父子(おやこ)



なるほど確かに俺は冷静だ、とまるで他人事のように当麻は自分を評価した。
左腕に刺さった針はそのまま点滴の袋に繋がっている。



当麻の身に異変が起こったのは、いつものように会社へ行く征士を玄関で見送って少しした頃だった。

いつもと同じように玄関のドアが閉まり、さてじゃあ洗い物でもしてから仕事にとりかかりましょうか、なんて考えてリビングに足を踏み入れる。
その瞬間、いきなり腹部に激痛が走った。
痛いなんて言葉で足りるようなものじゃない。
あっという間に体中から汗が吹き出て、着ていたシャツが濡れていくのが判る。
体はどんどんと体温が下がり冷たくなっていくのに、腹部の痛みに全神経を持っていかれて構うことさえ出来ない。

取敢えず当麻は震える体に活を入れ、トイレに篭る事にした。
妙なものを食べた覚えはないが食中毒の類ならば上からでも下からでも、何かしら出せばマシにはなるはずだ。

だが、出ない。
痛みは増すばかりだ。
あまりに急激な痛みは一時的なのかそれとも継続的なのかさえ判らない。

当麻はトイレに篭ったまま、暫く様子を見る事にした。
痛い事に変わりはないが、少し待てば何か、せめて吐き気でもきてくれるかも知れない。
そうすれば状況も変わるはずだ。
そう信じて当麻は暫くそのままの姿勢でいた。

だが駄目だ。
状況は変わらないどころか、明らかに悪化している。
腹部の痛みは激しく、汗は止まる様子がない。

このままじゃマズイな…

痛みに耐えながらも、頭の片隅に残っていた理性が呟いた。
そして当麻は這うようにしながらトイレを後にすると、テーブルの上に置きっぱなしになっていた携帯を手に取り自ら救急車を呼んだ。




運び込まれた病院で処置を受け、ある程度の検査も済ませた今はベッドに横になっている。

痛みはすっかりと引いた。
最初に打った点滴に入れてもらった痛み止めが効いたようだ。
腹痛の原因はまだ判らないが特に異常も見つかっていない。
だから少しすれば帰れるものだと思っていた当麻に、歳若い看護士は天使の微笑で言った。
「今日1日は入院して様子を見ますからね」と。

どこでも寝れるがどうせ寝るなら家の、あの広々としたベッドで眠りたい当麻は素直に顔を顰めた。
何と言っても病院のベッドは狭い。そして硬い。しかもシーツはペラペラだ。
眠るのが大好きな当麻としては、ちょっとお断りしたい状況だった。
だが(今の当麻から見て)残酷な白衣の天使は返事も待たずに当麻をエレベーターに乗せ、問答無用に病室へと運び込んでいった。

仕方ない。個室だし今日1日くらいは我慢するか…
そう諦め始めると、病室の入り口に人影が見えた。
首を伸ばして確認をすると。


「………………あれ?」

「大丈夫なのか」


そこに居たのは、父の源一郎だ。
今は日本に帰ってきていて、間のいい事にちょうど東京に滞在していた。
それは当麻も知っていることだったが、何故その父が病院に居るのだろうか。

と考えてすぐに思い出した。


「そうか、俺、連絡先を聞かれて親父って答えたのか」



救急車で搬送されている最中に、ご家族か誰か連絡の付く方は居ますか?と聞かれていた。
一緒に暮らしている事で考えれば征士が妥当なのだが、それこそ妙齢の男が指名するのが同じく妙齢の男というのはどうだろうかと、
緊急事態にもかかわらず冷静な頭は考え、咄嗟に当麻が口走ったのは、


「お、親父……!…、けい、たいの……羽柴源一郎っての、そこに連絡してください…!」


という言葉だった。




なるほど、確かに俺は冷静だ。
子供の頃からそう評され続けてきて、まぁそうなんだろうなという自覚はそこそこにあったものの、ここまで自分に感心したのは初めてかもしれない。
当麻は眉間に皺を刻んでこちらを見続けている父親を視界の端に捉えて、妙に居た堪れない気持ちになってきた。


