、素っ裸だぜ?」

「……………ああ、そういう事か」


服を着る間さえない状況に陥った際、いくら非常事態とは言え裸で飛び出すのは自他共に気まずい。
だが風呂場の外にある棚にバスローブが入っていれば、それは避けられる。
すぐに着られるし、ある程度水気も吸い取ってくれる。

確かにそれは必要か、と征士も漸く納得した。


「そうだな。…では明日、私の仕事が終ったら買いに行こうか」

「ん。どっかで昼食べて、それからだな」

「わかっ、…………いや、待て当麻」


大手を振って堂々とデートというものを堪能できない恋人にとって、2人での買い物はそれだけで浮かれるものだが、
征士は自らの気持ちにブレーキをかける。


「…なに?」

「バスローブを買うのだな…?」

「うん、そう」

「…………………マズくないか?」

「何で」

「…男が2人揃って、バスローブを買いに来るんだぞ。一体どういう関係だと思われかねん」


自分たちの関係に後ろめたい感情はなくとも、相手が好奇の目にさらされることは避けたい気持ちは征士も当麻も持っている。
2人揃って来店して、2人仲良く吟味して、そして2人で並んで2つのバスローブをレジに出す。
この状況が他者に一体どんな下衆な勘繰りを持たせるかと思うと、征士は素直に喜べない事に気付いた。


「1着だけ買えばいいだろ、そんなの」


だが当麻はケロリと言う。
それも、1着だけ、と。


「1着?何故?」

「普段に着るんじゃないんだから1着で充分だろ。何てったって非常時用だ」

「しかし、」

「しょっちゅう着るんじゃないから、どっちが着ても大丈夫なようにサイズは征士に合わせるつもりだしさ」


身長は似たり寄ったりの2人だが、身体の厚みだけは違う。
悔しいけど、と口を歪めた当麻だが本気で不平があるのではないのは征士も解っているので、そこは触れないでおいた。

確かに1着、それも征士に合わせるのであれば、友人の買い物に付き合っている友人、という関係性を作れる。
そうすれば不躾な他者からの好奇の目は避けられるのは事実だ。
だが先程の当麻の発言により、既にそこは征士の中で重要な問題ではなくなっていた。
それよりももっと大事な事がある。


「1着では駄目だ。2着要るだろう」

「何でだよ、1着で充分だろ。さっきも言ったけど、非常用なんだから」

「いいや、2着要る。非常用だからこそだ」


強く主張する征士に、今度は当麻が首を捻った。


「何で2着。そもそも2着も用意したら置き場所に困るだろ。棚に入れるつもりしてるのに、畳むと結構厚みがあるんだぞ、アレ」

「そんなもの、棚の整理をしなおせばどうとでもなる。兎に角2着だ」

「だから何で」


妙なところで頑固な征士に溜息を吐いて、もう一度当麻は尋ねた。
征士は真顔になり、当麻の肩に手を置く。
優しい重みと、他者の体温に当麻の心が気持ちとは関係なくゆらりと揺れる。


「………何だよ」

「当麻、非常事態に風呂に入っている可能性があるのなら、その入浴が1人ではない可能性も考えなければならん」

「………………………………………は?」

「普通に入浴していて、裸で飛び出すのも確かに気は引ける。だが私たちは必ずしも1人で入浴しているとは限らない。
2人で入っている場合だってあるし、ましてや良い雰囲気になっている可能性だってある。そんな時に何かが起こってみろ、どうなる?」


男が2人、裸で非常事態。
そんな状態でバスローブが1着では、どちらかが裸のままになってしまう。
ましてや征士の言っている状況なら、下半身はとても人様に前に晒していい状態ではないだろうから、余計にだ。


「バスローブを私が羽織ってお前を抱き締める形なら、確かに1着でもギリギリ大丈夫かもしれない。
だがどちらにせよ、男が2人、裸で抱き合っている様もあまり人に見せられる状態ではないだろう」


だからバスローブは2着だ。

征士が大真面目にそう言うと、当麻は思いっきり脱力してしまう。


「……そもそも男が2人、同じ家からバスローブで出てきた時点でもう周囲に関係を疑われるだろうが…」

「だが裸で、それも勃起状態で出てくるより生々しくはないだろう」

「そりゃあ…そうだけど………」


ご尤もな意見ではあるが、正論ばかりが常に喜ばれるわけではない。
有耶無耶に誤魔化してしまった方がいい表現というのも世の中には多々ある。
特に日本には隠すことの美というものがあるのだから。

コイツ、こういう所でも真っ直ぐ過ぎんだよなぁ…

当麻だって征士の言うことが最良の選択だと解っていても、若干の眩暈を覚えてしまう。
そして同時に、こんな状況でもそういう彼だからこそ好ましいのだと思う自分にも、呆れて眩暈。


「……………わかったよ、……明日、2着買おう」

「うむ。では待ち合わせはどうする?私が会社に行く時に車で一緒に出て、どこかで時間を潰すか、それとも…」

「昼頃に征士の会社近くに着くように電車で行っても、俺はいいけど?」

「ではどこかの店で待っててくれるか?仕事が終り次第、連絡する」

「はいはい、了解」

「そうだ、当麻。お前、携帯を忘れたり充電には気をつけておけよ?」

「解ったって。…あー、明日、どこで何食べよっかなー」




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明日はデート。