「………その、……悪かった」


そして気持ちそのままに、小さく謝ると眼鏡の奥で父の目が驚きの表情を見せる。


「何だ急に」

「いや、親父、仕事中だったよなぁって」


世間一般で考えれば定年している年齢の父だが、未だ現役の科学者だ。
今も世界を飛び回っているほどには名も通っているのだから、暇という事はあまりない。
多忙な父の身を気遣って言うと、小さく溜息を吐いて父は肩の力を抜いた。


「そのくらい。……この歳になって初めて、息子が病院に運び込まれたと言われた時は、流石に焦ったがどうという事じゃない」

「…そ」


一人で暮らすという意味での自立ならとっくの昔にしていた当麻は、子供の頃から病気になっても全て自分で対処してきた。
それが急に、大人になってこんな弱った姿を見られるというのは恥ずかしいやら情けないやら、擽ったいやらでどんな顔をしていいのか迷ってしまう。
迷い困った果てにいつまでも立ちっ放しの父親に取敢えず椅子を勧めると、父も同じだったのか、曖昧な言語で返事をして用意されていた椅子に
腰を落ち着けた。


「…………………」

「…………………」


そしてすぐの沈黙。
不仲ではないし会話がないわけでもない親子は、しかしこうして向き合った事がない。
弱った姿を見せたことがない息子がいるのなら、息子の弱った姿を見た事がない父親も居るのだ。

細い体は親子共通で、それでもタフだということも共通していた。
ぐうたらとして寝ているのではない息子の姿に、父もどうしていいのか迷ってしまう。


「………その、」


今度は父から切り出す。


「…なに?」

「…原因は、何だったんだ」

「知らない。レントゲンやエコーじゃ何も出なかった。血液検査の結果はまだ来てないけど、この分だと多分アッチも何も出ないと思う」

「そうか……………」

「うん…」


また、沈黙。
左腕に点滴の針が刺さっている当麻は動きに制限があるせいで、持て余した空気から逃げることも出来ない。
唯一自由に動かせる視線だけで父を見ると、組んだ手の上で忙しなく指が動いていた。

心配されているのは判る。そして、どうしていいのか迷っているのも。
ただ解っても当麻にもどうしようもなかった。
これがもし、父ではなく母が居たのならまた違っただろう。
「変なモノ食べたんじゃないの」「お腹冷やしたんじゃないの」「ねぇ暇じゃない?」などと次々に質問を投げかけてきて、
気まずい空気なんて漂う隙さえないはずだ。

父が苦手なわけではない。ただ、改めてこうして向き合うと何と言うか、…気まずい。
それはお互い様で、そして判るのもお互い様だから、余計に。


「………あー、…あのさ、…」

「どうした。腹でも減ったか?」


思い切って息子が口を開くと、父は少し前のめりの姿勢で矢継ぎ早に聞いてくる。


「いや、今日は夜まで絶食らしいし、今はまだ何か食べるのも怖いからいいよ。つーか俺はどんだけ食い意地が張ってるイメージだ」

「お前は昔から大飯食らいだっただろう。…それより何だ」

「あ、いや……その、さ。親父、仕事抜けてきてくれてるし、俺、もう大丈夫だし、いいよ」


当麻としては極力言葉を選んだつもりだが、それでも言ってからしまったと思った。
まるで居て欲しくないように聞こえなかっただろうか。
少し焦ってもう一度父の手を見る。
指は動きを止めていた。


「あ、ち、違う。その、帰れってんじゃなくってさ、その、…だから、親父も忙しいのにって、」

「当麻」


息子の名を呼んだ父の声はいつもより少し低い。
その声を、俺の声が征士みたいに低くないのは遺伝だ、とまるで逃避のように当麻は考えていたが、自分と同じ垂れた目が
じっと見ているので下らない思考はすぐに止めた。


「………………なに…」

「電話は朝一番だったから、仕事場には連絡をすぐに入れて遅れる事は言ってある。大丈夫だ。それに、」


息を吐いて、目を閉じて。
ゆっくりと目を開けた父は、ありったけの勇気をかき集めたかのような声で、息子に言った。


「……………今の状態で1人にするのは不安が残る。…伊達君がくるまで、私はここに居るつもりだ」





どこかで人の話し声が聞こえてきて、当麻の意識は浮上する。
いつの間にか眠っていたらしい。
意識が途切れる前のことを何となしに思い出すと、「少し休みなさい」と父親が言ったような気がする。
それに自分は返事をしただろうか、とぼんやりと考えていると、話し声がさっきよりも鮮明に聞こえてきた。


「それでは、今は何も食べられない状態なんですか?」

「そうらしい。夜までは絶食だと言っていたから」


父の源一郎と、そしてもう1人は恋人の征士だ。
征士が来てくれた事にも勿論安心した当麻だが、目が覚めても父がいてくれた事にもっと安心する。
そして嬉しくなってもう少し目を閉じたままにした。


「そうですか……あの、すみません、お義父さんもお忙しいでしょうに」

「いや、きみこそ忙しかっただろう。仕事は大丈夫なのか?」

「ええ、入院だと聞いたので早退させてもらいました。身の回り品や着替えが必要でしょうから」

「取りに帰ってくれていたのか」

「はい。やはり使い慣れたものの方がいいかと思いまして」


そうそう、俺って結構ナイーブだからね。
なんて当麻は心の中でだけ口を挟む。
よく考えてみると、この2人の、2人による、2人だけの会話なんてそう滅多に聞けるものではない。
もっと変な緊張をしているかと思いきや、どちらも案外落ち着いて会話していることに当麻の興味はそそられる。
痛みがすっかり引いた今は、折角だからとそれを楽しもうと当麻は息を潜めた。


「そうか、いや、ありがとう。…………ところで」

「どうかされましたか?」

「……当麻も起きたようだから、私はこれで失礼する」

「………っ!?」


驚いて目を開けると、不安そうに眉間に皺を刻んだ姿は既になく、いつもの冷静な顔をした父がいた。
いつの間にやら椅子からも立ち上がり、カバンを手に持っている。
本当に帰るつもりらしい。


「お、おや、じ………っ、…え、か、かえんの?」

「言っただろう。伊達君がくるまでいる、と」


つまり、来たから帰る、と父は言う。


「当麻君も今起きたところですし、折角ですからもう少しゆっくりされては…」


征士も気遣って椅子を進めたが、源一郎は首を横に振った。


「病院で医者や看護士以外の人間が出来ることは少ない。そこに2人もいても仕方がないだろう」

「ですが、」

「そろそろ職場に顔を出さんとならん。ある程度安心も出来たし、私はこれで。…当麻、あまり伊達君に我侭を言うなよ」


それから少しは生活習慣を見直せ、と言う父に、当麻はいつもの癖でつい「親父に言われたくねぇな」と返してしまう。
すると間髪入れずに、「だから禁煙した」という言葉が飛んでくる。
いつも通りの、どこかシニカルな親子の会話を短く交わすと、愈々父は病室の入り口へと向かう。


「お、親父…!」


その背に息子が声をかけた。
父は立ち止まって首だけで振り返る。


「その、…………今日は、……ありがと」

「……………………………ああ」


照れて小さな声ながらも礼を言う息子の横で、同性の恋人が深々と頭を下げているのを見て、源一郎は口端を緩めながらゆっくりと部屋を出た。
小さく歌う鼻唄は、息子と同じで調子外れだった。




*****
こういう時に不器用なところもよく似た、父子。
征士に連絡したのは、勿論源一郎さん。